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箱庭の主 ~俺だけが異能に目覚めたので、小さな世界を育てていたら国家機密になりました~  作者: にゅん


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水の中にも生命を

 森を作り始めてから、箱庭へ入った時に感じる空気は明らかに変わっていた。もちろん本当に空気の成分が変化したのか伊織には分からないが、草地と泉しかなかった頃と比べれば、今は視界へ入ってくるものも聞こえてくる音も格段に多い。


 若木だった樹木は成長を続け、その下には低木や草が広がっている。畑では自分が食べる程度の野菜が育ち、三羽の鶏は今日も好き勝手に草地を歩いていた。


 そして最近の伊織が気にしているのは、水辺だった。


「陸だけ賑やかになってきたんだよな」


 泉そのものは、箱庭を手に入れた最初の日から存在している。


 水量が減っている様子はなく、汲んで畑へ使っても翌日には元の状態へ戻っていた。伊織自身も何度か飲んでいるが、これまで体調を崩したことはない。


 ただ、水の中にはほとんど何もいなかった。


 底には砂や小石があり、場所によっては水草らしいものも少し生えている。それでも魚が泳いでいる姿はなく、陸地と比べれば随分寂しい。


「魚を入れるなら、先に環境か」


 以前の伊織なら、購入画面から適当な魚を選んでいたかもしれない。


 しかし森を作り、小さな生き物まで含めた循環を意識するようになってからは、少し慎重になっていた。


 魚だけ入れても餌がなければ生きられない。


 水中にも小さな生物や植物が必要になるはずだった。


 休日の前夜、伊織は魚を飼育できる環境について調べていた。


 専門的な内容まで理解する必要はないが、最低限、水草や小さな水生生物などが関係していることくらいは分かる。


 箱庭側にも、それに対応するものが用意されていた。


 水辺環境へ適した植物や小型の水生生物を、まとめて導入することができる。


「本当に一通りあるんだな」


 翌朝、伊織は箱庭へ入ると、泉の周辺を確認した。


 最初から存在する泉を大きく改造するつもりはない。


 まずは一部へ水草などを追加し、小さな水辺環境を作ることにした。


 購入を決定すると、泉の浅い部分へいくつかの植物が現れた。


 水面から葉を出すものもあれば、水中へ完全に沈んだものもある。


 見た目だけでも、昨日までの泉とは少し印象が変わった。


「これだけでも結構違うな」


 伊織は水辺へしゃがみ込んだ。


 透明な水の中で、細い葉がゆっくり揺れている。


 それを眺めていると、小学生の頃に川で遊んだ記憶を少し思い出した。


 もっとも、ここには自分以外の人間はいない。


 水へ入ろうが、魚を捕まえようが、誰かに怒られることもない。


 自分だけの場所だった。


 数日間は魚を入れず、水辺の植物が定着するのを待った。


 箱庭の成長速度は相変わらず早い。


 最初は疎らだった水草も少しずつ広がり、水中の景色が変化していった。


 伊織はその変化を確認してから、小型の水生生物を追加した。


 目立つものではない。


 むしろ普通に眺めているだけでは、何が増えたのか分からないほどだった。


 それでも管理画面では、水中で新しい生命活動が始まっていることが確認できる。


「魚はもう少し待つか」


 伊織は焦らなかった。


 最近では、何か新しいものを入れてから数日間観察するのが習慣になっている。


 問題が起きなければ次を追加する。


 それだけでも箱庭は十分な速度で変化していった。


 一週間ほど経った休日。


 伊織はようやく魚を導入することにした。


 最初に選んだのは、淡水で暮らせる小型の魚だった。


 食用目的ではない。


 まずは水中で生態系が成立するのか確認するためだった。


 購入を決定すると、泉の中へ小さな魚影が現れた。


「おお、泳いでる」


 数匹の魚が、水草の間を動いている。


 伊織が水辺へ近づくと一斉に離れ、しばらくすると再び戻ってきた。


 その動きだけでも面白かった。


 草地しかなかった頃には考えられない光景だった。


