小さな森を作ろう
鶏を飼い始め、土の中にも小さな生き物を増やしてから、伊織は箱庭を見る目が少し変わった。以前なら空いている草地を見ると畑を作る場所だと考えていたが、今では無理に何かを収穫する場所へ変える必要はないと思い始めている。
畑は自分が食べる分だけあればいい。
それよりも、できるだけ自分が手を出さなくても維持される場所を増やしたい。
そう考えた伊織が次に目をつけたのが、樹木だった。
「森って言っても、いきなり大量に植える必要はないよな」
休日の朝、伊織は箱庭の草地へ座り込み、《購入》の植物項目を眺めていた。樹木だけでも思っていた以上に種類が多く、果実を収穫できるものから、木材として利用できるものまで選択できる。
もっとも、伊織に林業を始めるつもりはない。
欲しいのは、箱庭の中へ自然に近い環境を作ってくれる木だった。
管理画面の説明を読み進めると、現在の箱庭環境に適した樹木をまとめて導入する機能があることに気づいた。単一の種類だけを大量に植えるのではなく、複数の植物を組み合わせて小規模な林を作れるらしい。
「こっちの方が楽そうだな」
伊織が重視したのは、そこだった。
一本ずつ種類を調べ、植える場所まで細かく決めるのは面倒である。趣味として楽しめる範囲ならいいが、箱庭を管理するために毎週休日が潰れるようでは困る。
伊織は草地の端に近い場所を選んだ。
泉や畑からは少し離れている。
鶏が歩き回る範囲とも重ならないようにして、まずは小さな林を作ることにした。
購入を決定すると、これまでとは違う変化が起きた。
地面から突然大木が生えてくるわけではない。
選択した場所へ若い苗木が現れ、その周囲にも背の低い植物がいくつか配置された。
「最初から森になるわけじゃないのか」
伊織は少し安心した。
昨日まで何もなかった場所へ完成した森林が突然出現したら、さすがに現実感がなさすぎる。
今目の前にあるのは、まだ森とは呼べない。
若木が点々と立ち、その間に低木や草が植えられている程度だった。
それでも以前の草地とは明らかに違う。
伊織は一本の若木へ近づき、幹へ軽く触れた。
細い。
自分の腕よりもずっと細い木だった。
しかし管理画面では正常に定着していると表示されている。
「これも成長が早いんだよな?」
確認すると、やはり箱庭の影響を受けるらしい。
ただしジャガイモほど極端ではなかった。
野菜なら短期間で収穫できるほど成長が促進されるが、樹木については種類や環境によって差があり、大きく育つまでには相応の時間が必要になる。
それでも現実世界よりは遥かに早い。
「ちょうどいいか」
伊織はすぐに大木が欲しいわけではなかった。
むしろ毎日少しずつ変わっていく方が面白い。
その日は若木へ水を与え、周囲を簡単に確認したところで作業を終えた。
翌日から、伊織は畑と一緒に林も確認するようになった。
最初の数日は大きな変化がなかった。
それでも一週間ほど経過すると、明らかに葉の数が増えている。
若木の間に植えられていた低木も広がり始め、地面を覆う植物にも変化が出ていた。
さらに面白かったのは、管理画面に表示される情報だった。
植物の種類が増えたことで、箱庭内部の生命活動が以前より複雑になっているらしい。
伊織には専門的な部分までは理解できない。
ただ、畑だけだった頃より状態が良くなっていることは分かった。
「種類が多い方がいいのか?」
その疑問を持った伊織は、休日に少し調べてみた。
現実世界の生態系について、今まで真面目に勉強したことなどない。
しかし調べ始めると、植物だけでも様々な役割があることが分かった。
さらに昆虫や鳥、微生物などが加わることで、環境はより複雑になっていく。
箱庭の説明にあった《生命循環》という言葉が、少しずつ現実的なものとして理解できるようになってきた。
「全部を俺が管理する必要はないんだな」
むしろ逆だった。
自分が全てを管理しようとする方が大変になる。
畑なら種を植え、水を与え、収穫する必要がある。
鶏なら餌を用意し、小屋を掃除する。
しかし自然に近い場所なら、それぞれの生き物が自分で生きてくれる。
もちろん完全に放置できるわけではない。
それでも自分が毎日作業する量は減らせるはずだった。
伊織にとって、その考え方は非常に魅力的だった。
「だったら、虫も入れた方がいいのか」
以前なら、わざわざ虫を購入しようとは思わなかった。
しかし植物が増えれば、それを利用する昆虫が必要になる。
伊織は購入可能な生き物を確認した。
そこで目に入ったのが、ハチだった。
もちろん、人間を積極的に襲うような種類ではない。
植物の受粉を助ける目的で導入できる小型のハチが存在していた。
「ハチかぁ……」
伊織は少し迷った。
役に立つことは分かる。
しかし箱庭へ入るたび周囲を飛び回られるのは少し怖い。
そこで管理画面の説明を詳しく読む。
箱庭で購入できる生物は、現在の環境で生存可能なものだけが表示されており、無理に導入しても大量繁殖して環境を壊すようなことが起きにくいよう調整されているらしい。
ただし、管理者が何を入れても絶対に安全という意味ではない。
環境そのものを作るのは、あくまで伊織だった。
「そこまで自動じゃないんだな」
その方がいいと伊織は思った。
何をしても能力側が勝手に正解へ修正してくれるなら、自分が箱庭を育てる意味がなくなる。
失敗する可能性があるからこそ、少しずつ試す必要がある。
伊織は最初から大量には導入せず、小規模な群れだけを選んだ。
購入を決定しても、目の前へ大量のハチが突然現れるようなことはなかった。
