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箱庭の主 ~俺だけが異能に目覚めたので、小さな世界を育てていたら国家機密になりました~  作者: にゅん


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18/31

会社を辞めるという選択

 高橋から今後の生活について話し合いたいと連絡を受けた翌週、伊織は仕事を終えてから政府管理の研究施設を訪れていた。


 今回の面談には高橋誠司と野口玲奈、政府側の責任者である黒田雅臣が参加している。松島孝明の姿はなく、研究ではなく伊織自身と政府の関係を決めるための話し合いであることが、その顔ぶれからも分かった。


「八樹さん。本日はありがとうございます。今回は箱庭の研究ではなく、今後の八樹さん自身の生活について相談させてください」


「俺もちょうど考えてたところなので大丈夫です。最近、普通に会社へ行きながら箱庭のこともやるのは、ちょっと無理が出てきたなと思ってました」


 伊織が席につくと、高橋はこれまで政府との協力に使われた時間について説明した。


 最初の面談から始まり、ハコニウムの確認、限定ゲートの設置、研究者への通行許可、新領域の調査、原油の試験採取まで、伊織は仕事を続けながら相当な時間を政府側へ割いている。


「現在は八樹さんのご厚意に頼っている部分が大きい状態です。しかし箱庭の研究を長期間続けるのであれば、この形のままではいけないと考えています」


「それなんですけど、俺は会社を辞める方向で考えてます」


 三人の視線が伊織へ集まった。


 高橋が念を押すように確認する。


「政府から退職を求めているわけではありません。その点だけは誤解していただきたくありません」


「分かってます。俺が辞めたいんですよ」


 伊織は苦笑しながら続けた。


「会社が嫌いとかじゃないです。給料も普通にもらえてるし、人間関係もそこまで悪くない。でも、今の状況で生活費を稼ぐためだけに毎日会社へ行く必要があるのかなって思うようになってきて」


 以前なら、そんなことを考える余地すらなかった。


 生活するためには働く必要があり、会社員として給料を受け取ることは伊織にとって当たり前だった。


 しかし今の伊織には《箱庭》がある。


 鉄や銅だけではなく、金や銀、白金族を含む可能性がある鉱床、未知金属のハコニウム、さらには原油まで確認されている。


 それらを勝手に売却するつもりはない。


 だからといって、世界で自分しか扱えない場所を持ちながら、生活費のためだけに会社員を続けることにも違和感が出始めていた。


「それに、最近は政府の人が使う研究区域ばっかり見てて、森とか畑の方にあまり行けてないんですよ」


 伊織にとっては、こちらも重要だった。


「箱庭って、俺としては資源を採るためだけの場所じゃないんです。森を広げたり、生き物を増やしたりする方もちゃんとやりたい。それが結果的に資源の再形成にも関係してるみたいですし」


 黒田が静かに頷いた。


「八樹さんが箱庭そのものを育てる時間を確保することは、政府側にとっても利益になります。ただし、それを理由に退職を要求することはできません」


「そこは俺が決めます。辞める方向でいいです」


 伊織の意思が固いと分かると、高橋は用意していた資料を開いた。


「では、退職後の生活について相談しましょう。政府側としてはいくつか方法を検討しましたが、八樹さんを政府職員として雇用する方法は、あまり適切ではないと考えています」


「俺も公務員になるのは嫌ですね。せっかく会社辞めるのに、また決まった時間に働くことになったら意味ないですし」


「八樹さんなら、そうおっしゃると思っていました」


 高橋が僅かに笑った。


 そこで野口が別の資料を差し出した。


「政府として提案したいのは、箱庭から提供される資源を正式に買い取る契約です」


「資源を売って生活するってことですか?」


「はい。政府側が必要とする資源について、八樹さんから適正な対価で購入します。八樹さんは政府に雇用されるのではなく、箱庭の資源を提供する独立した立場になります」


 伊織には、その方が分かりやすかった。


 政府から給料を受け取れば、どうしても雇われているような感覚が残る。


 しかし箱庭で生まれた資源を売り、その代金で生活するなら、自分の異能を自分のために使っていることになる。


「対象は何になるんです?」


「当面は研究用のハコニウムに加えて、金や銀など性質が明確な既存資源を想定しています。鉄や銅についても必要に応じて対象にできますが、八樹さん一人の生活基盤を確保するだけなら、大量に採掘する必要はありません」


 野口の説明では、金や銀を一般市場へ大量に流すのではなく、政府側が管理した形で引き取る。


 ハコニウムについても無償提供ではなく、研究用試料として正式に政府が買い取る。


 原油は再形成について十分な確認が終わっていないため、現段階では本格的な取引対象にしない。


「金額って、どうやって決めるんです?」


「金や銀など市場価格が存在する資源は、それを基準にできます。問題はハコニウムですね。現時点では市場価格そのものが存在しません」


「世界にここしかないですもんね」


「はい。ですから研究用として政府が購入する際は、希少性だけでなく研究価値や提供量を踏まえ、別途価格を決める必要があります」


 伊織は少し考えてから頷いた。


 自分が一生遊んで暮らせる金額を最初から要求するつもりはない。


 箱庭へ負担を与えず、それでも普通に生活できるだけの収入が得られれば十分だった。


「ただし、契約には八樹さん側にも条件があります」


 黒田が説明を引き継いだ。


 国家安全保障や市場への影響が大きい資源について、政府との協議なしに大量売却しないこと。未知物質については安全性が確認されるまで外部へ提供しないこと。そして政府側が購入を希望しても、箱庭へ悪影響があると伊織が判断した場合には供給を停止できること。