 伊織はしばらくその場へ座り、魚が泳ぐ姿を眺めた。


 餌を与えるべきか迷ったが、管理画面では現在の水辺環境だけでも生存できると表示されている。


 そこで最初から人間が餌を与えるのではなく、どこまで自力で生活できるのか観察することにした。


「なるべく俺が何もしない方向でいこう」


 最近の伊織は、それを基本方針にしていた。


 箱庭へ入ること自体は好きになっている。


 しかし好きだからこそ、義務にはしたくなかった。


 毎日決まった時間に大量の餌を与え、畑を何時間も管理し、掃除を続けなければ維持できない場所になれば、いずれ会社と同じように面倒になる。


 それなら最初から、自然に任せられる部分を増やした方がいい。


 魚を導入して数日が経過しても、大きな問題は起きなかった。


 水草の間を泳ぎ、小さな生き物を食べながら生活している。


 伊織が何かを与えなくても、少なくとも今のところは問題なさそうだった。


 さらに時間が経つと、魚の行動範囲も広がった。


 水草の多い場所だけではなく、泉全体を泳ぐようになっている。


 水辺へ近づけば魚影が見える。


 それだけで、泉が以前よりずっと自然な場所に感じられた。


 そんなある日、伊織は管理画面を眺めていて、新しい項目が利用できるようになっていることに気づいた。


「水域拡張?」


 現在の泉を中心として、水の流れる範囲を広げられるらしい。


 これまでの泉は独立した小さな水場だった。


 しかし領域内部へ細い流れを作り、水辺そのものを広げることができる。


 伊織は少し考えた。


 箱庭の面積にはまだ余裕がある。


 森も現在は一部分だけであり、草地の方が圧倒的に広い。


 そこへ小さな川が流れていたら面白そうだった。


「やってみるか」


 伊織は泉から森の近くまで続く形で、細い流れを作ることにした。


 大きな川ではない。


 人間なら簡単に跨げる程度の小川だった。


 設定を決定すると、地面が静かに変化していく。


 泉の一部から水が流れ出し、緩やかな傾斜に沿って草地の中を進んでいった。


 伊織は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 地面が大きく割れるような派手な現象ではない。


 まるで最初からそこにあったかのように、小さな水路が形成されていく。


 数分後には、泉から続く細い小川が完成していた。


「……いいな、これ」


 伊織は素直に気に入った。


 小川は森の近くを通り、その先で緩やかに曲がっている。


 水音が増えた。


 草地と森だけだった景色に水の流れが加わったことで、箱庭全体が一段階自然らしくなったように感じる。


 伊織は小川に沿って歩いた。


 水は澄んでいる。


 まだ魚は泉から出てきていないが、水草の一部が流れの緩い場所へ広がれば、いずれこちらまで来るかもしれない。


 その日は何度も小川の周囲を歩いた。


 特に何か作業をするわけではない。


 ただ、自分で作った場所を眺めているだけだった。


 数週間が経過すると、予想していた変化が起きた。


 水辺の植物が小川の一部へ広がり始めた。


 伊織が植えたわけではない。


 箱庭の中で自然に増えたものだった。


 さらに小さな魚も、少しずつ小川へ入り込むようになった。


「勝手に広がってるな」


 森の時と同じだった。


 一度環境を作れば、そこにいる生命が自分で範囲を広げていく。


 伊織が一つ一つ配置する必要はない。


 それが分かってから、伊織はさらに手を出さなくなった。


 ただし、完全に放置しているわけでもない。


 数日に一度は管理画面を確認し、特定の生物だけが異常に増えていないか、水質に問題が起きていないかを見る。


 問題がなければ、それ以上は触らない。


 伊織にとって理想的な管理方法だった。


 箱庭を手に入れてから一か月ほどが経過した頃には、最初の日とは比較にならない景色になっていた。


 畑は小さいまま残っている。


 その近くでは鶏が歩いている。


 少し離れた場所には若い森があり、植物の間を昆虫が飛び回っている。


 泉からは小川が伸び、その水中には魚が暮らしていた。


 まだ規模は小さい。


