アメリカから来た研究者たち
ーーー日本政府視点ーーー
八樹伊織が箱庭へ羊を迎え、新しく現れた山岳地帯を次はどこから歩こうかと考えていた頃、日本政府側では以前から準備していた計画が実行段階へ入っていた。
米国からハコニウム共同研究団が来日する。
共同研究の目的は明確だった。日本側だけでは難航しているハコニウムの加工方法を探り、実用材料として扱うために必要な基礎技術を確立する。そのために米国側が持つ設備や知見を利用することは、日本にとっても大きな意味がある。
ただし、共同研究だからといって全てを共有するわけではない。
米国へ開示されるのはハコニウムという物質そのものと、日本政府が研究用として一定量の試料を継続的に確保できるという事実までだった。
八樹伊織という一人の青年が供給源であることも、この世界とは別に《箱庭》と呼ばれる空間が存在することも、そこで採掘した鉱床が時間とともに再形成されることも明かされない。
当然、《限定ゲート》の存在も完全な秘匿対象である。
「米国側の研究者は明日の午前に到着します。共同研究に使用する施設への移動経路も、限定ゲートがある施設とは完全に分離しました」
高橋の報告を聞きながら、黒田は机上に置かれた資料へ目を通した。
来日する研究者たちは材料科学、金属加工、結晶構造解析など、それぞれの分野で高い専門性を持っている。政府関係者も同行するが、人数は必要以上に増やされていなかった。
「向こうから供給源について質問されることは想定しているな?」
「はい。これまでと同じ対応を徹底します。日本政府が管理する非公開の供給経路から研究試料を確保していること、それ以上の情報は共同研究の対象外であることだけを説明します」
嘘を作って隠すのではなく、答えられる範囲そのものを限定する。
架空の鉱山や製造施設を用意すれば、いずれ説明の矛盾が生じる。だから日本政府は最初から供給源について公表しない方針を取っていた。
野口も資料を確認しながら口を開いた。
「試料の量についても、これまで通り研究に必要な範囲だけです。米国側から大量供給を求められても応じません。少なくとも加工技術と安全性が確立するまでは、産業利用を前提とした話には進めない予定です」
「それでいい。世界に公表していない段階で焦る必要はない」
黒田はそう答えた後、別の資料へ視線を移した。
そこにはハコニウムではなく、エネルギウムの研究状況がまとめられている。
米国側は、その物質が存在することさえ知らない。
「エネルギウムの研究班は完全に切り離しておけ。今回の訪問中、名称すら米国側の目に入らないようにする」
「すでに対応しています。研究場所も資料管理も別系統です」
高橋が答えると、黒田は小さく頷いた。
ハコニウム一つだけでも、これから世界へ与える影響が読めない。
その状態で、さらに高性能な蓄電材料となる可能性を持つエネルギウムまで同時に表へ出す理由はなかった。
まずはハコニウムを理解する。
そして、日本としてどのように扱うのかを決める。
今回の日米共同研究は、そのための重要な一歩だった。
ーーーアメリカ研究者視点ーーー
ロバート・ヘイズが日本の研究施設へ入った時、最初に感じたのは設備の新しさでも警備の厳しさでもなかった。
静かすぎる。
彼がこれまで参加してきた国際共同研究では、新しい材料を巡って企業や大学の研究者が入り乱れることも珍しくなかった。しかし今回、日本側が用意した研究チームは驚くほど小さい。
必要な研究者だけが集められ、それぞれが自分の担当を明確に理解している。
その中心にいたのが松島孝明だった。
「長旅、お疲れさまでした。こちらが今回使用する試料です」
挨拶を終えた松島が用意したケースを開くと、内部に小さな青銀色の金属片が収められていた。
ヘイズはすぐには触れなかった。
米国ですでに少量の試料を分析しているため、見た目そのものは知っている。それでも日本国内で改めて目にすると、この物質が本当に存在していることを再確認させられる。
「以前提供された試料と同一のものですね?」
「同じハコニウムです。今回はこちらで複数の加工試験を行える量を準備しました。ただし試料管理については、事前に合意した条件を適用します」
「もちろんです」
ヘイズが頷く。
彼が知りたいのは供給源ではない、と言えば嘘になる。
これほど奇妙な物質がどこから出てきたのか、研究者として興味を持たない方がおかしい。
