箱庭の奥へ
果樹園で新しい領域を広げられることに気づいた翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
会社員だった頃なら、休日に早起きする理由なんて旅行くらいしかなかった。それが今では、自分だけの世界を探検するために目覚ましより先に起きているのだから、生活というものは随分変わるらしい。
日本側の家で簡単に朝食を済ませ、着替えてから必要なものを《収納》へ入れていく。昼飯と飲み物、タオル、雨具、簡単な救急用品に加え、途中で良さそうな川を見つけた時のために釣り道具まで用意した。
箱庭の中だから絶対に安全だと思い込むつもりはない。
これまで危険な大型動物は確認されていないが、領域を広げれば何が現れるか分からない。政府と協力するようになってから、その辺りについて高橋さんたちにも何度か注意されていた。
もっとも、今日はまだ政府へ連絡していない。
「新しい場所を歩いてから報告するくらいはいいだろ。何か変なのを見つけても触らなきゃいいんだし」
誰に言うでもなく呟いてから《箱庭》を使うと、景色が日本の住宅から湖畔の家へ切り替わった。
外へ出れば、朝の空気が気持ちいい。湖面には薄く霧が残り、森の方から鳥の声が聞こえてくる。少し離れた果樹園では、昨日までより葉が増えたようにさえ見えた。
そのまま果樹園を抜け、新しく広げられる場所へ向かう。
箱庭の端まで来たところで《管理》を開き、領域拡張を選択した。
これまでにも何度か経験した操作なので迷うことはない。必要なものが蓄積され、箱庭側の条件も満たしていることを確認してから、そのまま実行する。
境界の向こう側が淡い光に包まれた。
何も存在しなかったはずの場所へ地面が続き、その先でゆっくりと高低差が生まれていく。草原だけではなく、木々が立ち並び、そのさらに奥では大きな地形そのものが形作られていた。
光が収まった時、俺はしばらくその景色を眺めていた。
「……山じゃん」
今まで箱庭に存在していた低い山とは明らかに違う。
新しく現れた領域には、いくつもの山が連なるような地形が広がっていた。遠くに見える最も高い場所でも本格的な高山というほどではなさそうだが、少なくとも気軽に散歩するだけで全体を回れる広さではない。
山の斜面は森林に覆われ、その間を縫うように水が流れている。
耳を澄ませば、かなり離れているはずなのに水音まで聞こえてきた。
「これは今日だけじゃ無理だな」
嬉しい意味で予定が狂った。
新しい土地を一日歩いて、夕方には家へ帰るくらいに考えていたのだが、これだけ広ければ何日かに分けて探検した方がよさそうだった。
それでも今日は行けるところまで行ってみる。
俺は《管理》で現在位置を確認しながら、新しく現れた森へ足を踏み入れた。
以前自分で作った森とは、最初から雰囲気が違っていた。
俺が植物を追加しながら育てた森は比較的歩きやすい場所が多いが、新しい森林地帯には太い木が何本もあり、地面には低木や草が密集している。
倒木には苔が広がり、その周囲を小さな虫が動いていた。
箱庭が領域を広げる時、単に土地だけを増やしているわけではないらしい。植物も微生物も、少なくとも一部の昆虫まで含めた環境そのものが形成されている。
それを確認しながら歩いていると、やがて木々の間から流れる水を見つけた。
幅はそれほど広くないが、透明度の高い渓流だった。
流れに沿って上流へ向かうと、小さな段差を水が勢いよく落ちている場所もある。さらに奥へ進むにつれて地形の高低差が大きくなり、俺は何度も立ち止まって周囲を眺めた。
「こういうの、普通に旅行じゃん」
誰もいない山道を、自分の好きな方向へ歩いていく。
案内板もなければ観光客もいない。そもそもこの山が存在していることを、現時点では俺以外の誰も知らない。
