自由人と電気を蓄える石
会社を辞めてからというもの、俺の朝はかなり遅くなった。
目覚まし時計を使わなくなったわけではない。政府との打ち合わせがある日には当然起きるし、研究所へ行かなければならない日だってある。ただ、それ以外の日まで朝早く起きる理由がなくなった。
今日も目を覚ました時には、時計の針が午前十時を過ぎていた。
「……最高だな」
ベッドの上でしばらく天井を眺めてから、ゆっくり起き上がる。
以前住んでいた賃貸とは違い、今の家はかなり広い。政府から紹介された高級住宅街の一角にある一戸建てで、門や塀だけでなく防犯設備まで整えられている。
世界で唯一の異能者を普通の賃貸住宅へ住ませておくのは危険だという政府側の判断だったが、実際に暮らしてみれば悪くない。
むしろ快適すぎるくらいだった。
顔を洗ってからリビングへ向かい、冷蔵庫を開ける。中には普通の食材に混じって、昨日箱庭から持ち帰った卵と野菜が入っていた。
「今日は向こうで食うか」
冷蔵庫からベーコンだけ取り出し、それを収納へ入れる。
着替えを済ませた俺は庭へ出ることもなく、その場で《箱庭》へ移動した。
視界が切り替わった瞬間、住宅街の静かな室内とはまるで違う景色が広がる。
草原を吹き抜ける風の匂い、遠くから聞こえてくる鳥の声、その向こうには以前より明らかに大きくなった森が見える。さらに奥には低い山々が連なり、その地下には鉄や銅だけでなく、金銀やハコニウムまで眠っていた。
最近では政府の人間が出入りする共同研究区域も存在するが、生活区域からはかなり離してある。
おかげで研究が行われていることを忘れて過ごせる。
「さて、朝飯にするか」
畑から玉ねぎを一つ抜き、鶏小屋へ向かう。
最初に入れた三羽から始まった鶏も、今では少し数が増えている。卵を回収しながら餌と水を確認すると、こちらを気にすることもなく地面をつついていた。
卵、玉ねぎ、ベーコン。
それだけあれば十分だった。
簡単な調理設備を置いた場所まで戻り、フライパンでベーコンと玉ねぎを炒める。そこへ卵を落とし、最後に軽く塩を振った。
箱庭で育ったものだから特別な効果があるわけではない。
ただ、採れたばかりの野菜と卵は普通にうまかった。
「ビール欲しいな……いや、まだ昼前か」
会社員だった頃なら休日でもない限り考えもしなかったことを口にしてから、さすがにやめておく。
朝食を食べ終えた後は、特に予定もなかった。
政府から今日の呼び出しはない。
ならば箱庭で遊ぶ日にする。
最近気になっているのは湖だった。
領域拡張によって生まれた湖にはすでに水草や小型の水生生物を入れており、魚も少しずつ増えている。最初は生態系を作るために始めたことだったが、魚が増えたなら別の楽しみ方もできる。
俺は日本側へ一度戻り、以前買っておいた釣り道具を収納へ入れてから再び箱庭へ入った。
湖畔まで歩き、適当な場所へ折り畳み椅子を置く。
「国家機密の異能でやることが釣りか」
自分で言って、少し笑ってしまった。
日本政府は箱庭から採れる未知金属を研究し、アメリカまでハコニウムの研究に参加し始めている。
その中心にいる俺本人は、平日の昼間から自分の世界で釣りをしていた。
だが、俺としてはこれでいい。
世界を変えたいと思って箱庭を育て始めたわけではない。最初は小さな畑を作り、ジャガイモを育て、鶏を入れた。それが面白かったから続けていただけだ。
結果として地面から金や未知金属まで出てきたのだから、そちらは詳しい人間に任せればいい。
しばらく湖面を眺めていると、浮きが沈んだ。
「おっ」
竿を上げる。
それほど大きくはないが、十分食べられそうな魚が一匹釣れた。
「よし。昼飯確保」
魚を容器へ入れ、もう一度仕掛けを投げる。
そんなことを繰り返しているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
昼を少し回った頃、現実へ戻るとスマートフォンに高橋さんから連絡が入っていた。
緊急ではないらしく、時間がある時に折り返してほしいとだけ書かれている。
「はい、八樹です」
『高橋です。お休みのところすみません』
「大丈夫ですよ。釣りしてただけなので」
電話の向こうで少し間が空いた。
『……箱庭で、ですか?』
「そうです。三匹釣れました」
『それは何よりです』
たぶん高橋さんも、何と返せばいいのか分からなかったのだろう。
「それで、何かありました?」
『以前お預かりした暗灰色の鉱石について、松島先生から追加報告がありました』
「ああ、電気が消えるとか言ってたやつですね」
『正確には消えていたわけではなかったようです』
話を聞くと、研究所ではすでに何度も試験を行い、あの鉱石が電気エネルギーを内部へ蓄えられる可能性がかなり高くなったらしい。
電気を与える。
しばらく保存する。
必要な時に取り出す。
説明だけなら非常に単純だった。
「つまり、電池ですか?」
『かなり大雑把に言えば、そう考えていただいて構いません。ただし既存の蓄電池とは仕組みが違う可能性があるそうです』
「へえ」
ハコニウムの時ほど驚かなかったのは、俺自身が箱庭に慣れてしまったせいかもしれない。
