自由になった箱庭の主
会社を辞めて高級住宅街の新居へ移ってから、伊織の生活は大きく変わった。
朝は決まった時間に起きなくてもいい。政府との打ち合わせや研究予定が入っている日は別だが、それ以外なら昼近くまで眠っていても誰にも怒られない。
だからといって、毎日だらだら過ごしているわけでもなかった。
むしろ会社員だった頃より、箱庭へ滞在する時間は大幅に増えている。
新居で遅めの朝食を済ませ、必要なら買い物へ出る。それから箱庭へ入り、森や水辺を見て回る。夕方になれば現実へ戻り、風呂へ入って酒を飲む。
政府側から連絡が来れば研究にも付き合うが、それも毎日ではない。
伊織にとっては、かなり理想に近い生活だった。
「会社辞めて正解だったな」
ある日の午前中、伊織は箱庭の森を歩きながら呟いた。
以前より明らかに森らしくなっている。
最初に植えた木々は大きく育ち、その周囲では自然に増えた若木も目立つようになった。林床には落ち葉が積もり、昆虫や土壌生物がそれを分解している。
鳥の種類も増えていた。
伊織が直接追加した種類だけではない。
箱庭へ導入した生物が繁殖し、世代を重ね始めている。
水辺も同じだった。
最初は小さな水源しかなかった場所から流れを作り、水草や魚を加え、その後の領域拡張で湖と湿地まで現れた。
伊織は最近、その湖周辺を重点的に整えている。
ただし人間が見て綺麗な公園を作るつもりはなかった。
水辺には浅い場所と深い場所を残し、湿地には複数の植物を増やす。魚だけでなく小型の水生生物も追加し、陸上と水中の生命が繋がる環境を作っていた。
管理画面から得られる説明も以前より詳しくなっている。
単に生物の数を増やすより、異なる環境が繋がり、それぞれの生命活動が循環する方が箱庭全体の成長へ大きく影響するらしい。
伊織は細かな数字まで追っていない。
それでも箱庭が以前より活発になっていることは、歩いているだけでも分かった。
森の匂いが濃くなった。
鳥や虫の声が増えた。
水辺へ行けば魚が泳ぎ、湿地では小さな生物が動いている。
何より、伊織自身が何もしなくても環境が変化するようになった。
「こういうのでいいんだよ」
伊織が求めていたのは、自分が毎日世話をしなければ維持できない巨大農園ではない。
多少放っておいても生物が勝手に生き、増え、死に、その死骸や排泄物まで別の生命へ利用される世界だった。
必要な時だけ少し手を加える。
その方が伊織の性格にも合っている。
会社を辞めて時間が増えたことで、箱庭を細かく管理するようになるのではなく、むしろ手をかけなくても回る環境を増やすことに時間を使うようになっていた。
そんな生活が一か月ほど続いた頃、政府側の研究で興味深い結果がまとまり始めた。
最初に変化が確認されたのは、ハコニウム鉱床だった。
松島が管理している複数の採取地点で、再形成速度に違いが出ている。
同じ程度の量を採取しても、周辺の生命活動が活発な場所ほど回復が早い傾向が見えてきた。
それだけなら偶然の可能性もある。
そこで鉄、銅、金、銀の鉱床についても記録を比較した。
完全に同じ条件ではないため単純な比較はできないものの、こちらでも似た傾向が出ている。
伊織が箱庭の森や湿地を大きく育て始めた時期と、複数の鉱床で再形成が早くなった時期が重なっていた。
その報告を受けた日、伊織は研究区域にある簡易的な観測場所へ呼ばれていた。
松島が記録を見せる。
「まだ断定はできません。ただ、箱庭全体の生命活動と地下資源の形成には、かなり強い関係があると考えています」
「やっぱりそうなんですね」
「驚かないんですか?」
「最初から生命循環で箱庭が育つって説明されてましたから。地下まで関係するとは思ってなかったですけど」
伊織にとっては、箱庭の仕組みがそのまま地下へ延長されたような感覚だった。
松島にとっては違う。
現実世界では森林を育てたからといって、短期間で金属鉱床が再形成されることなどない。
「八樹さん。この箱庭では、生物と地質を分けて考えない方がいいのかもしれません」
「全部まとめて一つの箱庭ってことですか?」
「私はそう考え始めています」
箱庭の森だけを研究しても足りない。
鉱床だけを調べても足りない。
水の循環、土壌、生物、地下資源まで含めて、一つの巨大な循環系として動いている可能性がある。
そこへ野口も加わった。
「もしその仮説が正しければ、資源を増やすために採掘設備を増やすより、箱庭の生態系を豊かにした方が長期的には効率がいい可能性がありますね」