「最後の判断は俺でいいんですか?」


「箱庭の主は八樹さんですから」


 黒田は即答した。


「政府が資源を必要としていても、その採取によって箱庭そのものが損なわれるのであれば意味がありません。八樹さんが維持できないと判断した量まで提供を義務づける契約にはしません」


「それなら大丈夫です」


 資源買取についての大筋は決まった。


 しかし高橋は資料を閉じなかった。


「もう一つあります」


「まだあるんです?」


「むしろ政府側としては、こちらも重要です」


 高橋の表情が少し真剣になる。


「八樹さんの住居についてです」


「家?」


「はい」


 伊織は現在、普通の賃貸住宅で暮らしている。


 箱庭を手に入れた頃なら、それで何の問題もなかった。


 しかし今は状況が違う。


 世界で唯一確認されている異能者であり、限定ゲートを開閉できる唯一の人物であり、政府が国家レベルで研究している未知資源の供給元でもある。


 存在そのものは国家機密として扱われているものの、だからこそ情報が漏れた場合の危険は大きい。


「今のところ八樹さんの存在を知っている人間は限定されています。しかし将来的に研究者や関係者が増えれば、情報漏洩の可能性を完全にゼロにはできません」


「それは分かりますけど、引っ越した方がいいってことですか?」


「政府としては推奨します」


 伊織は少し身構えた。


「政府の施設に住めとかじゃないですよね?」


「違います」


 高橋はすぐに否定した。


「八樹さんには普通に生活していただきます。ただ、現在より警備面で優れた住宅へ移っていただいた方が安心です」


 そこで示されたのは、都市部にある高級住宅街だった。


 大使館関係者や企業経営者、著名人などが暮らすことも珍しくなく、一般的な住宅地より防犯設備の整った物件が多い。


 道路や周辺環境も把握しやすく、警備会社との契約や防犯設備の追加も行いやすい。


「高級住宅街って……俺、二十二ですよ?」


「年齢は警備上の安全性とは関係ありません」


 黒田が淡々と答えた。


「むしろ普通の賃貸住宅へ世界で唯一の異能者を住ませ続ける方が、我々としては心配です」


「そう言われるとすごい話ですね」


「実際、そういう話になっています」


 野口が苦笑した。


 政府が希望しているのは豪華な暮らしではない。


 周辺へ不審者が入り込んだ場合に把握しやすく、防犯カメラや警備サービスを自然な形で導入できる住環境だった。


 さらに集合住宅なら高いセキュリティを備えた物件、一戸建てなら敷地と道路の構造上、警備しやすい場所を選ぶ。


「費用はどうするんです?」


「基本的には八樹さん自身に選んでいただく住宅ですので、購入または賃借は八樹さん名義になります。ただ、警備上必要となる追加設備については政府側で負担できるよう整理します」