「それって便利なんです?」
『非常に便利になる可能性があります』
高橋さんによれば、スマートフォンや車だけの話ではないらしい。再生可能エネルギーの蓄電設備や災害時の非常電源、将来的には航空機や宇宙開発にまで関係する可能性があるという。
そこまで聞いたところで、俺は別のことが気になった。
「じゃあ、それ使えば箱庭で電気を使いやすくなります?」
『……八樹さんは、そちらが気になりますか』
「俺にとっては重要ですよ」
今の箱庭には簡単な電源設備を持ち込んでいるが、生活区域全体へ本格的に電力を供給しているわけではない。
箱庭にいる時間が長くなった今、冷蔵庫や照明を普通に使えるだけでもかなり便利になる。
何より、いちいち日本へ戻らなくても冷えたビールを置いておける。
『実用化できれば可能でしょう。ただ、今はまだ研究用の小さな試料しかありません』
「じゃあ、安全に使えるようになったら最初の一個ください」
『松島先生に伝えておきます』
冗談半分だったのだが、高橋さんは普通に了承した。
電話を切った後、俺は少し考える。
どうせ箱庭で過ごす時間が増えるなら、生活区域ももう少し本格的に整えていいかもしれない。
今までは畑や鶏小屋を作ることが中心で、人間である俺自身が暮らす場所については最低限しか手を入れていなかった。
「家、作るか」
土地ならいくらでもある。
せっかくなら日本側の家とは違うものがいい。
大きすぎる必要はないが、寝室と風呂があり、台所があり、広めの居間がある。外には屋根付きの場所を作り、そこで酒を飲めるようにしたい。
できれば湖も見える場所がいい。
思いついたら、急に楽しくなってきた。
俺は再び箱庭へ入り、湖から少し離れた高台を歩き回った。
森を背にして、正面には湖が広がる。少し歩けば畑にも行けるし、研究区域からは十分離れている。
「ここだな」
候補地を決めたところで、今度は必要なものを考える。
さすがに一人で家を建てるつもりはない。
箱庭の存在を知らない普通の建築会社を連れてくるわけにもいかないので、政府へ相談する必要があるだろう。
高橋さんには申し訳ないが、どうせ国家機密として面倒を見てもらっている。
ついでに頼んでしまえばいい。
スマートフォンを取り出そうとして、箱庭の中ではそのまま電話できないことを思い出す。
「……やっぱ通信も欲しいな」
欲しいものが一つ増えた。
電気、冷蔵庫、風呂、通信環境。それから酒を保管する場所も欲しい。
考えているうちに、最初は小さな家だったはずの計画が少しずつ大きくなっていく。
翌日。
共同研究区域へ来た高橋さんに、俺は作ったばかりの簡単なメモを渡した。
「箱庭に家を建てたいんですけど」
「家、ですか?」
「最近こっちにいる時間が長いんですよ。だったらちゃんと生活できる場所が欲しいなって」
高橋さんはメモへ目を落とした。
電気設備、給排水、浴室、台所、冷蔵設備、通信手段、それから小さな酒蔵。
「最後のものは生活必需品でしょうか」
「俺には必要です」
「そうですか」
高橋さんは否定しなかった。
そのあたりは付き合いが長くなってきた成果だと思う。
「建築については検討できます。ただ、一般の業者をそのまま入れることはできません。箱庭の存在を知る人間を増やさない方法を考える必要があります」
「材料だけ持ち込んで、俺が組み立てられるようにするのは?」
「それなら選択肢は増えます。プレハブ方式やユニット方式であれば、外部である程度まで製造できますから」
「それでお願いします。豪邸じゃなくていいんで、ちゃんと住めるやつが欲しいです」
話しているうちに、野口さんまで加わってきた。
最初は住宅の相談だったはずなのに、電力設備や水処理まで話が広がり、最終的には箱庭生活区域そのものを整備する計画になってしまった。
もっとも、俺にとって悪い話ではない。
箱庭が成長して広くなった以上、いつまでもキャンプの延長みたいな生活を続ける必要もなかった。
「それと、例の鉱石なんですが」
話が一段落したところで、高橋さんが言った。
「研究上、呼び名がないと不便になってきたそうです。松島先生から、八樹さんにも相談したいと」
「俺が決めるんですか?」
「ハコニウムも八樹さんが名付けていますから」
少し考える。
電気を蓄える石。
難しい名前を付けても、どうせ俺自身が覚えられない。
「エネルギウムとかでいいんじゃないですか?」
「……また、そのままですね」
「分かりやすいでしょう?」
野口さんが笑いを堪えながら、高橋さんを見る。
「私はいいと思いますよ。少なくとも会議で《暗灰色未知鉱物》と言い続けるよりは」
「では、研究上の仮称として松島先生へ伝えます」
こうして、俺が適当に口にした名前が二つ目の未知鉱物へ付けられることになった。
《エネルギウム》。
その名前が将来どれほど大きな意味を持つのか、この時の俺はまだ知らない。
それより今の俺にとって重要だったのは、湖の見える場所に建てる新しい家と、いつかエネルギウムを使って冷蔵庫を動かすことだった。
箱庭で釣った魚を焼いて、冷えたビールを飲む。
国家機密だの未知金属だのという話より、俺にはそちらの方がずっと楽しみだった




