箱庭に動物を
ジャガイモの初収穫から数日後、伊織の箱庭ではニンジンとタマネギが順調に育っていた。最初に作った畑もそのまま残しているため、何もなかった草地の一角だけを見るなら、ようやく小さな家庭菜園らしい雰囲気になっている。
もっとも、伊織自身はこれ以上畑を広げるつもりはなかった。自分一人で食べる量なら今の広さでも十分であり、異常な成長速度を考えれば、むしろ作りすぎないよう気をつける必要がある。
その代わり、最近は別のことが気になっていた。
「やっぱり鶏かな」
仕事から帰った伊織は、夕食を済ませてから《購入》を眺めていた。候補にしているのは以前から気になっていた鶏で、箱庭へ植物以外の生き物を入れる最初の試みでもある。
鶏を選んだ理由には、卵を得られるという分かりやすい利点があった。
ジャガイモやニンジン、タマネギまで自分で用意できるようになれば、次に欲しくなるのは動物性の食料だった。さすがに肉まで自給するつもりはないが、卵なら一人暮らしでも頻繁に使う。
ただし、生き物を飼う以上は責任も発生する。
植物なら一日程度確認できなくても大きな問題にはならないだろうが、動物は餌と水が必要になる。病気になる可能性もあれば、囲いを作らなければ好き勝手に歩き回るかもしれない。
伊織はすぐには購入せず、数日かけて鶏の飼育について調べた。
平日の夜に動画を見て、休日にはホームセンターへ足を運ぶ。必要になりそうな物を確認しているうちに、自分がどんどん会社員ではなく趣味の農業初心者になっている気がしてきた。
「異能を手に入れたのに、検索履歴が鶏小屋ばっかりなんだけど」
誰かにスマートフォンを見られたら、突然養鶏を始めようとしている人間にしか見えない。
それでも調べた意味はあった。
箱庭には《管理設備》として簡単な飼育小屋を設置できることが分かったからだ。完成した設備を設置できるため、自分で木材を買って一から小屋を建てる必要はない。
伊織にとってはありがたかった。
畑を少し作っただけでも面倒だったのに、休日を何日も使って鶏小屋を建築する気にはなれない。
次の休日、伊織は朝から箱庭へ入った。
畑の状態を確認してから、少し離れた場所へ歩いていく。
泉から遠すぎず、畑とも隣接しすぎない場所を選び、《管理設備》から小型の飼育小屋を設置した。
決定した直後、草地の上へ淡い光が広がった。
数秒ほどで光が消える。
そこには、小さな木造の小屋が建っていた。
「これは楽だな」
伊織は素直に感心した。
小屋は豪華なものではない。
数羽程度の鶏を飼育することを想定した簡素な設備で、内部には休める場所も用意されている。周囲には低い囲いもあり、最初に試す程度なら十分そうだった。
扉を開いて内部まで確認する。
木材の匂いがする。
触れば普通の木だった。
釘らしい金属部品も使われているため、単なる幻ではない。
「これ、壊れたら自分で直すのか?」
確認すると、軽い破損なら管理機能による修復が可能らしい。
ただし、何でも永久に無料で維持されるわけではない。
伊織はその説明を読んで少し安心した。
便利ではある。
しかし箱庭は、何も考えなくても全てを解決してくれるほど都合のいい能力ではないようだった。
小屋の準備が終わると、いよいよ鶏を購入する。
最初から大量に飼うつもりはない。
伊織が選んだのは雌鶏三羽だった。
購入を決定すると、小屋の近くへ三羽の鶏が現れた。
「おお……本物だ」
当たり前の感想しか出てこなかった。
一羽が首を動かしながら伊織を見る。
もう一羽はすぐに足元の草をつつき始め、残った一羽は小屋の周囲を落ち着かない様子で歩いていた。
画面の中に表示されていた生き物が目の前で動いているだけなのに、植物を購入した時とは印象がまるで違った。
命がある。
その実感が強かった。
「今日からよろしくな」
鶏に言葉が通じるはずもないが、伊織は思わず声をかけた。
当然、返事はない。
代わりに一羽が近づいてきて、伊織の長靴を軽くつついた。
「痛くはないけど、そこ食えないぞ」
伊織が離れると、鶏は興味を失ったように草の方へ向かった。
見ているだけなら面白い。
問題は、これから毎日世話をする必要があることだった。
伊織は現実世界から持ち込んだ餌を用意し、水も与えた。
箱庭側でも飼料を購入できるが、当面は現実世界から用意するつもりだった。
ところが数日飼育してみると、少し予想と違うことが起きた。
鶏は伊織が与えた餌だけを食べているわけではなかった。
草地を自由に歩かせていると、地面をつついて何かを探している。
箱庭にも最初からごく小さな虫などは存在しているらしく、それを見つけて食べることがあった。
「ちゃんと自分で探すんだな」
伊織は少し考えた。
箱庭へ生き物を入れるということは、単純に飼育対象を増やすだけではないのかもしれない。
鶏が草地を歩く。
草をつつく。
小さな虫を食べる。
そして当然、排泄もする。
その排泄物はいずれ土へ戻る。
植物だけだった頃には存在しなかった動きが、箱庭の中で始まっていた。
管理画面でも、生命活動が以前より活発になっていることが確認できた。
Ptも少しずつ蓄積されている。
伊織は数字そのものより、その理由に興味を持った。
「植物を増やすだけじゃないんだな」
箱庭は、畑の収穫量だけを評価しているわけではない。
そこに存在する生命が活動すること自体に意味がある。
鶏を入れてから、そのことが以前より分かりやすくなった。
そして飼育開始から数日後。