「資源を売った金で住めってことですね」


「簡単に言えば、そうなります」


 伊織は腕を組んだ。


 今まで高級住宅街へ住みたいと思ったことはない。


 広い家にもそれほど興味がなかった。


 しかし理由が警備なら理解できる。


 箱庭の存在が今後も完全に隠し続けられる保証はない。


 もし自宅を知られれば、普通のオートロック程度では心許ない。


「分かりました。引っ越します」


 高橋が僅かに安心した表情を見せた。


「ありがとうございます。ただし政府が住居を指定するわけではありません。候補はいくつか提示しますが、最終的には八樹さん自身が選んでください」


「それなら、できれば静かなところがいいです。あと酒買いに行くのが面倒じゃない場所」


「その条件も担当へ伝えておきます」


「そこまで政府に探してもらうと、なんか変な感じですね」


 伊織は笑った。


 その日の話し合いで、今後の生活方針はほぼ固まった。


 会社を辞める。


 政府職員にはならない。


 箱庭から採取した資源を政府へ売却し、その対価を生活基盤とする。


 そして安全上の理由から、現在の賃貸住宅を離れ、警備しやすい高級住宅街へ引っ越す。


 数日後、伊織は会社の上司へ退職の意思を伝えた。


「辞める?」


「はい。自分でやりたいことができまして」


「転職か?」


「いや、転職ではないです。しばらく自分の仕事みたいなものをやろうかなと」


 当然ながら箱庭について説明することはできない。


 詳しい事情を話さないままの退職となったが、伊織の意思が固いことを理解した上司は、最終的に受け入れてくれた。


 退職手続きが進む一方で、政府との資源買取契約についても法務や会計面の整理が行われた。


 前例のない契約だった。


 異空間に存在する資源を個人が採取し、それを政府が継続的に購入する。


 通常の鉱山所有者とも違えば、資源輸入業者とも違う。


 それでも契約上はできる限り特殊な表現を避け、伊織が政府側へ資源を提供し、その都度定められた対価を受け取る形へ整えられた。


 最初の正式な買取対象は、研究用ハコニウムと少量の金、銀だった。


 採掘量は再形成速度を十分に下回る範囲に抑え、箱庭側の変化を継続観察する。


 原油については研究を続けるものの、まだ契約対象には加えない。


 そして伊織が会社を退職する頃には、引っ越し先も決まった。


 政府側から提示された複数の候補を実際に見て、伊織が選んだのは警備設備の整った高級住宅街にある戸建てだった。


 必要以上に巨大な豪邸ではない。


 それでも以前の賃貸住宅とは比較にならないほど広く、敷地の周囲には塀があり、門から玄関までにも距離がある。


 防犯カメラや警備会社のシステムも導入でき、周辺の道路も限られているため、不審な車両や人物を把握しやすい。


 政府側が必要と判断した追加の警備設備についても、外から見て不自然にならない形で整備された。


「……俺、本当にここ住むの?」


 内覧の時、伊織は玄関からリビングへ入りながら何度も周囲を見回した。


 以前の部屋なら、玄関から数歩で生活空間の大部分が見えた。


 今度の家には独立したリビングだけでなく、複数の部屋と広い浴室まである。


「警備面では候補の中でもかなり良い物件です」


 同行していた高橋が答えた。


「一人暮らしには広すぎません?」


「将来的なことまで考えれば、狭いよりはいいでしょう」


「将来って言われてもなあ」


 伊織はまだ二十二歳である。


 結婚どころか、今後何をするかさえ箱庭を手に入れてから大きく変わり続けている。


 それでも庭を見た時、少し気に入った。


 現実側にも緑がある。


 箱庭ほど自由に触れることはできないが、仕事を辞めた後に暮らす場所としては悪くない。


「じゃあ、ここにします」


 こうして住居も決まった。


 会社の最終出勤日を終えた夜、伊織は以前の賃貸住宅で最後の荷物をまとめた。


 最初に《箱庭》を手に入れたのも、この部屋だった。


 コンビニ弁当と酒を前にして、突然半透明の画面が現れた。


 あの日から、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。


 それなのに生活は完全に変わってしまった。


 翌日、伊織は新居へ移った。


 家具は必要なものから揃えることにしたため、広い部屋にはまだ空いている場所も多い。


 伊織は段ボールを片付ける途中で面倒になり、リビングのソファへ座った。


「広いな……」


 一人で住むには本当に広い。


 ただ、以前より静かだった。


 外から聞こえてくる生活音も少なく、玄関まで誰かが簡単に近づけるような造りでもない。


 警備会社のシステムも動いている。


 政府が安心だと言った意味は、実際に住んでみると少し分かった。


 数日後には、最初の正式な資源買取代金も伊織の口座へ振り込まれた。


 会社から受け取る給料とは意味が違う。


 箱庭から採取された資源を、日本政府が正式に購入した対価だった。


 伊織は口座を確認してから、新居のリビングを見回した。


「会社、本当に辞めたんだな」


 翌朝から出勤する必要はない。


 目覚まし時計も仕事へ合わせなくていい。


 政府との予定がない日なら、一日の使い方は完全に自由だった。


 伊織が最初にしたのは、遅くまで眠ることだった。


 目を覚ました時には九時を過ぎている。


 以前なら完全に遅刻だった。


「最高だな、これ」


 ゆっくり朝食を食べ、コーヒーを飲んでから《箱庭》へ入る。


 今日は政府側の研究予定もない。


 研究区域ではなく、伊織は久しぶりに最初の森へ向かった。


 木々は以前より高くなり、林床にも新しい植物が増えている。水辺では小さな生物が動き、鳥や昆虫の種類も少しずつ豊かになっていた。


 会社を辞めた以上、これからはもっと箱庭そのものを育てられる。


 森を増やし、水辺を整え、生物の種類を増やす。


 研究者が調べる資源だけではなく、生命が自然に循環する場所をもっと広げていく。


 それが結果として地下資源の再形成にも繋がるなら、伊織にとって都合がいい。


 政府が必要とする分だけ資源を売る。


 その対価で現実世界の生活を維持する。


 残った時間は、自分の好きなように使う。


 高級住宅街にある安全な家で暮らし、気が向けば箱庭へ入り、森や湖を眺めながら一日を過ごす。


 伊織が望んでいた自由な生活が、ようやく形になり始めていた。


 そして時間に余裕が生まれたことで、箱庭の生命環境も以前より速い勢いで豊かになっていく。


 森と水辺が広がり、生物同士の循環が複雑になるにつれて、地下資源の再形成速度にも僅かな変化が確認され始めた。


 伊織が自由になることは、そのまま《箱庭》が成長する時間を増やすことでもあった。


 政府側もまだ知らなかった。


 箱庭の成長が次の段階へ進んだ時、日本国内だけで秘密を完結させることが難しくなるほど、その価値が大きくなっていくことを。

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