世界がハコニウムを知った日
エネルギウムを使った住宅用電源の試験を始めてから、俺の箱庭での生活はさらに便利になっていた。
最初の一週間を問題なく終えた後も試験は継続され、冷蔵庫や照明だけでなく、テレビやパソコン、調理家電まで普段通り使っている。それでも目立った異常はなく、俺としては研究中の装置を使っているという意識さえ薄れ始めていた。
朝食を終えた俺は湖畔の家から外へ出て、果樹園へ向かった。少し離れた牧場では羊たちが草を食べ、その向こうには新しく広がった山々が見えている。
最近は山へ入る日も増えた。
渓流沿いを歩いて新しい釣り場を探したり、最初に見つけた滝より上流まで登ったりしている。例の洞窟だけは安全確認が終わるまで奥へ入らないと決めているが、それ以外にも見ていない場所はいくらでも残っていた。
今日の目的は山ではなく、果樹園だった。
仕込んでいたワインが少しずつ完成へ近づき、次に使うブドウも順調に育っている。最初の仕込みで失敗しなければ、次は少し量を増やしてみたい。
「酒蔵まで作ったら、さすがにやりすぎかな」
自分で呟いてから、少し考える。
湖畔に家を作った時も、牧場を始めた時も似たようなことを考えた気がする。どうせ《購入》にそれらしい設備が追加されたら、結局は試してみるのだろう。
ブドウの状態を見ながら歩いていると、ポケットのスマートフォンが鳴った。
高橋さんからだった。
「おはようございます。今日はまだ何も増やしてませんよ」
『八樹さん、私から電話するたびに何か増えている前提で話すのはやめてもらえませんか』
「この前は羊を増やした直後だったでしょう」
『その前は山が増えていました』
言われてみれば確かにそうだった。
俺が笑いながらブドウ棚の下へ移動すると、高橋さんの声が少しだけ仕事向けのものに変わった。
『今日はハコニウムについてです。日米共同研究で予定していた追加試験が終了しました。政府として、世界へ公表できる段階へ到達したと判断しています』
「とうとうですか」
『はい。八樹さんには以前から説明していましたが、正式な発表日は三日後になりました』
俺は歩くのを止め、近くの木製ベンチへ腰を下ろした。
ハコニウムを公表すること自体には、すでに同意している。それでも具体的な日付を聞くと、最初に山の中で青銀色の鉱石を見つけた日のことを思い出した。
あの時は、少し変わった金属を見つけたくらいにしか思っていなかった。
それが政府へ持ち込まれ、松島さんたちが研究し、アメリカまで巻き込んだ共同研究になり、とうとう世界中へ発表される。
「発表内容は前に聞いた通りですか?」
『基本的には変わりません。確認済みの性質、研究成果、日米で共同研究を行っていることを公表します。供給源については安全保障上の理由から非公開です』
「俺と箱庭は?」
『一切出ません。《限定ゲート》も鉱床の再形成も、エネルギウムについても公表対象外です。八樹さんには当日も普段通り過ごしていただいて構いません』
それなら俺から言うことはない。
「じゃあ、箱庭で会見見てますよ。テレビ映りますし」
『……世界初の新素材発表を、その供給者本人が箱庭の自宅で見るわけですか』
「せっかくエネルギウムでテレビ動かしてるんだから、使わないともったいないでしょう」
高橋さんは何か言いかけたようだったが、結局は小さく笑った。
電話を切った俺は再びブドウを確認し始めた。
三日後には世界が変わるかもしれない。
少なくとも政府の人たちは、それくらい大きな出来事だと思っている。
ただ、俺の目の前では今日もブドウが育ち、牧場では羊が草を食べている。世界へ発表されるからといって、箱庭そのものが急に別の場所へ変わるわけではなかった。
ーーー松島視点ーーー
世界発表を三日後に控えた研究施設では、最後の再現試験が行われていた。
青銀色のハコニウムから作られた試験片が測定装置へ固定され、その周囲を日本と米国の研究者が囲んでいる。
共同研究を始めた頃と比べれば、扱える試料の形状そのものが変わっていた。
最初は切断するだけでも工具の損耗が激しく、狙った形へ加工することさえ難しかった。しかし温度管理や加工速度、工具材料など複数の条件を組み合わせることで、現在では単純な板材や棒材、基礎的な試験部材なら安定して作れるようになっている。