しかし今回の仕事は、そこを暴くことではなかった。
目の前に存在する未知材料を調べる。
それだけでも十分に魅力的な仕事だった。
「まず、こちらで再現できなかった加工条件を確認したい。特に切削時の工具損耗について、日本側のデータと比較したいと思っています」
ヘイズの提案に、松島はすぐ頷いた。
「我々もそこを期待しています。通常の工具では損耗が激しく、加工速度を上げるほど問題が大きくなっています」
研究が始まると、政治的な空気は急速に薄れていった。
試料を固定し、加工条件を変えながら工具への負荷を測定する。温度、回転速度、切削量を少しずつ変更し、日本側と米国側がそれぞれ持ち込んだ方法を比較していく。
最初の試験では、日本側がすでに経験していた問題がそのまま再現された。
工具の損耗が早い。
だが、ハコニウムそのものが単純に硬すぎるわけではなかった。
「やはり妙ですね」
加工面を確認していたヘイズが呟くと、松島も隣から測定結果を覗き込んだ。
「硬度だけで説明するなら、この損耗率にはならないはずです」
「摩擦時の挙動が通常の金属と違う可能性があります。条件を変えましょう。速度を落とすのではなく、逆に熱の発生条件を限定してみたい」
そこから何度も試験が繰り返された。
昼を過ぎても、研究者たちの集中は切れない。
夕方近くになった頃、一つの条件で明らかな変化が現れた。
工具の損耗が減っている。
劇的に加工が容易になったわけではない。それでも、これまでより安定した切削面が得られ、加工後のハコニウムにも大きな性質の劣化は見られなかった。
「もう一度、同じ条件でやりましょう」
ヘイズの声には興奮が混じっていた。
再試験でも結果は近かった。
三度目でも大きく崩れない。
松島は測定値を確認してから、ようやく椅子の背へ身体を預けた。
「少なくとも、方向は間違っていなさそうですね」
「ええ。ただし実用化にはまだ遠い。それでも昨日までよりは確実に前へ進みました」
ヘイズは青銀色の試料を見つめた。
加工できる。
その可能性が少し見えただけで、材料としての意味は大きく変わる。
どれほど優秀な性質を持っていても、必要な形へ加工できなければ産業材料にはなれない。逆に加工技術さえ確立できれば、この物質が利用できる分野は一気に広がる。
「航空宇宙分野は当然として、輸送機器でも面白いでしょうね。軽量化と強度を両立できるなら、設計そのものを変えられるかもしれない」
ヘイズがそう言うと、松島は少しだけ笑った。
「我々も同じことを考えています。ただ、まだ夢を語る段階ですよ」
「研究者が夢を語れなくなったら、新材料を調べる意味がないでしょう」
その言葉には松島も笑った。
国籍は違っても、未知の材料を前にした研究者の反応はそれほど変わらなかった。
ーーー日本政府視点ーーー
共同研究が始まって数日後、高橋と野口は最初の成果報告を受けていた。
加工技術が完成したわけではない。
しかし特定の条件下で工具損耗を抑えながら加工できる可能性が確認され、日米双方の研究者はさらに条件を絞り込んでいる。
「想定より早かったですね」
野口が報告書を閉じると、高橋も頷いた。
「米国側を入れた意味はありました。向こうも日本側にはなかった方法をいくつか持ち込んでいますし、松島先生たちとの相性も悪くないようです」
問題は、その先だった。
ハコニウムを加工できる可能性が高まれば、当然ながら利用価値も高くなる。
そして価値が高くなるほど、なぜ日本だけがこの物質を持っているのかという疑問も強くなる。
「いつまでも完全非公開というわけにはいかないでしょうね」
野口の言葉に、高橋はすぐ答えなかった。
すでに米国政府と一部の研究者は存在を知っている。
共同研究まで始まった以上、関係者が増えれば情報漏洩の危険も高くなる。誰かが意図的に漏らさなくても、研究予算や人員の動きから何かが存在すると推測される可能性はある。
「公表するなら、日本側が主導権を持って発表するべきでしょう」
高橋がようやく口を開いた。
「どこかから断片的な情報が漏れて、正体不明の新素材として騒がれる方が対応しにくい。研究成果が一定段階へ到達した時点で、存在そのものは公開する選択肢を考える必要があります」
「供給源は?」
「公開しません」
そこだけは迷いがなかった。
ハコニウムの存在を世界へ発表することと、八樹伊織や箱庭を公開することは別問題である。
