箱庭に果樹園を作ろう
湖畔の家が完成してから、俺の生活は予想していた以上に箱庭寄りになった。
日本側にも政府の勧めで移った家があるし、買い物や外食をするなら当然そちらへ戻る。それでも朝起きて予定がなければ箱庭へ入り、夜までこちらで過ごす日が増えていた。
理由は単純で、居心地がいいからだ。
湖畔の家には日本から持ち込んだ家具や家電が揃い、簡易的ながら電力設備もある。風呂にも入れるし、冷蔵庫には食材と酒が入っている。以前のようなキャンプに近い生活とはまるで違っていた。
そして何より、玄関を出れば自分で育ててきた世界が広がっている。
朝食用の卵が欲しければ鶏小屋へ行けばいい。野菜なら畑にあるし、魚が食べたければ湖で釣ることもできる。少し歩けば森があり、その先には俺自身もまだ細かく調べていない場所が残っていた。
会社員だった頃、休日になってから何をしようか考えていたのが嘘のようだった。
そんな生活を始めて数日後、俺は前から考えていた果樹園作りに手を付けることにした。
「家から近すぎると虫も増えそうだし、この辺りがちょうどいいかな」
湖畔の家から少し離れた緩やかな斜面を歩きながら、周囲の地形を確認する。日当たりは悪くなく、水源からも遠すぎない。家との間には適度な距離があり、既存の森とも直接ぶつからない場所だった。
以前なら、苗木を一本ずつ日本から持ち込むことを最初に考えただろう。
しかし住居まで《購入》から用意できることに気づいた今では、何か欲しいものがあれば、まず箱庭側に追加されていないか確認する癖が付いている。
《購入》を開いて植物関係の項目を確認すると、箱庭の成長に合わせて果樹の種類もかなり増えていた。
リンゴや梨、桃、柿、栗といった馴染みのある果樹だけでなく、柑橘類まで選べる。さらにブドウについても、生食に向くものや加工に適したものなど、特徴の異なる種類が用意されていた。
「ブドウは両方欲しいな。普通に食べる分と、加工する分で分ければいいか」
何に加工するかは、すでに決まっている。
せっかく箱庭では植物が早く育つのだから、果物だけ食べて終わるのはもったいない。ブドウが安定して採れるようになれば、いずれはワイン作りにも挑戦してみたかった。
もちろん、いきなり大量に植えるつもりはない。
箱庭の成長が早いからこそ、何か問題が起きた時の影響も早く出る可能性がある。これまで森や湖を作ってきた経験から、俺もそのくらいは考えるようになっていた。
まず果樹園として使う範囲を決め、リンゴや梨、桃を少しずつ配置していく。柿と栗は少し離れた場所へ置き、ブドウについては日当たりのいい斜面の一部を専用の区画にすることにした。
ただ苗木を並べるだけでは面白くないので、途中には歩きやすい道を作り、小さな水路も引いた。《管理》を使えば大規模な地形変更まではできなくても、生活や栽培に必要な程度ならかなり自由に整備できる。
「これなら収穫する時も楽そうだな。最初の畑を作ってた頃とは大違いだ」
箱庭を手に入れたばかりの頃は、ジャガイモを育てるために自分で土を掘っていた。それが今では湖畔に家を持ち、果樹園まで作れるようになっている。
俺自身が少しずつ育ててきた世界だからこそ、新しい機能が増えるたびに妙な達成感があった。
午前中いっぱいを使って配置を終える頃には、何もなかった斜面の景色が大きく変わっていた。
まだ若い木ばかりなので、本格的な果樹園と呼ぶには少し寂しい。それでも箱庭の成長速度を考えれば、この状態を眺めていられる期間はそれほど長くないだろう。
俺は家から持ってきた折り畳み椅子を木陰へ置き、冷たい飲み物を飲みながら出来上がったばかりの果樹園を眺めた。
「次は何を増やすかな。そろそろ少し大きな動物も面白そうなんだよな」
大型動物を何頭も入れるつもりはないが、羊くらいなら少し興味があった。草地は十分に広いし、箱庭なら牧草を確保することも難しくない。
羊毛が欲しいというより、広い草原を羊が歩いている景色を見てみたいという理由の方が大きい。
ヤギも候補にはなるが、植物をかなり食べると聞いたことがある。せっかく育てた森や、今日作ったばかりの果樹園を荒らされるのは困るので、その辺りは詳しい人へ確認した方がよさそうだった。
「高橋さんに聞けば、また誰か詳しい人を探してくれるだろ」