世界で俺しか知らない景色だと思うと、それだけで少し楽しくなった。
渓流の近くで休憩してから、さらに上流へ向かう。
しばらく歩いたところで、水音が急に大きくなった。
木々の間を抜けると視界が開け、その先に岩壁が現れる。そこから流れ落ちた水が白い飛沫を上げ、下にできた小さな滝壺へ注ぎ込んでいた。
巨大な滝ではない。
それでも周囲の森林と岩壁に囲まれた景色は十分に綺麗だった。
「ここ、いいな」
俺は滝から少し離れた岩へ腰を下ろし、《収納》から昼飯を取り出した。
今日は自分で握ったおにぎりと、昨日作っておいた卵焼き、それに簡単なおかずだけだ。豪華でも何でもないが、滝を眺めながら食べると妙に美味く感じる。
食後には釣り竿まで取り出した。
滝壺から続く流れに魚がいるか気になったからだ。
少し場所を変えながら試していると、しばらくして竿先に反応があった。慌てず引き上げると、見慣れた湖の魚とは違う、小ぶりな魚が針に掛かっている。
「ちゃんと魚までいるのか」
写真だけ撮って、今日は逃がしておいた。
食べられる魚なのか確認できていないし、新しく形成された場所の生き物をいきなり持ち帰る必要もない。
その代わり、今度ここで一日釣りをするのも悪くないと思った。
午後は滝から少し離れ、山の斜面を横切るように進んだ。
途中には小さな洞窟らしき場所も見つけたが、今日は中へ入らなかった。入口から覗いた限りでは奥まで続いているようなので、装備を整えてから改めて来た方がいい。
昔の俺なら、興味だけで入っていたかもしれない。
今は箱庭の中に未知の鉱物まで存在することを知っている。何があるか分からない場所へ一人で入るほど無茶をするつもりはなかった。
洞窟の位置だけ《管理》で覚えておき、さらに周辺を歩く。
夕方が近づいた頃には、さすがに足が重くなっていた。
新領域全体から見れば、今日歩けた範囲などほんの一部だ。それでも森林、渓流、滝、洞窟と、十分すぎるほど新しいものを見つけられた。
「残りは明日以降だな。急いで全部見る必要もないし」
自分の世界なのだから、観光地のように一日で回る必要はない。
来週でも来月でも、好きな時に続きを見ればいい。
そう考えながら湖畔の家へ戻った。
家へ着いてシャワーを浴び、冷蔵庫からビールを取り出してテラスへ出る。
朝からかなり歩いたので、椅子へ座った瞬間に身体から力が抜けた。
「これはうまい」
一口飲んだだけで、今日一日の疲れが報われた気分になる。
目の前には湖があり、その向こうには森が広がっている。そして今では、そのさらに奥に新しい山岳地帯まで存在していた。
箱庭を手に入れた初日には、小さな草原と水源しかなかった。
それが少しずつ広がり、今では一日歩いても見て回れないほどの場所になっている。
ビールを飲みながら今日撮った写真を眺めていると、視界の端に《購入》の更新を知らせる表示が出た。
「また増えたのか?」
グラスをテーブルへ置き、《購入》を開く。
住居が追加された時ほど大きな変化ではなかったが、生物関係の選択肢が明らかに増えている。
これまでは鶏や小型の生物が中心だった項目に、以前は存在しなかった中型の動物が表示されていた。
その中で真っ先に目に入ったのが羊だった。
「ちょうど考えてたやつじゃん」
思わず笑ってしまった。
ほかにもいくつか家畜として扱えそうな動物が追加されているが、いきなり何種類も増やすつもりはない。生き物を入れる以上、餌や環境との相性を考える必要がある。
それでも羊なら、前から少し興味があった。
草原は広い。
水も十分にある。
果樹園や畑へ勝手に入らないよう区画だけ考えれば、飼育する場所には困らないだろう。
「明日は山じゃなくて、こっちかな」
予定が早くも変わった。
新領域の探索も続けたいが、逃げるわけではない。山は明後日でも残っている。
