エネルギウムで暮らしてみよう
最初のワインを仕込んでから、俺の朝には新しい習慣が増えていた。
起きたら湖畔の家の窓を開け、天気を確認する。その後で冷蔵庫から飲み物を取り出し、朝食を作る前にワインを仕込んだ容器の状態を見る。発酵について詳しいわけではないので、教えてもらった注意点を守りながら異常がないか確認する程度だ。
それが終われば鶏小屋へ行き、牧場の羊を見て、気が向けば果樹園を回る。
毎日必ず全部をやるわけではない。箱庭の生態系は俺が一日世話をしなかったくらいで崩れるものではなく、むしろ人間が余計なことをしない方が安定している場所も多かった。
だから最近の俺は、管理者というより住人に近い。
「今日は山に行くかな」
朝食を食べながら窓の外を見ると、湖の向こうに新しく現れた山々が見えた。
まだ探索できていない場所は多い。最初に見つけた洞窟についても政府側へ位置を伝えただけで、中には入っていなかった。
そろそろ装備を揃えて見に行ってもいい。
そんなことを考えながら食器を片付けていると、テーブルに置いていたスマートフォンが鳴った。
表示された名前は松島さんだった。
「珍しいですね。松島さんから直接電話なんて」
『八樹さん、おはようございます。今日、こちらへ来る予定はありますか?』
「特にないですけど。何かありました?」
『エネルギウムの件です。八樹さんが以前言っていた使い方を、そろそろ試せる段階になりました』
一瞬、何のことか分からなかった。
数秒考えてから思い出す。
「冷蔵庫ですか?」
『……正確には、住宅用小規模電源です』
電話の向こうから、少しだけ呆れたような声が返ってきた。
どうやら研究者としては、未知の高性能蓄電材料を冷蔵庫専用と呼ばれるのが気に入らないらしい。
「でも冷蔵庫も動かせるんですよね?」
『動かせます。だから一度、研究施設へ来てください』
「分かりました。午前中に行きます」
山の探索は延期になった。
自分の山なので逃げることはないし、今日は別の面白そうなものが待っている。
限定ゲートを通って共同研究区域へ向かうと、松島さんだけでなく高橋さんと野口さんまで待っていた。
部屋の中央には、以前見た暗灰色の鉱石そのものではなく、金属製のケースに収められた装置が置かれている。
大きさは小型の旅行鞄くらいだった。
「これがエネルギウムですか?」
「内部に入っています。ただし、エネルギウムそのものへ直接機器を接続する構造にはしていません」
松島さんがケースを開けながら説明してくれる。
内部には暗灰色のエネルギウムが固定され、その周囲に制御装置や保護機構が組み込まれていた。
研究の結果、エネルギウムへ電気を蓄え、再び取り出せること自体はほぼ確実になっている。ただし電気を好きなだけ一気に流し込んだり、取り出したりしていいわけではないらしい。
「特に問題なのが破損時です。内部に大量のエネルギーを保持した状態で結晶構造へ強い損傷を与えると、急激な放電と発熱が発生する可能性があります」
松島さんは装置内部の保護材を指しながら、今回はエネルギウムの量そのものをかなり少なくしていると説明した。
さらに充電量にも上限を設定し、異常な温度上昇や電流を検知した場合には自動的に遮断する。
「つまり、安全装置だらけにしたと」
「現段階では、それくらいでちょうどいいんです。性能が高いから安全だとは限りませんから」
そこは俺にも理解できる。
便利だからといって、研究途中のものを家へ置いて事故を起こしたら笑えない。
「それで、どれくらい使えるんです?」
俺が尋ねると、松島さんではなく野口さんが少し困ったように笑った。
「その質問が、政府側では一番問題になっています」
「問題?」
「今回使っているエネルギウムは、かなり少量なんです。それでも住宅で使う小型蓄電設備として考えれば、十分すぎるほどの電力を保持できる可能性があります」
まだ正確な限界容量を確認している途中なので、最大まで充電したわけではない。
それでも現在の安全基準内だけで、冷蔵庫や照明、テレビ、パソコンといった家電をまとめて使える程度にはなるという。
「じゃあ、普通に家の電源として使えるじゃないですか」
「だから政府が騒いでいるんです」
高橋さんの言葉に、ようやく意味が分かった。
俺は湖畔の家で使える便利な電源が欲しいだけだが、政府からすれば話の規模が違う。
太陽光や風力で作った電気を大量に貯められるなら、発電量が安定しない時間帯へ回せる。災害時の非常電源にも使えるし、将来的には電気自動車や船、鉄道などへ応用できる可能性まである。
もっと研究が進めば、航空機や宇宙分野という話も出てくるらしい。
「でも今日は、俺の家で試すんですよね?」
「試します」
松島さんが即答した。
「研究施設の中だけで試験していても、実際の生活環境でどのような負荷が掛かるか分かりません。八樹さんの住宅なら、一般家庭に近い機器を使いながら外部への情報流出も防げます」
「なるほど。国家機密の実験住宅ですね」