政府と協力するようになって便利になったことの一つが、分からないことを専門家へ聞けるようになったことだった。
俺が何か思いついて高橋さんへ相談すると、数日後には必要な情報が整理されて返ってくる。国家機密を扱う政府を便利な相談窓口のように使っている気もするが、高橋さんたちも今のところ文句は言っていない。
果樹園を作ってから十日ほど経つと、箱庭らしい変化が目に見えて現れ始めた。
苗木は明らかに大きくなり、枝葉も増えている。現実世界なら何年も待たなければならない成長を、こちらでは短期間で観察することができた。
すでに花を付け始めた木まである。
その周囲には昆虫が集まり、以前森へ導入した蜂も飛んできている。俺が何かしなくても受粉が始まり、新しく作った果樹園が既存の生態系へ少しずつ組み込まれていた。
箱庭を手に入れた当初は、何かを育てるたびに俺自身が世話をしなければならないと思っていた。
今では考え方が完全に逆になっている。
俺が毎日世話をしなくても回る環境を作る方が楽だし、見ていて面白い。落ち葉が土へ戻り、虫が増え、それを食べる生き物が集まり、果実ができれば一部を俺が収穫して、残ったものは別の生き物へ回っていく。
そうやって生命の循環が増えるほど、箱庭そのものも少しずつ成長していく。
「楽できる上に箱庭も育つなら、その方が絶対いいよな」
我ながら俺らしい結論だった。
ーーー日本政府視点ーーー
八樹伊織が果樹園の成長を楽しんでいる頃、日本政府側ではまったく別の資料が机の上へ並べられていた。
会議に参加しているのは黒田、高橋、野口、松島を中心とした少人数だけである。エネルギウムの研究に関わる人員は少しずつ増えているが、その全員が箱庭の存在まで知っているわけではない。
「確認された範囲だけで構いません。現状を説明してください」
黒田に促され、松島が資料を開いた。
「エネルギウムについては、電気エネルギーを内部へ保持し、必要に応じて再び取り出せること自体はほぼ間違いありません。現在は安全性、充放電による劣化、それから蓄電可能量を中心に確認しています」
実用化を急いではいない。
むしろ性能が高い可能性があるからこそ、慎重に進めていた。大量のエネルギーを小さな物体へ蓄えられるのであれば、利便性だけでなく事故が起きた場合の危険性まで大きくなる。
「もう一つ興味深い結果があります。現時点では、充放電を繰り返しても目立った劣化が非常に少ない。もちろん長期試験はこれからですが、既存の蓄電技術とはかなり異なる性質を持っている可能性があります」
野口は資料へ目を落としながら、その結果が社会へ与える影響を考えていた。
「仮に安全性を確立できた場合、最初に利用できそうなのはどこでしょう?」
「用途を限定するなら、まず固定式の蓄電設備でしょう。重量や体積でも優位性が確認できれば移動体への応用も考えられますが、いきなり車両や航空機へ搭載するべきではありません」
松島の回答に、黒田も異論を挟まなかった。
研究室で優秀な結果を出したことと、社会で安全に利用できることはまったく別の話だった。
「米国側には、引き続きエネルギウムの情報を出さない方針でいいな?」
黒田の確認に、高橋が頷いた。
「日米共同研究の対象はハコニウムのみです。エネルギウムについて米国側は存在そのものを知りませんし、現時点で知らせる必要もありません」
八樹伊織という存在も、《箱庭》という異能も、その内部で資源が再形成される事実も、米国には伏せられている。
日本が提供しているのは、政府管理下にあるハコニウムの研究試料と、共同研究に必要な範囲の情報だけだった。米国側が供給源に強い関心を持っていることは分かっているが、その部分は研究協定の対象外としている。
「来日する米国研究団については?」
「予定通り受け入れます。ただし使用するのは箱庭とは関係のない材料研究施設です。限定ゲートのある施設とは人的にも動線を分け、箱庭へ繋がる情報に接触する可能性を排除します」
高橋はそこで資料を一枚めくり、今回の共同研究で日本側にも十分な利益があることを説明した。
ハコニウムは優れた性質を持つ一方で加工が難しく、日本側だけでは試せる技術にも限界がある。米国側が持つ加工技術や測定設備を利用できれば、素材としての可能性をより早く確認できる。
「利用できる部分は利用する。ただし、守るものは守るということだな」
「はい。ハコニウムの研究と供給源の情報は、完全に分けて扱います」
