箱庭の油田
新しく拡張された領域の地下に《原油》という表示を見つけても、伊織たちはその日のうちに掘削を始めることはしなかった。
鉄や銅の鉱床なら、岩肌に露出している部分から少量を採取できた。金や銀、ハコニウムについても基本的には同じであり、採取した後に変化を観察するという方法が使えた。
しかし地下深くに存在する液体資源となれば話が違う。
原油があるからといって、素人が適当に穴を掘っていいものではない。伊織自身もそれくらいは分かっていたし、野口からも絶対に自分で試さないよう念を押された。
「さすがに俺も油田を自分で掘ろうとは思わないですよ」
「八樹さんは未知の金属を自分で削って分析へ出した実績がありますから、念のためです」
「それ言われると弱いな……」
伊織が苦笑すると、高橋も僅かに笑った。
新領域の調査は一旦そこで終了し、四人は限定ゲートを通って現実側の研究施設へ戻った。
その日のうちに野口が中心となって、原油を専門に扱える人材の選定が始まった。
ただし箱庭へ入る研究者を一気に増やすことはしない。
まず伊織から得られる情報を整理し、既存の地質調査や油田開発でどのような確認が必要になるのかを外部へ箱庭の存在を明かさない範囲で検討する。
箱庭の管理画面では地下の資源分布をある程度確認できる。
それを利用すれば、現実の油田探索とは全く違う方法で調査を始められる可能性があった。
数日後、伊織は再び研究施設を訪れた。
会議室では高橋、野口、松島、黒田が待っている。
机の上には、新領域の簡易的な地図が置かれていた。
これは伊織が箱庭で歩きながら位置関係を説明し、政府側が作成したものだった。
「八樹さん。最初に原油について確認させてください」
野口が地図を示した。
「管理画面では、どの程度詳しく分かるのでしょうか。例えば地下何メートルに存在するのか、埋蔵範囲がどこまで続いているのかまで確認できますか?」
「場所はかなり分かります。深さも大体出ます。ただ、何トンあるとか、そういう数字までは表示されてないですね」
「品質については?」
「そこも分かりません。《原油》って出てるだけです」
野口は頷いた。
それでも十分すぎる情報だった。
「では、いきなり本格的な井戸を掘るのではなく、最初は小規模な調査に留めます。採取できた場合も、ごく少量を現実側へ持ち出して成分を確認しましょう」
「それなら大丈夫です」
伊織も了承した。
そこで黒田が話を別の方向へ移した。
「八樹さん。今回の原油発見を受けて、政府側として一つ相談があります」
「何です?」
「今後、箱庭から発見される資源について、研究と利用を分けて考えたいと思っています」
伊織は資料へ目を落とした。
これまで箱庭で見つかったものについては、基本的に研究目的で少量を採取している。
しかし金や銀、原油まで存在することが分かった以上、いつまでもすべてを同じ扱いにはできない。
「研究は今まで通りでいいんですよね?」
「はい。問題はその先です。例えば箱庭の金を大量に現実世界へ持ち出して売却すれば、八樹さん個人の問題だけでは済まなくなる可能性があります」
「それは俺もやるつもりないですよ」
「承知しています。だからこそ、問題が起きる前に決めておきたいのです」
黒田の説明は、伊織にも理解できた。
再形成する金鉱床があるからといって、大量の金を市場へ流せばいいわけではない。
原油も同じだ。
日本が輸入している資源の一部を箱庭から出せるとしても、その瞬間から経済や外交まで関わってくる。
「政府として、箱庭の資源を全部欲しいって話ですか?」
「いいえ」
黒田ははっきり否定した。
「むしろ逆です。現段階では大量利用を始めるべきではないと考えています。まず箱庭側の再形成能力と、生態系への影響を把握する必要があります」
松島も頷いた。
「ハコニウムでも同じです。再形成することは確認できましたが、無制限とは証明されていません。原油も採取後に戻ると決めつけるのは危険でしょう」
「じゃあ、原油も再生するか試す?」
「最終的にはそうなります。ただし安全な方法を準備してからです」
伊織は納得した。
急ぐ理由はない。
箱庭の中にある限り、原油が逃げるわけでもない。
会議の後半では、もう一つ重要な話題が出た。
箱庭の存在を知る人数についてだった。
「今後、地質や石油資源の専門家を加えると、どうしても関係者が増えます」
高橋が説明する。
「そこで政府側では、箱庭へ直接関与する人員と、箱庭の存在を知らずに分析だけを担当する人員を分ける方針です」
「全部教えなくても研究できるんですか?」
「内容によります。例えば箱庭から採取した原油の成分分析だけなら、試料の正確な産地を知らせなくても可能です」
松島の研究でも同じ方法が一部使われている。
