世界を変える金属と、俺の日常
ハコニウムが世界へ公表されてから、数ヶ月が経った。
あの日を境に世界中のニュースで《ハコニウム》という名前が使われるようになり、最初の数週間は日本政府が新しい情報を出すたびに大きく報道されていた。
供給源についても様々な推測が飛び交ったらしい。
日本国内で極秘に発見された新鉱床ではないかという話もあれば、海底資源ではないかと考える人もいた。人工的に合成された新素材を、何らかの理由で天然資源のように扱っているのではないかという説まで出ていた。
当然、正解は一つもない。
俺という一人の人間が持つ《箱庭》の中に鉱床があり、採掘した場所が時間とともに再形成されるなんて、普通なら候補にすら入らないだろう。
世界が好き勝手に予想している間も、俺の生活はほとんど変わらなかった。
朝になれば湖畔の家で起き、畑や果樹園を見て回る。牧場では羊が少しずつ環境に馴染み、最初に仕込んだワインも試飲できる状態になった。
味については、悪くない。
ただし、自分で作ったという贔屓目を抜きにして高級品と比べられるかと言われれば、そこまでの自信はなかった。
「まあ、一回目なら十分だろ」
湖を眺めながらグラスを傾ける。
少なくとも飲めないものにはならなかった。
次は発酵条件を少し変えてみてもいいし、ブドウの種類を変えても面白い。箱庭では成長が早いので、試して結果を確認するまで現実ほど長く待たなくていいのもありがたかった。
そんな穏やかな日々の一方で、政府と研究者たちは相変わらず忙しいらしい。
今日も午後から、ハコニウムについて新しい研究結果が発表されることになっていた。
ーーー日本政府視点ーーー
世界発表から数ヶ月。
ハコニウムを取り巻く状況は、公表前とは比較にならないほど大きくなっていた。
日本政府には各国政府や研究機関だけでなく、世界中の企業から問い合わせが届いている。航空宇宙、自動車、電機、精密機器など関心を示す分野は広く、研究用試料の提供を求める申し出も後を絶たなかった。
しかし、日本はまだ一般供給を始めていない。
日米共同研究を優先し、加工方法と安全性、材料としての性質を確立することが先だった。
その共同研究で、ようやく一つの区切りとなる成果が出た。
「これなら予定通り発表できます」
松島孝明は最終資料を確認し、会議室に集まった関係者へ顔を上げた。
ハコニウムは、発見当初から軽量性と強度の両立が注目されていた。
だが材料として存在することと、工業製品に使えることは別問題である。加工時の工具損耗、接合方法、熱処理時の変化など、実用化へ向けて解決しなければならない問題は多かった。
数ヶ月にわたる日米共同研究によって、そのうちいくつかに答えが出始めている。
「加工条件については、以前よりかなり範囲を絞り込めました。単純形状だけでなく、複数種類の試験部材でも安定した加工に成功しています」
松島が説明すると、野口玲奈が資料の次のページを確認した。
「接合については?」
「既存材料とまったく同じ方法は使えません。ただ、特定条件では十分な強度を持つ接合部を作れています。まだ改良は必要ですが、少なくとも『加工できても組み立てられない材料』ではなくなりました」
それは大きな違いだった。
どれほど高性能な金属でも、板や棒に加工するだけで終わるなら用途は限られる。
複数の部材を組み合わせられるようになれば、実際の構造物への応用研究へ進める。
「米国側との公開範囲については合意済みです」
高橋誠司が続けた。
「共同研究で確認された加工性、接合試験、耐熱試験の一部を公開します。供給源については今回も触れません」
黒田雅臣は資料を読み終え、静かに頷いた。
「これで世界が欲しがる理由はさらに増えるな」
発表前ですら、問い合わせは大量に来ている。
新しい研究成果を公開すれば、商業利用を求める声はさらに強くなるだろう。
「次に問題になるのは供給です」
野口が口を開いた。
「研究材料として存在するだけだった段階は終わりつつあります。国内企業からは、実際の部品を想定した研究を始めたいという要望が複数届いています。海外からも同様です」
「一般企業への供給を検討する段階に来たということか」
「はい。ただし、いきなり自由流通させるべきではありません。最初は用途と企業を限定し、研究開発用として管理するのが現実的です」