もちろん、既存の金属と同じように扱えるわけではない。
加工条件を外せば工具への負担は大きく、複雑な形状への成形や接合についても課題が残っている。量産技術と呼べる段階には程遠かった。
それでも、材料として使える可能性は証明され始めていた。
「始めます」
担当者の声とともに試験が開始された。
今回確認するのは、加工後のハコニウムが元の性質をどの程度維持しているかだった。素材そのものが優秀でも、加工によって構造が大きく崩れるなら用途は限られてしまう。
松島は表示される数値を追いながら、隣に立つロバート・ヘイズの反応も見ていた。
最初の測定が終わる。
続いて条件を変え、別の試験片でも同じ測定が行われた。
結果が揃い始めるにつれ、ヘイズの表情が研究者らしいものへ変わっていった。
「加工後も大きく落ちていない」
「こちらでも確認しています。ただし加工条件によって若干の差があります。そこは今後、さらに詰める必要がありますね」
「それでも十分でしょう。少なくとも、加工した瞬間に長所が消える材料ではない」
ヘイズが手元の資料へ視線を落とした。
軽量でありながら高い強度を持ち、高温環境でも性質が崩れにくい。さらに電気伝導性にも特徴があり、腐食への耐性についても期待できる結果が出始めている。
どの性質も無限ではない。
ハコニウムだけで既存材料の全てを置き換えられるわけでもない。
しかし航空宇宙をはじめ、軽量化と強度を同時に求める分野では無視できない可能性があった。
「発表後は忙しくなりますよ」
ヘイズが測定装置を見たまま言った。
「世界中の研究者が、この材料を欲しがるでしょう。企業はもっと早いかもしれない」
「分かっています。だからこそ、研究用途以上の供給はまだ約束しません」
「日本は慎重ですね」
「我々自身、まだ分からないことの方が多いんです。新しい材料を見つけたからといって、明日から飛行機を作れるわけではありませんから」
松島がそう答えると、ヘイズも笑った。
共同研究を続ける中で、二人の間には研究者同士としての信頼が生まれている。
それでも、ヘイズはハコニウムがどこから来ているのか知らない。
日本側から試料が供給され、研究に必要な量は確保される。それ以上の情報は、松島からも伝えなかった。
まして、今まさに別の研究区画でエネルギウムという第二の未知物質が調べられていることなど、米国側には一切知らされていない。
「これで最終データをまとめられます」
松島は測定結果を確認し、長く息を吐いた。
ハコニウムを初めて見た日のことを思い出す。
正体不明だった青銀色の欠片は、ようやく世界へ存在を示せるところまで来ていた。
ーーー日本政府視点ーーー
三日後、日本政府と研究機関による記者会見が始まった。
国内だけではない。
海外メディアにも事前告知が行われ、会見内容は英語でも同時に公開される。米国政府には共同研究相手として発表内容が事前共有されていたが、それ以外の国にとっては、この日がハコニウムの存在を初めて知る瞬間だった。
壇上には政府関係者と研究責任者が並び、その背後の大型画面には青銀色の金属片が映し出されている。
「本日、日本政府は、国内研究機関が研究を進めている新規金属材料について公表いたします」
会見場の空気が変わった。
画面が切り替わり、一つの名称が表示される。
《ハコニウム》。
八樹伊織が何気なく決めた名前が、初めて公の場へ出た。
説明は慎重に進められた。
ハコニウムは既存の工業材料とは異なる特徴を持つ新規材料であり、現在までに軽量性、高い強度、耐熱性、電気伝導性などについて研究が行われている。ただし研究途上であり、全ての特性や安全性、加工方法が確立されたわけではない。
続いて日米共同研究についても公表された。
米国側の研究機関との協力によって加工条件の研究が進み、単純な試験部材の作製に成功していること。その試験部材でもハコニウムの特徴が一定程度維持されていることが説明される。
実際の加工映像も公開された。
青銀色の材料が試験設備の中で加工され、板状の試験片となる。その試験片が強度や耐熱性の評価を受ける様子まで示されたことで、会見を見ていた者たちにも、それが机上の理論ではないことが伝わった。
説明が終了すると、記者から一斉に手が上がった。
「ハコニウムはどこで発見されたのでしょうか。国内の鉱山ですか?」