「俺はそっちの方がいいです」
伊織は即答した。
「鉱山ばっかり増やしても面白くないですから」
松島が僅かに笑う。
「八樹さんらしい理由ですね」
「俺の箱庭ですからね」
その一言に、野口も高橋も異論はなかった。
政府との資源買取契約が始まっても、箱庭の主が伊織であることは変わらない。
むしろ政府側も、伊織が自由に箱庭を育てることを支援した方が結果的に得られるものが大きいと理解し始めていた。
そのため、政府側から新しい提案が出た。
伊織が箱庭の環境を育てるために必要とする生物や植物、資材について、政府側でも入手を支援するというものだった。
「普通に買えるものなら自分で買いますよ?」
「もちろんです。ただ、個人では入手しにくいものも今後出てくるでしょう」
高橋が説明した。
植物園や研究機関が管理している植物、適切な手続きを踏まなければ移動できない生物、専門的な環境整備資材などが必要になった場合、伊織個人で動くより政府が関係機関を調整した方が安全で早い。
「箱庭に入れた生物が現実へ戻ってくる可能性もありますから、検疫や病原体の問題もあります」
「確かに、それは面倒そうですね」
「その面倒な部分を我々が担当します」
「それなら助かります」
伊織としても断る理由はなかった。
政府が箱庭を管理するのではない。
伊織が何を育てたいか決め、それを実現するための現実側の手続きを政府が手伝う。
その関係なら悪くない。
さらに数週間が過ぎた。
箱庭の森は拡大し、湖周辺の湿地も以前より複雑な環境になった。
伊織は食用になる植物ばかりを増やすこともやめている。
花を咲かせる植物、昆虫の餌になる植物、小動物が隠れられる低木、水辺の環境を安定させる植物など、直接自分の役に立たないものも増やしていった。
それらが別の生命を支える。
その生命がさらに別の環境へ影響する。
少しずつ箱庭が、人間のためだけに作られた場所ではなくなっていく。
そして生命環境が一定の段階へ達したある日、伊織の前に再び領域拡張の通知が現れた。
以前なら高橋たちを呼んでから拡張していたかもしれない。
しかし今回は少し考えて、自分一人で実行することにした。
政府との共同研究が始まっても、箱庭を育てる主体まで政府になったわけではない。
何より領域を広げること自体は、元々伊織が一人でやっていたことだった。
「さて、今度は何が出るかな」
伊織は森と湖から離れた開けた場所へ移動し、領域拡張を実行した。
遠くを覆っていた白い境界が後退していく。
新しい土地が現れた。
最初に見えたのは緩やかな丘だった。
その向こうには、これまでの箱庭にはなかった広い平原が続いている。
さらに遠くには山地が見える。
伊織は新領域へ足を踏み入れた。
地面には草が生えている。
水の流れもある。
これまでの拡張と比べれば、特別変わった場所には見えない。
「今回は普通かな」
そう思いながら管理画面を確認する。
地下には鉄や銅を含む複数の鉱物反応が存在している。
それ自体は、もう驚くほどではない。
しかし少し離れた山地の地下に、見慣れない反応があった。
ハコニウムとは違う。
名称も表示されていない。
「また未知のやつか?」
伊織はすぐに掘ろうとはしなかった。
以前とは違う。
今なら松島へ任せればいい。
位置だけ記録して、さらに新領域を歩く。
すると別の場所にも特殊な鉱物反応が見つかった。
こちらは管理画面に名称が表示されている。
伊織は読んでみたものの、聞き覚えがほとんどない。
希少金属として分類される資源らしい。
その時点で伊織は探索を切り上げた。
新しい資源が見つかること自体は、もう珍しくなくなりつつある。
問題は、それをどう使うかだった。
翌日。
伊織から連絡を受けた松島は、当然のように箱庭へやってきた。
「未知の鉱床がまた出たと聞きました」
「山の方です。まだ触ってませんよ」
「それで正解です」
「前は自分で削ったんですけどね」
「今後はできればやめてください」
「分かってます」
二人は高橋と野口を伴って新領域へ向かった。
未知の反応がある場所まで進み、松島が地質を確認する。
ハコニウム鉱床とは周囲の岩石も違っていた。
「試料を少しだけ採りましょう」
伊織の許可を得て、慎重に採取する。
見た目はハコニウムとは全く異なっていた。
暗い灰色をした鉱石で、その内部には僅かに光沢のある部分が混じっている。
松島はその場で結論を出さず、試料を密閉して現実側へ持ち帰った。