それなら今は、ずっと考えていた羊を迎える方が面白そうだった。
翌朝、俺は湖畔の家から少し離れた草原に立っていた。
果樹園や畑とは反対側で、水辺にも近い。周囲には十分な草があり、森との間にも距離があるので、最初に様子を見る場所としては悪くない。
いきなり群れと呼べるほど増やすのではなく、まずは少数から始めることにした。
《購入》で羊を選び、導入する。
淡い光が草原へ広がり、それが消えた時には数頭の羊が立っていた。
突然知らない場所へ放り出されたように暴れることもなく、しばらく周囲を見回した後、一頭が足元の草を食べ始める。それにつられるように、他の羊もゆっくり動き出した。
「おお……なんか一気に牧場っぽくなったな」
今までにも鶏や魚、生き物はたくさんいた。
それでも草原を歩く羊の姿は存在感が違う。
少し離れた場所から眺めているだけで、箱庭の景色がまた一段変わったように感じられた。
しばらく様子を見ていると、一頭がこちらへ近づいてくる。
警戒している様子はあるものの、逃げるほどではない。俺がその場でしゃがんで待っていると、羊は少しずつ距離を詰めてきた。
「よろしくな。果樹園だけは食うなよ」
当然返事はない。
それでも羊は俺の手の匂いを嗅いでから、興味を失ったように草の方へ戻っていった。
まず必要なのは雨風を避ける場所と、行動範囲をある程度決める柵だろう。
《購入》には簡単な畜舎や柵も追加されていたので、それを使えば大掛かりな作業にはならない。水場についても近くへ小さな流れを引けば済みそうだった。
ただし、飼育方法まで自己流で決めるつもりはない。
俺は羊たちの写真を何枚か撮り、高橋さんへ送った。
少しして電話が掛かってくる。
「八樹さん、今度は羊ですか」
開口一番そう言われ、俺は草を食べている羊を眺めながら笑った。
「昨日、新しい領域を広げたら《購入》に追加されたんですよ。とりあえず少しだけ入れてみました」
「昨日、新しい領域を広げた?」
声の調子が変わった。
そういえば、まだそちらを報告していなかった。
「山が増えました。森と渓流と滝があって、洞窟も一つ見つけましたよ。魚もいました」
電話の向こうが数秒ほど静かになる。
俺としては昨日一日の旅行報告くらいの感覚だったのだが、高橋さんにとっては違うらしい。
「八樹さん。確認ですが、洞窟には入りましたか?」
「入ってませんよ。さすがに一人で未知の洞窟へ入るほど無茶しませんって。入口だけ確認して帰りました」
その返事を聞いて安心したらしく、高橋さんの声から少し力が抜けた。
「ありがとうございます。新領域については、後ほど位置と分かる範囲の情報だけ共有してください。すぐ調査隊を入れたいという話ではありません。まず八樹さんが確認した内容を整理します」
「分かりました。それより羊の飼い方に詳しい人、紹介してもらえません? 果樹園を食われるのだけは困るんで」
再び短い沈黙があった。
「……分かりました。畜産関係で、事情を必要以上に知らせず相談できる専門家を探します」
「助かります」
通話を終え、俺はスマートフォンをポケットへ戻した。
政府からすれば、新しい山や洞窟の方が重要なのだろう。
俺だって何か珍しいものが見つかれば報告するつもりだし、危険そうな場所へ勝手に入る気もない。
それでも今、一番気になっているのは目の前の羊だった。
畜舎をどこへ置くか考えながら草原を歩いていると、遠くに湖畔の家が見える。その向こうには果樹園があり、さらに奥には昨日現れた山々が続いていた。
畑しかなかった頃と比べれば、ずいぶん賑やかになった。
「次は牧場か。ほんと、やることなくならないな」
会社を辞めた時には、時間が余るかもしれないと思っていた。
どうやら、その心配だけは必要なかったらしい。