 それでも、そこには確かに生態系らしいものが生まれ始めていた。


 伊織自身も、最近はPtを確認する回数が減っている。


 以前は新しいものを購入できるか確認するために見ていたが、今では必要な時だけ開けば十分だった。


 箱庭の中で生命が活動していれば、少しずつ蓄積されていく。


 その程度の認識で困らなくなっていた。


「次は何を増やそうかな」


 休日の午後。


 伊織は森の木陰へ折り畳み椅子を置き、缶コーヒーを飲みながら景色を眺めていた。


 以前ホームセンターへ行った時、箱庭で休憩するために買ったものだった。


 最近では、この場所で何もしない時間が好きになっている。


 会社で嫌なことがあった日でも、ここへ来れば誰もいない。


 電話も鳴らない。


 メッセージも届かない。


 聞こえるのは水と風、生き物の音くらいだった。


「土地がもうちょっと広かったら、色々できるんだけどな」


 そこで伊織は、久しぶりに領域情報を詳しく確認した。


 現在使っているのは初期領域だけである。


 森や小川を作ったとはいえ、全体の広さそのものが変わったわけではない。


 しかし箱庭には、領域を拡張する機能が存在していた。


 当然、最初から自由に無限拡張できるわけではない。


 箱庭内部の環境が一定まで成長し、生命循環が安定することで、段階的に新しい土地を開放できる仕組みらしい。


「これ、もう条件に近いのか」


 表示を見る限り、最初の拡張条件はかなり満たされていた。


 植物だけだった頃には足りなかった。


 しかし森を作り、昆虫を入れ、鶏や土壌生物が暮らし、水中にも生命が増えたことで、箱庭全体の状態が変化している。


 伊織は少し嬉しくなった。


 何か特別な攻略をしたわけではない。


 ただ自分が面倒にならないよう、いろいろな生き物が勝手に暮らせる場所を作っていただけだった。


 それでも箱庭は育っている。


 伊織はその日の夜、ノートを開いた。


 最初のページには、箱庭を手に入れた日の記録が残っている。


 草地と泉しかない場所だった。


 その後にジャガイモを植え、鶏を飼い、森を作った。


 そして今では小さな川に魚まで泳いでいる。


 一か月前の自分が今の箱庭を見たら、かなり驚くだろう。


 伊織は新しいページへ、今後やってみたいことを書いていった。


 今の森をもう少し広げること、水辺にも植物を増やすこと、今いる生き物が安定して暮らせる環境を優先すること。そして条件を満たしたら、最初の領域拡張を試してみること。


 以前のように、食べられるものばかり考えてはいなかった。


 むしろ最近は、自分に直接役立たない生き物の方が気になっている。


 それらを増やした方が、箱庭全体が勝手に育つからだ。


 そして数日後。


 仕事を終えて帰宅した伊織が、いつものように箱庭へ入った時だった。


 畑を確認し、鶏の様子を見てから森へ向かう。


 特に異常はない。


 小川にも魚が泳いでいる。


 いつもと同じ景色だった。


 ところが管理画面を開いた瞬間、一つだけ見慣れない通知が表示された。


 《初期領域の生命循環が安定しました》


 伊織は足を止めた。


 続いて表示された文章を読む。


 箱庭が次の成長段階へ到達したため、初回の領域拡張が可能になったらしい。


「……ついに広げられるのか」


 伊織は周囲を見渡した。


 一か月前には何もなかった小さな世界が、自分の手をほとんど借りなくても動き始めている。


 その世界を、さらに広げられる。


 伊織はすぐには拡張を実行しなかった。


 今日はもう遅い。


 どうせなら休日に時間を取って、何が変わるのかゆっくり確認したかった。


「土曜日にやるか」


 そう決めて現実世界へ戻る。


 その日の伊織は、少しだけ楽しみにしながら眠った。


 最初の領域拡張によって増えるものが、単なる草地だけではないことなど知らないまま。


 そして《箱庭》が生命の循環を十分に受け入れたことで、地上だけではなく、その足元にも新しい変化が生まれ始めていることにも、まだ気づいていなかった。

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