数日後。
伊織は政府施設へ呼ばれた。
会議室へ入ると、松島が待っている。
「結果出ました?」
「一部だけですが」
「また変な金属ですか?」
「今回は、ハコニウムとは少し違います」
松島は資料を伊織へ見せた。
「未知物質と断定する段階ではありません。既知の成分も複数確認されています。ただ、組成と構造の組み合わせがかなり特殊です」
「使えそうなんです?」
「そこを今から調べます」
伊織は椅子へ座り直した。
また研究対象が増えたらしい。
「名前はまだ付けないですよ」
「今回は私も急いで付けるつもりはありません」
松島が笑った。
しかし、その日の本題は新しい鉱石ではなかった。
高橋と野口が会議室へ入り、少し遅れて黒田も姿を見せる。
「全員集合ですか?」
「八樹さんへお伝えしておきたいことがあります」
高橋の表情は普段より真剣だった。
伊織も自然と姿勢を正した。
「箱庭の存在が外部へ漏れたわけではありません。ただ、ハコニウム研究に関連して、一つ問題が出始めています」
「問題?」
「研究に使用している一部の設備と予算についてです。現在は情報を分割し、箱庭そのものを知らない研究者や技術者にも協力してもらっています。しかし研究規模が大きくなるにつれて、それだけでは説明しにくい部分が増えています」
松島が補足した。
「ハコニウムの性能が予想以上なんです」
研究開始当初から、軽量性、強度、導電性など複数の特徴が確認されていた。
その後、追加試料を用いて加工や熱への耐性、繰り返し負荷などを調べた結果、航空宇宙分野を含む複数の用途を検討する価値があることが分かってきた。
まだ実用化できる段階ではない。
しかし研究を続けるには、より専門的な設備と人材が必要になる。
「国内だけでできないんですか?」
「できます。ただ、すべてを最高水準で進めようとすると時間がかかります」
野口が答えた。
「そしてもう一つあります。日本だけで研究を続けたとしても、将来的にハコニウムを実用化すれば、その存在を完全に隠し続けることはできません」
伊織にも意味が分かった。
研究室の中に置いているだけなら秘密にできる。
しかし航空機や宇宙機、発電設備、電子機器などへ使い始めれば、どこかで外部に知られる。
「それで、どうするんです?」
黒田が答えた。
「まだ決定ではありませんが、政府内部で同盟国との限定的な情報共有を検討する段階に入りました」
伊織が最初に思い浮かべた国は一つだった。
「アメリカですか?」
「はい」
黒田は隠さなかった。
「ただし、箱庭そのものを直ちに開示するという意味ではありません。八樹さんの存在についても同様です」
最初に共有するなら、ハコニウムという特殊材料が日本政府管理下で研究されている事実と、その一部の性質に限る。
供給源については秘匿する。
研究協力が必要になった場合でも、どこまで情報を共有するかは段階的に判断する。
「八樹さんの名前を出すつもりはありません」
高橋が明確に伝えた。
「箱庭へのアクセスを認める話でもありません。少なくとも現段階では、日本側の研究施設へ提供された試料だけを扱う形を想定しています」
「それなら……まあ」
伊織は少し考えた。
政府と協力すると決めた時点で、いつか日本だけでは済まなくなる可能性は考えていた。
箱庭の資源が本当に大きな価値を持つなら、なおさらだ。
「俺が表に出ないならいいです」
「そこは政府側としても維持する方針です」
「あと、アメリカの人を勝手に箱庭へ入れるのもなしで」
「もちろんです。限定ゲートの通行権限は八樹さんにしか設定できません」
伊織は頷いた。
それなら今のところ問題はない。
しかし黒田たちの表情を見る限り、単なる研究者同士の交流では済まない話になりつつあるのだろう。
伊織は窓の外へ目を向けた。
会社を辞め、安全な家へ引っ越し、政府へ資源を売りながら自由に箱庭を育てる。
ようやく新しい生活が落ち着き始めたところだった。
それでも箱庭の成長は止まらない。
森が増えれば土地が広がり、新しい土地が広がれば新しい資源が現れる。その資源を調べれば、現実世界で無視できない価値が見つかっていく。
そしてハコニウムは、ついに日本という一つの国の中だけでは扱いきれない段階へ近づき始めていた。
八樹伊織の存在を伏せたまま、アメリカへどこまで伝えるのか。
日本政府にとって、箱庭を手にしてから初めてとなる本格的な外交上の判断が始まろうとしていた。