「八樹さんが普通に暮らしてくれれば、それで十分です」
だったら俺としても難しいことはない。
冷蔵庫を使い、テレビを見て、パソコンを触り、夜になれば照明を点ける。普段通り生活するだけで研究に協力できるなら楽なものだった。
装置を湖畔の家へ持ち込む前に、俺は念のため確認しておくことにした。
「これ、アメリカには秘密なんですよね?」
「はい。エネルギウムについては、存在そのものを伝えていません」
高橋さんははっきり答えた。
「現在の日米共同研究はハコニウムだけです。米国研究団が利用している施設とも分離していますし、エネルギウム関係者との接触もありません」
「じゃあ、向こうの研究者が箱庭へ来ることも?」
「ありません。そもそも米国側は箱庭の存在を知りませんから」
そこまで確認できれば安心だった。
俺は《限定ゲート》を開き、装置を箱庭側へ運び込む。
研究者を何人も家へ連れてくる必要はないので、今回は松島さんと電気設備に詳しい技術者、それから高橋さんだけが同行した。
湖畔の家へ到着すると、以前から使っていた電源設備との接続作業が始まった。
俺には詳しいことが分からないので邪魔をしないよう少し離れ、テラスでコーヒーを飲みながら待つ。
目の前の草原では羊が歩き、湖では時々魚が跳ねている。
その背後では研究者たちが未知の鉱物を使った次世代蓄電装置を家へ繋いでいる。
「相変わらず、この景色とやってることが合ってないな」
自分でも少し笑ってしまった。
作業が終わったのは昼前だった。
最初から家全体をエネルギウムだけで動かすのではなく、既存設備と切り替えられる形になっている。何か異常が起きればすぐ元へ戻せるようにしたらしい。
「では、切り替えます」
技術者が操作すると、室内の照明が一瞬だけ変化したように感じた。
しかし消えることはない。
冷蔵庫も動いたままだ。
テレビを点けても普通に映り、パソコンの電源を入れても問題なく起動する。
「……これだけですか?」
俺が尋ねると、松島さんが頷いた。
「これだけです。むしろ生活用電源は、何も起きないことが一番重要です」
確かにその通りだった。
派手に光ったり音が鳴ったりする電源など、家では使いたくない。
俺は冷蔵庫を開け、中から一本の缶を取り出した。
「冷えてますね」
「当然です」
「じゃあ成功でいいんじゃないですか?」
「研究者としては、そんな判定方法では困ります」
松島さんが真顔で答え、高橋さんが横で笑いを堪えていた。
もちろん実際には、装置側で電力消費や温度、充放電状態などが細かく記録されている。
俺が冷蔵庫を確認するより、そちらのデータの方が遥かに重要なのだろう。
それでも俺にとっては、目的を達成した瞬間だった。
以前、エネルギウムの性質を聞いた時に最初に考えたこと。
箱庭の家で冷蔵庫を動かせないか。
それが本当に実現した。
その日の午後から、俺は普段通り生活することになった。
昼飯を作り、テレビを点けたままソファで休み、午後にはパソコンを使う。夕方になれば照明を点け、冷蔵庫や他の家電も普段通り使った。
エネルギウム側には目立った変化がない。
装置の表示を見る限り、まだかなり余裕があるらしい。
夜になって研究施設へ戻る前、松島さんがデータを確認していた。
「家庭内でこの程度の負荷なら、非常に安定しています。明日以降も継続して使用してください。ただし装置は開けないでくださいね」
「開けませんよ。俺、機械に詳しくないですし」
「八樹さんの場合、好奇心で箱庭を広げるので念のためです」
「それとこれとは別でしょう」
そんな会話をしながら、松島さんたちは限定ゲートの方へ戻っていった。
俺は一人になった家で夕食を済ませ、最後に冷蔵庫からビールを取り出す。
テラスへ出ると、夜の湖が広がっていた。
家の中では照明が点き、冷蔵庫も動き続けている。その電気の一部を支えているのは、少し前まで名前すら存在しなかった箱庭産の鉱物だった。
「エネルギウム、普通に便利だな」
政府が聞けば、またもっと大きな話をされるのだろう。
日本中の電力を貯められるかもしれないとか、災害時に使えるとか、輸送機器を変える可能性があるとか。
それも大切なのは分かっている。
でも今夜の俺にとっては、箱庭で冷たいビールを飲めることの方が実感しやすかった。
ーーー松島視点ーーー
翌朝、松島孝明は研究施設で一晩分のデータを確認していた。
八樹伊織が眠っている間も、エネルギウム試験装置は住宅へ電力を供給し続けている。
冷蔵庫の圧縮機が動いた時間帯には消費電力が増え、照明やテレビの使用にも細かな変動が記録されていた。
ごく普通の家庭に近い電力消費である。
異常なのは、それを支えている蓄電媒体の方だった。
「劣化兆候なし……温度変化も許容範囲か」
研究室で繰り返した充放電試験でも分かっていた。
しかし実際の生活では、一定の負荷を掛け続ける試験とは違い、電力消費が細かく変化する。それでもエネルギウムは安定していた。