朝の確認で小屋へ入った伊織は、小さく声を上げた。
「あった」
巣箱の中に卵が一つあった。
見た目は普通の鶏卵だった。
手に取ってみると、スーパーで売られているものより少しだけ温かい。
自分が飼っている鶏が産んだ卵というだけで、妙に特別なものに感じられた。
伊織はその日は食べず、箱庭から現実世界へ持ち帰った。
まず外へ持ち出しても問題がないことを確認し、冷蔵庫へ入れておく。
翌朝まで変化がないことを確認してから、目玉焼きにした。
「……普通に卵だな」
味も普通だった。
少なくとも伊織には、スーパーで買う卵との明確な違いは分からない。
ただ、自分の箱庭で産まれたという満足感だけはかなり大きかった。
ジャガイモとタマネギを箱庭から持ち帰り、卵も使えば、朝食の一部くらいは箱庭だけで用意できる。
「結構それっぽくなってきたな」
伊織は少し嬉しくなった。
もっとも、鶏を飼い始めたことで新しい面倒も増えた。
毎日の餌や水だけではない。
小屋も定期的に掃除しなければならない。
休日に掃除をしていた伊織は、集めた鶏の排泄物を前にして考え込んだ。
「これ、捨てる場所どうするんだ?」
現実世界へ持ち帰って家庭ゴミとして処分するのは嫌だった。
箱庭には十分な土地があるのだから、内部で処理できる方がいい。
そこで管理画面を調べる。
すると《生命循環》に関する説明の中に、伊織がこれまで詳しく見ていなかった項目があった。
動植物から生じる有機物は、土壌生物や微生物によって分解され、再び植物が利用できる状態へ戻すことができる。
現在の箱庭にも最低限の微生物は存在しているが、生命の種類を増やせば、より安定した循環を作れるらしい。
「微生物まで買えるのか……」
購入画面を確認すると、確かに存在した。
ただし一種類ずつ細かく選ぶような形式ではない。
土壌環境を整えるための微生物群として導入できるようになっている。
さらに調べると、ミミズなどの小さな生き物もあった。
最初に購入画面を見た時には、野菜や羊の方が目立っていたため気にしていなかった。
しかし今なら意味が分かる。
鶏の排泄物。
枯れた植物。
収穫後に残る葉や茎。
そういったものを分解して土へ戻してくれる生き物がいれば、自分で毎回処理する必要が減る。
「……こっちの方が重要なんじゃないか?」
伊織は初めて、食べられない生き物へ強く興味を持った。
これまで植物を育てる目的は、基本的に自分が食べるためだった。
鶏を飼った理由も卵だった。
しかしミミズや微生物は違う。
直接食料になるわけではない。
それでも箱庭を維持するためには役に立つ。
何より、自分の作業を減らせる。
「それは大事だな」
伊織にとっては非常に重要だった。
箱庭を育てること自体は楽しい。
しかし毎日何時間も管理しなければならなくなれば、いずれ面倒になる自信があった。
会社員として働いている以上、箱庭だけに時間を使うこともできない。
ならば、自分が世話をしなくても回る場所にすればいい。
その考えが、伊織の中で初めて形になった。
翌日の休日。
伊織は小さな区画を作り、そこへ土壌環境を整える微生物群とミミズを導入した。
見た目には地味だった。
鶏を購入した時のように動き回るわけでもなく、ジャガイモのように数日で目に見える成長をするわけでもない。
それでも数日経つと、少しずつ違いが現れた。
集めて置いていた植物の残りや鶏小屋から出たものが、以前より土へ馴染むようになっていく。
管理画面でも、分解活動が始まったことが確認できた。
「ちゃんと循環してるんだな」
伊織はしゃがみ込み、土を指で軽く崩した。
箱庭を手に入れた直後は、便利な畑を作ればいいと思っていた。
しかし今は少し違う。
植物だけでは足りない。
動物だけでも足りない。
小さな生き物まで含め、それぞれが別の役割を持っている。
そして、それらが繋がれば、自分が何もしなくても箱庭の中で生命が回り始める。
伊織は管理画面を開き、これまでほとんど見ていなかった植物を眺めた。
食べるための野菜ではない。
木だった。
小さな果樹から、時間をかけて大きく育つ樹木まで存在している。
その瞬間、伊織の中に一つの考えが浮かんだ。
「森でも作ってみるか?」
畑のように毎回植えて収穫する必要はない。
木なら一度根付けば長く生きる。
そこへ虫や鳥などが暮らせるようになれば、今よりもっと自然に近い環境になるかもしれない。
何より、毎日世話をする必要が少なそうだった。
伊織は箱庭を見渡した。
小さな畑があり、三羽の鶏が歩き、その足元では目に見えないほど小さな生命まで活動を始めている。
まだ何もない場所の方が圧倒的に広い。
だからこそ、その空いている場所へ何を作るのか考えるだけでも面白かった。
自分が働き続ける農場ではなく、生き物たちが勝手に暮らしていける小さな世界を作る。
その方が《箱庭》という名前にも合っている気がした。
伊織はその日のノートへ、今までとは少し違う目標を書き加えた。
畑を増やすよりも、箱庭の中で生命が自然に循環できる環境を増やしていく。
それはまだ、二十二歳の会社員が趣味で思いついた程度の方針だった。
だが、この小さな方向転換によって《箱庭》は単なる高速農場ではなく、一つの生態系として成長し始めることになる。
そして植物が根を張り、生き物が暮らし、死んだものが土へ戻る循環が積み重なるほど、地上からは見えない場所でも変化が始まっていく。
伊織がそれに気づくのは、まだずっと先のことだった。