黒田はすぐには答えなかった。
ハコニウムの供給量そのものは、通常の希少資源とは事情が違う。
箱庭の鉱床は再形成される。
しかも生命活動が豊かになるにつれ、その循環にも変化が見られている。
世界中の企業へ無制限に販売できるという意味ではないが、地球上の一つの鉱床を掘り尽くす場合とは根本的に違っていた。
問題は、その事実を世界へ説明できないことだった。
「八樹さんとの契約を前提に、供給可能量を改めて確認する。一般企業への提供についても本人の了承なしには進めない」
黒田が結論を出す。
「国内企業への限定供給と、将来的な海外供給。その二つを次の段階として検討しよう」
世界へ存在を知らせたハコニウムは、研究室の中だけに留まり続けることが難しくなっていた。
ーーーアメリカ視点ーーー
追加研究結果の発表は、日本だけでなく米国でも大きく報じられた。
共同研究に参加していたロバート・ヘイズにとって、公開された内容自体に新鮮さはない。それでも、自分たちが数ヶ月かけて積み上げてきた成果が世界へ出ていく光景には特別なものがあった。
研究施設のモニターには、加工されたハコニウムの試験部材が映っている。
世界発表当初は小さな試験片が中心だったが、現在ではより複雑な形状への加工も試されている。接合についても研究が進み、構造材料として利用するための最低限の道筋が見え始めていた。
「航空機メーカーから、また問い合わせが来ています」
同僚の言葉に、ヘイズは苦笑した。
「昨日も来ていただろう」
「昨日とは別の会社です。宇宙関係も二社増えました」
「日本に聞いてくれ、と返しておいてください。我々に供給を決める権限はありません」
米国は共同研究相手ではあるが、ハコニウムを所有しているわけではない。
研究に必要な試料は日本から提供される。
その供給源については、数ヶ月経った今も何一つ追加情報が出ていなかった。
ヘイズ自身、以前ほど気にしなくなっている。
研究者として興味がなくなったわけではない。
ただ、目の前の材料だけでも調べることが多すぎた。
「次は実寸に近い構造試験ですね」
「日本側が試料量を認めれば、ですが」
「認めると思いますか?」
同僚の問いに、ヘイズは少し考えた。
「以前よりは可能性があるでしょう。日本も、この材料を研究室へ置いておくだけのつもりはなさそうです」
今回の発表には、その兆候があった。
日本政府は具体的な供給開始を宣言していない。
しかし、将来的な産業利用を前提とした研究を進めていることは以前より明確になっていた。
ハコニウムが研究対象から産業材料へ変わる日は、それほど遠くないのかもしれなかった。
ーーー伊織視点ーーー
午後の研究発表をテレビで見終えた俺は、日本側の家へ戻った。
専門的な説明は途中から分からなくなったが、以前より加工しやすくなり、複数の部品を繋ぐ技術も進んだということは理解できた。
さらに発表が終わって一時間もしないうちに、高橋さんから電話が来た。
『今後、国内企業への限定供給を検討したいと考えています』
「研究用ですか?」
『最初は研究開発用途ですね。政府が選定した企業へ一定量を供給し、実際の製品を想定した試験へ進めたいと考えています。もちろん、八樹さんとの契約内容を変更する必要がありますから、勝手に進めることはありません』
「箱庭側で採れる量を確認してからなら、俺は構いませんよ」
最近はハコニウムだけを優先して採掘しているわけではない。
必要な分を政府へ渡し、その後は再形成の状況を見る。その繰り返しでも研究に必要な量は確保できていた。
一般企業へ供給するなら量は増えるだろうが、箱庭を壊すような採り方をしなければいい。
「海外にも売るんですか?」
『将来的には検討します。ただし、まず国内企業で運用方法を確立してからです。輸出する場合も政府管理になるでしょう』
「その辺は任せます。俺が外国企業と直接交渉するのは絶対嫌なんで」
『そこは我々もお願いするつもりはありません』
高橋さんの返答が妙に早かった。
たぶん俺が海外企業と直接話す状況など、政府の方も望んでいないのだろう。
電話を終え、時計を見る。
夕食には少し早い。
冷蔵庫には箱庭から持ってきた食材があるので家で作ってもいいが、今日はなんとなく外へ出たい気分だった。
数ヶ月前、ハコニウムが世界へ発表された日に近所の店で買ったワインのことを思い出す。