林の近くへ小さな巣が形成され、その周辺を数匹が飛び始める。
「……思ったより普通だな」
少し離れて観察している限り、伊織へ向かってくる様子はない。
ハチは周囲の植物を行き来しながら、自分たちの活動を始めた。
その日の夕方。
畑を確認していた伊織は、花の周辺を飛ぶ一匹のハチを見つけた。
林へ導入したものが、畑まで来ている。
「ちゃんと移動するんだ」
当然と言えば当然なのかもしれない。
しかし伊織にとっては、少し感動する光景だった。
箱庭の生き物は、購入した場所から動かない飾りではない。
自分で移動する。
自分で餌を探す。
自分に必要な場所を利用する。
鶏も同じだった。
最近では囲いの外へ出している時間を増やしており、草地を歩き回っては地面をつついている。
林の近くまで行くこともある。
畑と鶏小屋と林。
それぞれ別々に作ったものだった。
しかし少しずつ、それらの間に繋がりが生まれている。
「なんか、本当に世界っぽくなってきたな」
伊織は泉の近くへ腰を下ろした。
箱庭を手に入れた最初の日は、草しかなかった。
音もほとんどなかった。
今は違う。
風が葉を揺らす音がする。
鶏の鳴き声が聞こえる。
小さな羽音も聞こえる。
まだ森とは呼べない若木の集まりでも、そこに生命が増えただけで箱庭全体の印象が大きく変わっていた。
伊織はそれからも、急激に生き物を増やすことはしなかった。
新しい種類を一つ加えたら、しばらく観察する。
問題がなければ次を考える。
その繰り返しだった。
数週間が過ぎる頃には、林の若木は目に見えて大きくなっていた。
最初は伊織の背丈より低かったものも、すでに見上げるほどまで育ち始めている。
枝葉が増えたことで、木の下には日陰もできた。
地面の状態も変わっていた。
落ちた葉がそのまま残る場所もあれば、時間が経つにつれて崩れて土へ混ざっていく場所もある。
ミミズや微生物を導入した場所だけではなく、少しずつ周辺へ活動範囲が広がっているらしい。
伊織は最近、落ち葉を片付けなくなっていた。
最初は掃除した方がいいと思っていたが、管理画面を確認すると、その必要がないことが分かったからだ。
落ちた葉は分解される。
土へ戻る。
そして、その土を植物が利用する。
「俺が掃除しない方がいいのか」
箱庭を綺麗にすることと、自然を健康にすることは同じではないらしい。
伊織はそのことを知ってから、必要以上に手を入れなくなった。
もちろん畑や鶏小屋のように、人間が利用する場所は管理する。
しかし林については、なるべく自然に任せる。
その結果、伊織の作業量は思っていたほど増えなかった。
むしろ箱庭の中へ入っても、何もせず眺めている時間が増えていった。
仕事で疲れた日には、缶コーヒーを一本持って箱庭へ入る。
泉の近くへ座り、林を眺める。
電波がないため、スマートフォンを見ることも少ない。
会社の連絡も届かない。
「ここ、結構いいな」
誰にも邪魔されない。
自分しか入れない。
それだけでも十分だった。
ある休日、伊織は林の中を歩いていて、小さな変化に気づいた。
自分で植えた覚えのない場所から、若い芽が出ている。
「これ……俺が買ったやつじゃないよな?」
管理画面で確認する。
異常ではなかった。
既に存在する植物が繁殖し、新しい個体が育ち始めているだけだった。
伊織はしばらく、その小さな芽を眺めた。
これまでは自分が購入したものばかりだった。
自分が植物を選び、自分が場所を決めていた。
しかしこれは違う。
箱庭の中で生きている植物が、自分の力で次の世代を増やした。
「……勝手に増えるんだな」
当たり前のことなのに、妙に嬉しかった。
自分が植えなくても植物が増える。
自分が指示しなくてもハチが飛ぶ。
鶏も勝手に草地を歩く。
土の中では目に見えない生き物が活動している。
少しずつ、自分がいなくても動く場所になっている。
その日、伊織は管理画面で《生命循環》の状態を確認した。
細かな数字を見ることはしなかった。
ただ、箱庭を手に入れた当初より明らかに状態が良くなっていることだけは分かった。
Ptについても、最近はほとんど意識していない。
気づけば以前より余裕ができており、新しい植物や生物を少し追加する程度なら困らなくなっていた。
「放っておいても育つなら、これが一番楽だな」
その結論はいかにも伊織らしかった。
箱庭を効率よく発展させようという壮大な計画があったわけではない。
毎日面倒な作業をしたくなかった。
だから自然に任せられる部分を増やした。
ただ、それだけだった。
しかし《箱庭》にとって、その方向性は非常に相性が良かった。
畑だけを増やすよりも、植物の種類を増やし、その植物を利用する生き物を増やし、死んだものが再び土へ戻る環境を作る。
生命が一方向に消費されるのではなく、何度も巡るようになる。
小さな循環が、いくつも重なり始めていた。
伊織はまだ知らない。
《箱庭》が育てるものは、地上の植物や動物だけではなかった。
地面へ落ちた葉も、枯れた草も、生き物が残したものも、長い時間をかけて土へ戻っていく。
そして現実世界とは比較にならない速度で生命が育つこの場所では、その先にある変化まで、現実と同じ時間を必要とするとは限らなかった。
もっとも、その異常に伊織が気づくのはまだ先になる。
今の彼が考えていたのは、もっと単純なことだった。
「次は、魚でも入れてみるか」
伊織の視線は、箱庭の中央を流れる小さな水源へ向いていた。
陸地に生命が増えたなら、次は水の中にも何か欲しい。
そう思っただけだった。