「供給源に関する詳細は、安全保障上の理由から公表しておりません」
「日本国内に埋蔵されているという理解でよろしいですか?」
「供給源の所在地や形態についても回答を控えます。ただし現在の研究を継続するために必要な試料は確保されています」
「確認されている量はどれくらいですか? 将来的な商業供給は可能なのでしょうか?」
「現時点では研究段階です。商業供給について決定した事実はありません」
質問は予想通り供給源へ集中した。
どこで採れるのか、誰が管理しているのか、天然資源なのか、人工的に製造されたものなのか。日本政府は事前に定めた線を越えず、確認された研究成果については答えながら、供給源に繋がる情報だけを明確に伏せた。
やがて質問は用途へ移った。
航空機に使えるのか、宇宙開発への利用を想定しているのか、自動車産業へ供給されるのか。さらに海外企業が研究試料を購入できるのかという質問まで続く。
政府側は可能性と実用化を意識的に分けて答えた。
将来的な応用候補は存在する。
しかし、現時点で製品への採用を決定した企業はなく、量産技術も確立されていない。安全性や加工性を含め、今後も研究が必要である。
会見が終わる頃には、ハコニウムという名前はすでに世界へ広がり始めていた。
ーーーアメリカ視点ーーー
米国の研究機関では、ロバート・ヘイズが日本から配信される記者会見を研究室のモニターで見ていた。
内容そのものに驚きはない。
共同研究に参加している米国側には、発表される範囲が事前に知らされていたからだ。
それでも世界へ公開された瞬間から、ハコニウムを取り巻く環境が変わったことは分かった。
会見が終わる前から、研究機関には問い合わせが入り始めている。
航空宇宙関連企業から研究内容について照会があり、大学から共同研究への参加可能性を尋ねる連絡も届いている。政府機関からも、今後の試料供給や日本との協議について確認が始まっていた。
「早すぎるな」
同僚の研究者が端末を見ながら苦笑する。
「まだ会見が終わっていないぞ」
「新材料ですからね。それも日本が実物と試験データまで出した。注目されない方がおかしいでしょう」
ヘイズはそう答えながら、画面に映る青銀色の試験片を見つめた。
自分たちは世界より少し早く、それを触る機会を得た。
だからこそ分かる。
ハコニウムには可能性があるが、まだ分からないことも多い。
そして最大の謎については、共同研究を続けている米国側でさえ答えを持っていなかった。
「結局、日本は供給源を出さなかったな」
「最初から契約範囲外です。そこは変わらないでしょう」
「気にならないのか?」
同僚に尋ねられ、ヘイズは少し考えてから肩をすくめた。
「研究者としては気になります。でも、今の私の仕事は鉱山を探すことではありません。この金属をどう扱えるか調べることです」
彼は再び端末へ向き直った。
世界が今日初めて知った材料について、自分たちにはまだ調べることが山ほど残っている。
それだけで十分だった。
ーーー伊織視点ーーー
俺は湖畔の家のソファに座り、テレビで記者会見を見ていた。
テーブルには果樹園で採れた梨を切って置き、冷蔵庫から持ってきた炭酸水もある。昼間なので酒はまだ飲んでいない。
画面の中では、専門家がハコニウムについて解説していた。
会見が終わった直後からニュース番組は特集へ切り替わり、軽くて強い新素材だとか、航空宇宙産業を変える可能性があるとか、将来的には日本の重要な輸出資源になるかもしれないとか、いろいろな話が出ている。
「すごいことになってるな」
自分で言っておきながら、どこか他人事だった。
俺が最初に見つけた時には名前すらなかった。
政府へ持っていった後、呼び方がないと不便だからハコニウムでいいんじゃないかと決めただけだった。
その名前を今ではテレビのアナウンサーが普通に口にしている。
スマートフォンを確認すると、ニュース欄にもハコニウムの記事が並んでいた。海外メディアの記事まで次々と増え、日本政府が供給源を明かしていないことも注目されている。
当然、その答えが俺のいる場所だとは誰も書いていない。
窓の外へ目を向ければ、いつもと変わらない湖が広がっている。
牧場では羊が草を食べ、果樹園では次の収穫を待つ果物が育っている。山の向こうにはハコニウムの鉱床があり、その一部が世界中を騒がせていることなど、この景色からは想像できなかった。