あれ以来、同じ銘柄を何度か買った。
あの時に教えてくれた女性とは、それきり会っていない。
「今日もあれ買うかな」
上着を羽織り、家を出た。
店内は夕食前ということもあって、それなりに人がいた。
俺は先に食材を選び、最後に酒の棚へ向かった。
目的のワインを見つけて手を伸ばしたところで、隣から聞き覚えのある声がした。
「あ、それ気に入ったんですか?」
振り向く。
数ヶ月前、同じ棚の前で会った女性が立っていた。
髪型は前と少し違うが、すぐに分かった。
「……あの時の」
「覚えてたんですね」
「そりゃ覚えてますよ。これ、結局何回か買いましたから」
俺が持っている瓶を見せると、彼女は少し嬉しそうに笑った。
「それなら良かったです。外れたら責任取れって言われましたから、ちょっと気になってたんですよ」
「数ヶ月も責任を気にしてたんですか?」
「そこまで真面目に気にしてません」
「ですよね」
前と同じだった。
会話が妙に楽だった。
気を遣って話題を探す必要もなく、少し冗談を言えば同じくらいの軽さで返ってくる。
俺はワインを籠へ入れながら、今度こそ聞いてみることにした。
「そういえば、前は名前も聞いてなかったですよね」
「あ、本当ですね」
彼女は少し姿勢を正した。
「水野美月です。この辺に住んでます」
「八樹伊織です。俺も近所です」
「八樹さん」
美月さんが一度名前を口にする。
当然、その名前を聞いても特別な反応はない。
世界中でハコニウムが報道されていても、その供給者の名前はどこにも出ていないのだから当たり前だった。
「今日はこれから夕飯ですか?」
「そのつもりです。作るのが面倒になってきたんで、どこかで食べようかなって思ってますけど」
「俺も似たような感じです」
そこで会話が一度止まった。
数ヶ月前なら、そのまま別れていたと思う。
でも今日は、俺から声を掛けた。
「よかったら、一緒に食べません? せっかく二回も酒売り場で会ったんだし」
美月さんは驚いた様子を見せたものの、嫌そうではなかった。
「酒売り場で二回会ったのを理由に誘う人、初めて見ました」
「断る理由にも使えますよ」
「じゃあ、その理由では断らないでおきます」
それで夕食を一緒に食べることになった。
近くの店へ入り、最初は軽く食べるだけのつもりだった。
ところが酒を頼み、料理が来て話し始めると、思った以上に時間が過ぎた。
美月さんは普通の会社員で、俺と同年代だった。
仕事の愚痴を延々と話すタイプでもなく、休日は家でゆっくりする日もあれば、友人と食事へ出ることもあるらしい。ワインは数年前から好きになり、高いものを集めるというより、料理に合うものを探すのが楽しいという。
「八樹さんは何してる人なんですか?」
当然、その質問が来た。
「今は会社員じゃないです。前は普通に働いてたんですけど、少し事情があって辞めました」
「今は?」
「資産関係の収入があるので、それで生活しながら好きなことしてます。家庭菜園みたいなことをしたり、釣りしたり」
嘘ではない。
規模と場所と収入源について、かなり大事な部分を省略しているだけだ。
「若いのに隠居生活みたいですね」
「自分でも時々そう思います」
「でも羨ましいです。私も仕事辞めて、昼まで寝て暮らしたい」
「最初はできますよ。そのうち勝手にやること増えますけど」
羊を飼ったり、山を探索したり、ワインを仕込んだり。
そこまでは言えないので、俺は料理へ箸を伸ばした。
美月さんは必要以上に俺の事情を聞かなかった。
若いうちに会社を辞め、高級住宅街に住んでいるのだから、不思議には思っているはずだ。それでも初めて食事をする相手へ収入や資産の詳細を尋ねるようなことはしなかった。
その距離感も、俺にはありがたかった。
最初の食事から一週間ほど経った頃、俺たちはまた会った。
今度は偶然ではない。
前回別れる時に連絡先を交換し、美月さんから近所に新しい店ができたと連絡が来たのがきっかけだった。
それからは、時々一緒に食事をするようになった。
毎日のように連絡を取るわけではない。
美月さんには仕事があり、俺にも箱庭でやりたいことがある。予定が合えば夕食を食べ、休日なら少し遠くまで出掛けることもあった。
俺にとって、それくらいの距離がちょうど良かった。
箱庭では一人で過ごす時間が長い。
