箱庭牧場と最初のワイン
羊を迎えてから数日が経つと、湖畔の家から見える景色は以前より随分と賑やかになった。
家の正面には湖が広がり、少し離れた場所には果樹園、その向こうには畑や鶏小屋がある。反対側の草原には新しく作った牧場があり、朝になると羊たちが畜舎から出て草を食べ始める姿を見ることができた。
さらに遠くには、この前の領域拡張で現れた山々まで見えている。
箱庭を手に入れたばかりの頃は、見渡せる範囲に草原と小さな水源しかなかった。それを考えると、同じ場所とは思えないほど変わっていた。
「さて、今日はどっちからやるかな」
朝食を終えた俺は、テラスでコーヒーを飲みながら今日の予定を考えていた。
牧場の様子も確認したいし、果樹園ではブドウの収穫時期が来ている。新しく現れた山岳地帯の探索も途中なので、できればそちらへも行きたい。
会社を辞めれば暇になると思っていた時期もあったが、実際には逆だった。
決められた勤務時間がなくなっただけで、やりたいことはいくらでも増えていく。もっとも、仕事と違って今日できなければ明日に回せるので、忙しさの種類はまるで違う。
「とりあえず羊だな。ブドウは逃げないし」
コーヒーを飲み終え、牧場へ向かった。
政府経由で畜産に詳しい人から教えてもらった内容を参考に、牧場にはすでに畜舎と水場を用意している。柵も果樹園側へ勝手に出られないよう配置し、日陰になる場所も確保した。
まだ少数なので、世話そのものはそれほど大変ではない。
俺が近づくと、一頭の羊がこちらを見た。
最初の頃より人間に慣れてきたらしく、以前のように距離を取ろうとはしない。むしろ俺が何か持っていると思ったのか、もう一頭まで後ろから近づいてきた。
「今日は何も持ってないぞ。お前ら、草があるんだから自分で食え」
当然ながら羊たちは気にした様子もなく、しばらく俺の周囲をうろついた後、再び草を食べ始めた。
この光景を見ているだけでも、羊を入れて良かったと思う。
効率だけを考えるなら必要のない生き物かもしれない。それでも草原に動物がいるだけで、箱庭全体が以前より生きた場所に見える。
しかも実際、羊が草を食べ、排泄し、それが土へ戻ることで新しい循環も生まれている。
箱庭は、そういう変化をきちんと受け取っているらしい。
《管理》で状態を確認すると、牧場周辺でも少しずつ生命活動が安定していた。数字を細かく追う必要はないが、このまま無理なく維持できれば箱庭の成長にも繋がっていくだろう。
「増やすとしても、もう少し慣れてからだな」
最初から大きな牧場を作る必要はない。
俺自身が世話に慣れて、草原や土への影響も確認してから少しずつ増やせばいい。羊以外の動物についても興味はあるが、それはさらに後でも十分だった。
牧場の確認を終えた俺は、そのまま果樹園へ向かった。
こちらは牧場以上に変化が分かりやすい。
桃はすでに何度か収穫しており、リンゴや梨にも十分な大きさの実が付いている。柿はもう少し待った方がよさそうだが、箱庭の成長速度なら長く待つことにはならない。
そして今日の目的であるブドウは、期待していた以上に育っていた。
加工向けとして植えた区画には色づいた房がいくつも並び、近づけば甘い香りがする。試しに一粒取って食べてみると、生食用より甘さの印象が少し違った。
「これなら、そろそろやってみるか」
ワイン造りである。
もちろん俺には酒造りの経験などない。
酒は好きだが、これまでは店で買うか飲みに行く側だった。だから今回は最初から大量に作ろうとはせず、少量だけ収穫して試してみるつもりだった。
問題は、酒造りが料理ほど気軽ではないことだ。
衛生管理も必要になるし、発酵について最低限の知識もいる。日本側で好き勝手に酒を造れば法律上の問題もあるので、その辺りも事前に高橋さんへ相談していた。
結果として、政府側で扱いを確認してもらい、箱庭内での試験的な醸造についても必要な整理を進めてもらうことになった。
俺としては趣味の相談をしただけなのだが、高橋さんは妙に真面目に対応してくれた。