材料の性質は科学的な成果として説明できる。
しかし供給源まで明かせば、世界で唯一の異能者である伊織本人が国際的な争奪の中心になりかねない。
「黒田さんへ上げましょう。まだ発表時期を決める段階ではありませんが、準備だけは始めた方がいい」
「そうですね。公表できるデータと、絶対に出せない情報の線引きも必要になります」
二人の間で、ハコニウムの世界発表へ向けた最初の検討が始まった。
ーーー伊織視点ーーー
その頃、俺は世界発表なんて話が始まっていることを知らず、羊のための畜舎をどこへ置くかで悩んでいた。
《購入》から選べる畜舎は思ったより種類があり、羊の数に対して大きすぎるものを選んでも仕方がない。今後少し増やすことを考えて、余裕がある程度のものを草原の端へ設置した。
柵についても、果樹園や畑へ簡単に入れないよう配置する。
政府経由で教えてもらった飼育上の注意も確認し、水場や休める場所を整えていくと、何もなかった草原が少しずつ牧場らしくなってきた。
「うん。こっちはこっちで順調だな」
柵の向こうでは羊たちがのんびり草を食べている。
果樹園ではブドウが順調に育ち、収穫できそうな房も増えていた。新しい山岳地帯には、まだほとんど足を踏み入れていない場所が残っている。
やりたいことはいくらでもある。
俺がそんなことを考えていると、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には高橋さんの名前が表示されている。
「はい、八樹です」
『今、お時間よろしいですか?』
「大丈夫ですよ。ちょうど羊を見てただけなんで」
電話の向こうで、ごく短い間があった。
最近、高橋さんと話していると時々こういう間が生まれる。
『日米のハコニウム共同研究で、加工について一つ前進がありました。まだ基礎研究の段階ですが、これまでより安定して加工できる条件が見つかりつつあります』
「おお、それは良かったですね」
素直にそう思う。
ハコニウムがどれだけ優秀でも、使えなければ青銀色の珍しい金属で終わってしまう。研究者たちが扱えるようにしてくれるなら、俺としてもありがたい。
『それに関連して、政府内で今後の情報公開について検討が始まっています』
「情報公開?」
『ハコニウムそのものを、いずれ公表する可能性があります』
そこで俺も少しだけ真面目になった。
「箱庭のこともですか?」
『いいえ』
高橋さんの返答は早かった。
『八樹さんの存在、《箱庭》、《限定ゲート》、資源が再形成される事実については、公開対象に含めません。米国にも伝えていない情報ですから、世界発表を行う場合でも同じです』
「それなら俺は構いませんよ。ハコニウム自体は、そのうち隠し続ける方が大変そうですし」
『ありがとうございます。まだ正式決定ではありません。具体的な発表内容が決まる前に、改めて八樹さんにも説明します』
俺として重要なのは、自分の生活が世界中から注目されないことだった。
ハコニウムという名前がニュースに出る程度なら問題ない。
俺自身がカメラの前へ出る必要もなく、箱庭へ外国の研究者が押しかけてくることもないのなら、専門的な部分は政府へ任せればいい。
「分かりました。それより高橋さん、ブドウがそろそろ収穫できそうなんですよ」
『……ブドウですか』
「ワイン用です。最初は少量で試そうと思ってて」
また電話の向こうが静かになった。
ハコニウムを世界へ公開するかもしれないという話をした直後に、俺がワインの話を始めたせいだろう。
『八樹さん』
「はい?」
『いえ。楽しんでいるようで何よりです』
「せっかく箱庭があるんですから、楽しまないともったいないでしょう」
電話を切った後、俺は再び牧場へ目を向けた。
日本とアメリカの研究者たちは、俺が持ち出した青銀色の金属を相手に毎日難しい研究を続けている。
政府では、その金属を世界へ発表する話まで始まったらしい。
一方の俺は、羊を眺めながらワインをいつ仕込もうか考えている。
我ながら随分な温度差だと思う。
それでも役割分担としては、これくらいでちょうどいい。
俺は箱庭を育てる。
難しい研究や国同士の話は、それが得意な人たちに任せる。
そして出来れば、世界中がハコニウムという名前を知る頃には、湖畔のテラスで自分のワインを飲めるようになっていたい。
俺にとっては、そのくらいの目標の方がずっと分かりやすかった。