「まあ、政府に任せて正解だったな」
もし自分一人で売ろうとしていたら、今頃どうなっていたか分からない。
世界中から問い合わせを受ける生活など、考えただけでも面倒だった。
テレビを消し、俺は外へ出た。
世界がハコニウムを知った日だからといって、羊が勝手に世話をしてくれるようになるわけではない。果樹園も同じだ。
いつも通り牧場を確認してから、日本側へ戻ることにした。
夕方、日本の家へ戻った俺は、冷蔵庫の中を確認してから近所の店へ買い物に出た。
箱庭には食材がいくらでもあるが、調味料や酒、それに自分では作っていないものまで全部揃うわけではない。最近は箱庭で過ごす時間が長いからこそ、日本側で普通に買い物をする時間も意識して作っていた。
高級住宅街とはいっても、少し歩けば日常使いできる店はいくつかある。
俺がよく利用する店もその一つだった。
酒と夕食用の食材を籠へ入れ、最後に足りなくなっていた調味料を探していると、同じ棚の前で一人の女性が立ち止まっていた。
年齢は俺と同じくらいか、少し下だろうか。
肩より少し長い髪を後ろで緩くまとめ、仕事帰りらしい服装をしている。片手には買い物籠があり、その中には野菜や肉、それに小さなワインの瓶が入っていた。
俺が棚の商品を取ろうとすると、彼女も同じものへ手を伸ばした。
「あっ、すみません」
「いえ、どうぞ」
ほぼ同時に手を引いたせいで、今度はどちらも取らない。
彼女が少し笑った。
「これだと永遠に取れませんね」
「確かに。じゃあ俺が先にもらいます」
「どうぞ。まだ後ろにもありますから」
俺は商品を一つ取り、そのまま通り過ぎようとした。
ところが、彼女の籠に入っているワインが目に入り、少しだけ足が止まる。
最近、自分でワインを仕込んでいるせいで、以前より瓶を見る癖がついていた。
「それ、美味しいですか?」
つい聞いてしまった。
彼女は一瞬だけ不思議そうな顔をした後、自分の籠を見て理由に気づいたらしい。
「これですか? 私は好きですよ。そんなに高くないですけど、家で飲むなら十分です」
「甘い方です?」
「どちらかというと軽めですね。もしかしてワイン探してるんですか?」
「最近ちょっと興味が出てきて。今までビールの方が多かったんですよ」
自分で造っているとは言わなかった。
初対面の相手に、国家機密の異空間でブドウを育ててワインを仕込んでいるなどと説明できるはずもない。
彼女は棚を少し見回し、別の瓶を指した。
「最初なら、こっちも飲みやすいですよ。私は料理によって変えますけど」
「詳しいんですね」
「詳しいというほどじゃないです。好きなだけですよ」
その返し方が妙に自然だった。
自慢するわけでもなく、難しい説明を始めるわけでもない。ただ好きだから飲んでいる。それくらいの距離感が俺には心地よかった。
結局、俺は彼女が勧めた一本も籠へ入れた。
「じゃあ今日はこれ試してみます。外れたら責任取ってください」
「初対面の人に重い責任を背負わせないでください」
笑いながら返され、俺もつられて笑った。
そこで会話は終わった。
連絡先を聞くわけでもなく、名前を尋ねることさえしない。彼女は先にレジの方へ向かい、俺も少し遅れて買い物を続けた。
ただ、会計を終えて店を出たところで、少し先を歩いている彼女の姿が見えた。
向かっている方向が同じだった。
偶然だと思って歩いていると、彼女は俺の家より少し手前にある住宅の方へ曲がっていく。
「近所だったのか」
それだけ呟き、俺は自宅へ戻った。
その夜、勧められたワインを開けてみる。
確かに飲みやすかった。
世界中がハコニウムの話をしている日に、俺は名前も知らない近所の女性から勧められたワインを飲んでいる。
ニュースをつければ、まだハコニウムの特集が続いていた。
研究者が将来の用途を語り、海外の反応が紹介され、日本政府が供給源を明かしていないことについて様々な推測が飛び交っている。
その供給源である俺はソファに座り、グラスの中のワインを眺めた。
「これ、結構うまいな」
次に店で会ったら、そう伝えてみよう。
この時の俺は、それくらいしか考えていなかった。
世界へハコニウムが知られたその日に出会った彼女が、数年後には俺と同じ家で暮らすことになるなんて、もちろんまだ知るはずもなかった