その後も試料の供給量や管理方法、研究成果をどこまで共有するかについて議論が続いた。
会議が終わりに近づいたところで、高橋の手元へ箱庭内部の環境変化に関する定期報告が回ってくる。
生活区域周辺では植物量と生物活動が再び増加しており、新たに複数の果樹が追加されたことも記録されていた。
「八樹さん、今度は本当に果樹園を作ったようですね」
野口が資料を確認しながら、わずかに笑った。
「先日、ブドウを育てたいと言っていましたからね。おそらく目的は果物だけではないでしょう」
高橋がそう答えると、松島まで資料から顔を上げた。
「ワインですか?」
「おそらく。あの人なら、そのためにブドウを育てても不思議ではありません」
国家機密として管理されている異空間で、世界で唯一の異能者が果樹園を作り、ワイン造りの準備を始めている。
文字だけを見れば冗談のような状況だが、政府として止める理由はなかった。
むしろ生命活動が豊かになるほど地下資源の再形成が活発になる可能性がある以上、伊織が楽しみながら箱庭を育ててくれることは、政府にとっても歓迎すべきことだった。
「好きにしてもらいましょう。我々が必要以上に口を出して、八樹君が箱庭を育てること自体を面倒だと思うようになる方が困る」
黒田はそう言って報告書を閉じた。
「安全上の問題がない限り、生活区域については本人の自由を尊重する。彼に国家事業を背負わせるために協力関係を結んだわけではないからな」
その方針に反対する者はいなかった。
ーーー伊織視点ーーー
それからさらに数日後、俺は果樹園で最初の桃を収穫していた。
箱庭の成長速度を知っている俺でも、さすがに早いと思う。手のひらに載せると十分な大きさがあり、近づけるだけで甘い匂いが感じられた。
軽く洗ってから、その場で皮ごとかじってみる。
「うまいな。これなら普通に当たりだ」
柔らかな果肉から果汁が溢れ、甘味もしっかりしている。試しに一個だけ食べるつもりだったのに、そのまま最後まで食べ切ってしまった。
周囲を見ると、別の木にも果実が付き始めている。リンゴや梨はもう少し時間が必要そうだが、それでも現実の果樹栽培とは比べものにならない速度だった。
そして俺が一番気にしていたブドウにも、小さな房ができ始めている。
まだ収穫できる状態ではないものの、この様子なら遠くないうちに十分な量を確保できるだろう。
「そろそろワインの作り方も調べておくか。せっかくなら最初は少量から試してみたいしな」
酒を飲むのは好きだが、造った経験は当然ない。
だから最初から完璧なものを作ろうとは思っていなかった。何度か失敗しながら、自分で飲める程度のものが出来れば十分だ。
そんなことを考えながら家へ戻ろうとした時、視界の端に見慣れた表示が現れた。
箱庭の成長を知らせるものだった。
今回の変化は果樹園だけが理由ではないらしい。森、湖、湿地、草原、畑、果樹園、そしてそこに暮らす生き物たちが互いに繋がり、生命の循環そのものが以前より大きくなっている。
その結果として、新たな領域を広げられる状態になっていた。
「また広げられるのか。思ったより早かったな」
俺は食べるために持って帰ろうとしていた桃を片手に、新しく広げられる方向を確認した。
湖よりさらに奥、現在は箱庭の端になっている場所だ。
そこに何があるのかは、広げてみるまで分からない。
新しい森かもしれないし、山や川が現れるかもしれない。これまでのように地下から何かの資源が見つかる可能性もあるが、別に毎回珍しいものが出てくる必要はなかった。
何が現れるのか分からない状態で、自分の世界を少しずつ広げていくこと自体が面白い。
政府と共同研究を始めてからは、新しい資源が見つかるたびに安全確認や研究のことまで考えるようになった。それでも箱庭を広げる瞬間だけは、最初にこの世界へ入った頃と変わらず純粋に楽しみだった。
「よし。明日は一日空けておこう」
新しく広がった場所を歩き回り、気になるものがあれば自分で確認する。
政府へ報告するのは、その後でも遅くない。
危険そうなものを勝手に持ち帰るつもりはないが、新しく広がった自分の箱庭を最初に探検するくらいは、箱庭の主である俺の楽しみにしておきたかった。
俺は明日のために飲みすぎないようにしようと考えながら、収穫した桃を抱えて湖畔の家へ戻った。