「国家機密の異空間で酒を造る時の手続きなんて、役所にも前例ないだろうな」
少し申し訳ない気もする。
それでも駄目と言われなかったので、準備だけは進めていた。
俺は収穫したブドウを箱へ入れ、湖畔の家へ運んでいく。
今日は本格的な設備を使うわけではない。衛生面に気をつけながら、用意した器具を使って少量だけ仕込む予定だった。
作業を始めてみると、飲むだけだった頃には考えもしなかった手間がある。
状態の悪い実を取り除き、器具を確認し、果汁を用意する。発酵が始まれば温度や状態も見なければならないので、仕込んだその日に酒が完成するわけでもない。
それでも、不思議と面倒には感じなかった。
会社で興味のない作業をしていた時とは違い、自分がやりたくて始めたことだからだろう。
「これがうまくいったら、次はもう少し量を増やしてもいいな」
最初の仕込みを終えた俺は、容器を眺めながら次のことまで考えていた。
ブドウだけでなく、果樹園では他の果物も採れる。
ワインがうまくいけば、別の果実を使った酒を試してみても面白い。箱庭で穀物を本格的に育てるようになれば、さらに選択肢は広がるだろう。
ただし、そこまで行くと趣味の範囲を簡単に超えそうなので、今は考えるだけにしておいた。
その日の午後、俺は果樹園でリンゴと梨も収穫した。
全部を自分一人で食べるには多いので、一部は政府側へ渡すことにする。
研究材料という意味ではない。
高橋さんや野口さん、松島さんたちには散々世話になっているので、普通に差し入れとして食べてもらおうと思っただけだ。
限定ゲートを通って共同研究区域へ向かうと、ちょうど高橋さんが来ていた。
「八樹さん、その箱は?」
「果物です。リンゴと梨。食べ切れないんで、皆さんでどうぞ」
俺が箱を渡すと、高橋さんは中身を確認してから、少し困ったように笑った。
「最近、ここが研究施設なのか八樹さんの農産物受け取り所なのか分からなくなってきましたね」
「余るんだから仕方ないでしょう。捨てるよりいいじゃないですか」
「もちろん、ありがたくいただきます」
そんな話をしていると、奥から松島さんも姿を見せた。
箱の中身を知ると、研究者らしく成分分析をしたそうな顔を一瞬見せたものの、俺が先に釘を刺しておく。
「今日は普通に食べてくださいよ。研究用じゃないですから」
「……分かりました」
少し残念そうなのが面白かった。
果物まで全部研究対象にされていたら、箱庭で何か育てるたびに試料を提出することになってしまう。
「そういえば、アメリカの人たちとの研究はどうなんです?」
俺が尋ねると、高橋さんではなく松島さんが答えた。
「かなり面白いですよ。加工については確実に前進しています。まだ条件を詰める必要がありますが、以前よりハコニウムを狙った形へ加工できるようになってきました」
「じゃあ、そろそろ何か作れるんですか?」
「単純な試験部材なら、すでに作り始めています。ただし製品と呼べるものはまだ先です」
それでも十分な進歩だと思う。
最初に青銀色の鉱石を見つけた時には、珍しい金属らしいということしか分からなかった。それが今では日本とアメリカの研究者が一緒になって、実際に使う方法を探している。
改めて考えると、随分大きな話になったものだ。
「それと、以前お伝えした公表の件ですが」
高橋さんが少し声を落とした。
「政府内で本格的な検討に入りました。共同研究の進展次第では、そう遠くない時期にハコニウムの存在そのものを公表する可能性があります」
「もうそこまで進んだんですか?」
「まだ決定ではありません。ただ、関係者が増えています。情報が不完全な形で外へ出る前に、日本政府から正確な情報を発表した方がいいという意見が強くなっています」
それは俺にも理解できた。
隠している人数が増えれば、それだけ秘密を維持するのは難しくなる。
何よりハコニウムそのものを公開しても、箱庭まで公開する必要はない。
「俺のことが出ないなら大丈夫ですよ」
「そこは変わりません。八樹さんと箱庭は、今後も発表内容から完全に切り離します」
その言葉を聞いて安心した。