隣にいた電気系の研究者も、画面を見ながら表情を硬くしている。
「これ、本当に天然の鉱物なんですよね?」
「少なくとも、我々が人工的に作ったものではありません」
それ以上の説明はしない。
相手はエネルギウム研究への参加資格を持っていても、《箱庭》の存在までは知らされていなかった。
松島は別のデータを開いた。
今回使用しているエネルギウムは少量であり、安全上の理由から蓄えられる限界まで充電していない。
それでも結果は十分だった。
もし容量を増やし、安全な制御方法を確立できれば、家庭用蓄電池という範囲では収まらない。
発電所。
再生可能エネルギー。
災害時の電力供給。
電気自動車。
さらに先には、航空や宇宙まで考えられる。
ただし松島は、そこまで書きかけたメモを一度閉じた。
研究者が可能性を想像するのは自由だ。
だが、今必要なのは夢ではなくデータだった。
「まず一週間ですね。住宅で連続使用して、状態変化を確認しましょう」
焦る必要はない。
供給源は逃げない。
むしろ問題は、その供給源から次々と新しいものが現れていることだった。
ーーー日本政府視点ーーー
エネルギウムの住宅試験が順調に始まった同じ日、政府ではハコニウムに関する別の会議が開かれていた。
日米共同研究によって加工条件が改善され、単純な試験部材であれば安定して作れる段階へ近づいている。
さらに米国側から提供された測定手法によって、ハコニウムの耐熱性や強度についても追加データが得られ始めていた。
世界へ公表するための材料は揃いつつある。
「発表内容の第一案です」
野口が配布した資料には、公開可能な情報だけがまとめられていた。
日本の研究機関が新規金属材料の研究を進めていること。既存材料とは異なる結晶構造を持ち、軽量性、強度、耐熱性、電気伝導性など複数の特徴が確認されていること。
そして現在、米国の研究機関とも基礎的な共同研究を行っていること。
一方、供給源についての記述は存在しない。
「発表すれば、最初の質問は供給源でしょう」
黒田の言葉に高橋が頷いた。
「想定しています。確認されている埋蔵量、採取場所、採掘主体、年間供給可能量について質問が集中するはずです」
「回答は統一する。供給源に関する詳細は安全保障上の理由から非公表。現時点では研究用途の試料を確保している、とだけ説明する」
日本政府が存在しない鉱山を作り上げることはしない。
しかし、伊織と箱庭を守るために答えない情報は明確に決める。
「米国側との調整は?」
「事前協議を始めます。共同研究成果のうち、双方が公表に同意できる範囲を決めます。ただし発表主体は日本です」
高橋が答えると、黒田は資料を閉じた。
「では進めよう。次の研究結果が予定通り出れば、正式な発表日を決める」
ハコニウムを秘密の研究材料として扱う時間は、終わりへ近づいていた。
ーーー伊織視点ーーー
一週間後、俺は湖畔の家でエネルギウム試験装置の表示を眺めていた。
この一週間、特別な節電はしていない。
冷蔵庫もテレビもパソコンも普通に使い、夜には照明を点けている。料理にも電気を使ったし、生活時間を研究に合わせるようなこともしなかった。
それでも大きな問題は起きていなかった。
「これ、思ったよりすごいやつなんだな」
最初から説明されていたのに、実際に使ってみて初めて実感した。
電気というのは普段見えない。
だから巨大な発電設備より、自分の家で一週間普通に暮らせたという事実の方が、俺には分かりやすかった。
そんなことを考えていると、果樹園の方を思い出す。
ワインの様子も確認したい。
羊も見たい。
山の探索もまだ残っている。
エネルギウムの実験が成功したからといって、俺の日常が急に研究中心になるわけではなかった。
玄関を開けて外へ出ると、遠くの草原で羊たちが動いているのが見える。
「今日はワイン見て、それから山だな」
そう決めて歩き始めたところで、ポケットのスマートフォンが鳴った。
高橋さんからだった。
『八樹さん。ハコニウムについて、一つお伝えしておきたいことがあります』
「何です?」
『世界への公式発表について、具体的な日程を決める段階に入りました』
俺は足を止めた。
前から聞いていた話なので驚きはしない。
それでも、いよいよ本当に世界へ出るのかと思うと少しだけ感慨があった。
「俺は何かする必要あります?」
『ありません』
その答えは、俺にとって一番ありがたいものだった。
『八樹さんの名前も、《箱庭》も公表しません。記者会見へ出ていただくこともありません。これまで通り生活してください』
「それなら大丈夫です」
俺は再び歩き始める。
視線の先には果樹園があり、そのさらに向こうには自分で育てた森と山々が広がっている。
世界中がハコニウムという名前を知る日が近づいている。
けれど、その金属が生まれた世界で暮らす俺の日常は、たぶん明日もそれほど変わらない。
それでいい。
「発表の日には、ワイン間に合うかな」
俺にとって気になるのは、今のところそちらだった。