以前はそれを寂しいと思ったことなどなかったが、美月さんと出掛けるようになってから、一人で過ごす時間と誰かと過ごす時間は別の楽しさがあるのだと気づいた。
ある休日には、昼から二人で買い物へ出掛けた。
美月さんがワイングラスを見たいというので付き合っただけだったのだが、気づけば俺の方が真剣に選んでいた。
「八樹さん、最近本当にワイン好きになりましたよね」
「ちょっと事情があって、前より興味出たんですよ」
「その事情、たまに出てきますね」
「人生にはいろいろあるんです」
「便利な言葉ですね、それ」
笑われた。
自分でも便利だと思う。
箱庭のことを話せない以上、俺の生活には説明しにくい部分が多すぎる。
ただ、誤魔化し続けることに少し引っ掛かりを覚えるようにもなっていた。
まだ付き合っているわけでもない。
だから国家機密を話す必要などないし、政府からも当然許可されていない。
それでも、この関係がもっと先へ進むなら、いつか何らかの形で説明する日が来るのだろう。
以前の俺なら、そこまで考えなかったと思う。
美月さんと会うことが、すでに一時的な暇潰しではなくなっていた。
さらに数週間が経った。
その日は夕方から美月さんと食事へ行き、帰り道を二人で歩いていた。
酒は少しだけ飲んだ。
酔って判断が鈍るほどではない。
美月さんの家へ向かう途中、俺は以前から考えていたことを口にすることにした。
「美月さん」
「はい?」
「俺たち、最近かなり会ってますよね」
「そうですね。八樹さん、暇ですから」
「そこは否定できないですけど」
笑いながら返したものの、今日はそれで終わらせなかった。
「俺、美月さんと一緒にいるの好きなんですよ」
彼女の歩く速度が少しだけ落ちた。
俺も合わせてゆっくり歩く。
「無理に話さなくても気まずくないし、一緒に飯食ったり酒飲んだりするのも楽しい。だから、友達みたいに会うんじゃなくて、ちゃんと付き合いません?」
格好のいい言葉ではなかった。
それでも、変に飾るより俺には合っている。
美月さんはすぐには答えず、少し前を向いたまま歩いた。
その沈黙が妙に長く感じる。
やがて彼女がこちらを見た。
「八樹さんって、告白まで力が抜けてますね」
「駄目でした?」
「駄目とは言ってません」
美月さんは少し笑ってから続けた。
「私も一緒にいるの楽しいですよ。最初は酒売り場で変な人に話しかけられたと思いましたけど」
「変な人は余計でしょう」
「初対面でワインの責任取れって言う人は、普通ではないです」
そこまで言ってから、美月さんの表情が少しだけ真面目になった。
「よろしくお願いします、伊織さん」
初めて名前で呼ばれた。
一瞬だけ反応が遅れた俺を見て、美月さんがまた笑う。
「今さら照れてます?」
「いや、急に呼び方変わったから」
「付き合うんでしょう?」
「そうですね。じゃあ俺も、美月でいい?」
「どうぞ」
こうして俺に、初めて恋人ができた。
美月と別れて自宅へ戻った後、俺はそのまま箱庭へ入った。
湖畔の家へ移動し、冷蔵庫からビールを一本取り出す。
テラスへ出れば、夜の湖はいつも通り静かだった。
遠くには牧場があり、果樹園には自分で育てたブドウがある。山の向こうには、世界中が欲しがっているハコニウムの鉱床も存在していた。
今日、世界ではハコニウムの新しい研究成果が発表された。
政府は一般企業への供給まで考え始めている。
それなのに今の俺にとって一番大きな出来事は、そちらではなかった。
「彼女か……」
口にしてみると、少しだけ実感が湧いた。
美月は俺が何者なのか知らない。
ハコニウムとの関係も、《箱庭》の存在も、ここで俺が暮らしていることも知らない。
今すぐ話せることではない。
それでも、もしこの関係が長く続くなら、いつまでも隠したままにはできないだろう。
その時は高橋さんたちと相談するしかない。
俺はビールを飲みながら、静かな湖を眺めた。
数ヶ月前まで、世界へハコニウムを発表することの方が、自分の人生で一番大きな変化になると思っていた。
実際には、そうでもなかったらしい。
世界がどれだけ変わっても、人間一人の生活を変える出来事は案外もっと身近なところにある。
酒売り場で偶然会った女性と、数ヶ月後に恋人になる。
少なくとも俺にとっては、ハコニウムの研究成果より、そちらの方がよほど予想外だった。