俺は有名になりたいわけではない。
むしろ世界中がハコニウムに注目しても、その供給元である俺が湖畔で羊を眺めながら酒を飲んでいられるなら、その方が理想的だった。
それから数日間、俺は牧場と果樹園の世話をしながら、途中になっていた山岳地帯の探索も少しずつ進めた。
新しい山には複数の渓流があり、場所によって植生も微妙に違う。最初に見つけた洞窟にはまだ入っていないが、入口周辺だけは安全を確認し、政府側にも位置を共有してある。
今のところ、新しい未知鉱物は見つかっていない。
だが、それでいいと思っている。
領域を広げるたびにハコニウムやエネルギウムのようなものが出てきたら、俺まで新素材探しばかりすることになる。
山を歩いて、景色のいい場所を見つけ、川で釣りをする。
箱庭には、そういう楽しみ方もあっていい。
そして最初のワインを仕込んでからしばらく経ったある日、容器の状態を確認していた俺は、発酵が順調に進んでいることに気づいた。
まだ飲める段階ではない。
それでも、ブドウだったものが少しずつ別のものへ変わっていく様子は分かる。
「ちゃんと酒になりそうだな」
最初から最高級のワインが出来るとは思っていない。
酸っぱくなるかもしれないし、普通に買った方が美味いという結果になる可能性だってある。
それでも構わなかった。
自分で育てたブドウを、自分の箱庭で酒にする。
その過程そのものが面白い。
ーーー日本政府視点ーーー
伊織が最初のワインの完成を楽しみにしている頃、政府側ではハコニウムについて、さらに大きな判断が進み始めていた。
日米共同研究で得られた加工条件は、再現試験でも一定の成果を示している。
薄い板状への加工や単純な部材の成形にも成功し、加工後にもハコニウム特有の軽さや強度、熱に対する安定性が大きく失われていないことが確認されつつあった。
まだ産業利用を宣言できる段階ではない。
それでも、存在を公表するために必要な科学的裏付けは以前より遥かに増えている。
「世界発表を前提として準備を始めます」
黒田の言葉に、会議室の空気が少し変わった。
高橋、野口、松島を含む関係者が、それぞれ手元の資料へ目を落とす。
「発表するのは、ハコニウムの存在と確認済みの物性、それから日本が研究を主導している事実までとします。実用化の時期については断定しません」
野口が続ける。
「供給についてはどうしますか? 存在を公表すれば、各国だけでなく企業からも問い合わせが来ます」
「当面は研究用途に限定する。一般販売はしない。供給量についても具体的な数字は出さない」
黒田はそこで言葉を区切り、高橋へ視線を向けた。
「そして最も重要な部分だ。供給源については?」
「非公表を維持します」
高橋は迷わず答えた。
「八樹さんの存在、《箱庭》、《限定ゲート》、鉱床が再形成される事実は、今回の発表には一切含めません。質問された場合も、供給源については安全保障上の理由から回答しない方針で統一します」
ハコニウムは世界へ出す。
しかし、その向こう側にいる伊織は出さない。
その線だけは、最初から変わっていなかった。
「米国には?」
「発表方針を事前に通知します。共同研究相手ですから、世界と同時に知る形にはしません。ただし、これを機に供給源の追加情報を開示することもありません」
黒田が頷いた。
すでに共同研究は、ハコニウムが単なる研究室の珍品ではないことを示し始めている。
公表すれば世界が反応することは間違いない。
どこから見つかったのか。
どれだけ存在するのか。
日本は独占するつもりなのか。
いつ企業へ供給されるのか。
質問はいくらでも出てくるだろう。
その全てへ答える必要はない。
「発表時期は、研究成果をもう一段積み上げてから決める。それまでに想定質問と公開資料を整えてください」
黒田の指示を受け、それぞれが動き始めた。
世界はまだ、ハコニウムという名前を知らない。
日本と米国のごく一部だけが、その青銀色の金属が持つ可能性を知っている。
だが、その状態が終わる日は確実に近づいていた。