箱庭へ入る必要がある研究者だけが全体像を知り、それ以外の専門家には必要な試料と情報だけを渡す。
これなら秘密を知る人数を抑えられる。
「それがいいですね。俺としても、知らない人がどんどん箱庭に来るのは嫌なので」
「その点は今後も維持します」
高橋が答えた。
数日後。
箱庭の新領域では、最初の地質調査が始まった。
新たに加わった地質研究者には、伊織が直接会ったうえで通行許可を与えた。箱庭についても必要な説明が行われているが、研究者が自由に出入りできるわけではない。
限定ゲートが開く時間に入り、決められた区域だけで調査する。
調査の中心となったのは、伊織が管理画面で原油反応を確認した場所だった。
地表には湖と湿地が広がっている。
見た目だけなら、その地下に油田が存在するとは思えない。
「この辺りです」
伊織が場所を示す。
研究者たちは地形を確認し、まず地表を大きく壊さない方法で調査を進めた。
箱庭の管理画面が示す位置と、地質的な特徴がどの程度一致するのかを確かめるためだ。
結果として、地下には液体が集積していると考えられる構造が存在することが分かった。
管理画面の表示だけではない。
現実側の技術でも、そこに何らかの資源が存在する可能性を示す結果が得られた。
そこからさらに準備期間を置き、小規模な試験掘削が行われることになった。
大型設備を持ち込むことはしない。
最初の目的は大量採取ではなく、試料を得ることだった。
限定ゲートを通して必要な機材が箱庭へ運ばれる。
伊織はその光景を少し離れた場所から眺めていた。
「なんか急に本格的になったな」
隣にいた野口が答える。
「これでもかなり小規模です」
「俺には十分大掛かりに見えますよ」
一か月ほど前には、ホームセンターで買った小さなシャベルを持ち込んでジャガイモを植えていた。
今では政府が用意した調査機材が限定ゲートを通っている。
変化が大きすぎて、時々自分の箱庭ではないような感覚になる。
それでも、最初の畑や森がある区域へ戻れば以前と同じだった。
だから伊織は研究区域を分けて正解だったと思っている。
試験掘削は慎重に進められた。
深度が増していく。
伊織の管理画面で確認すると、掘削地点は確かに原油反応へ近づいている。
そして予定していた深さへ達したところで、採取された試料の中に変化が現れた。
黒褐色の液体。
すぐに密閉容器へ収められ、安全確認が行われる。
伊織も遠くから見ていた。
「本当に出たんだ」
管理画面に表示されていたのだから、あるとは思っていた。
しかし実物を見ると感覚が違う。
採取量は僅かだった。
その日の作業はそこで終了し、原油試料は限定ゲートを通して現実側へ運ばれた。
数日後、分析結果が政府側へ報告された。
箱庭から採取された液体は、確かに原油として扱えるものだった。
さらに不純物の状態などにも特徴があり、精製を前提とした資源として研究する価値があると判断された。
ただし政府側が最も注目していたのは品質だけではない。
採取した地下部分が今後どう変化するかだった。
試験井は大きく動かさず、周囲の環境も維持したまま観察を続ける。
一週間では明確な変化を判断できなかった。
二週間が過ぎる。
そこで管理画面上の反応に僅かな変化が現れた。
「増えてる……気がする」
伊織は野口たちへ報告した。
しかし感覚だけで結論は出さない。
さらに観察を続ける。
一か月近く経過したところで、同じ試験井から再び少量の採取が行われた。
地下圧力や得られた試料を比較する。
最初の採取によって減少したはずの部分が、完全ではないものの回復している可能性を示す結果が得られた。
地質研究者たちは慎重だった。
まだ再生油田と断定するには早い。
それでも、通常なら考えにくい変化が起きている。
しかも伊織の管理画面では、地下の原油反応が少しずつ元の状態へ近づいていた。
その報告を受けた日の夜。
政府側では、黒田、高橋、野口を中心とした会議が開かれていた。
ーーー日本政府視点ーーー
「原油についても再形成の可能性が高い、という理解でいいんですね?」
黒田の確認に、野口は資料を見ながら答えた。
「現段階では可能性があるという表現に留めるべきです。ただ、八樹さんの管理画面上では回復が確認され、試験井の観測結果にもそれと矛盾しない変化が出ています」
「金属鉱床だけではなかったわけか」
「はい」
会議室には、これまで箱庭で確認された資源がまとめられている。
鉄や銅を含む基礎的な金属資源に加え、金や銀、白金族を含む可能性のある鉱床が存在する。さらにハコニウムという未知金属があり、今回そこへ原油まで加わった。
しかも、それらが再形成される可能性がある。
「野口さん。資源政策の立場から聞きます」
「はい」
「仮に再形成が長期的に続くと確認された場合、この箱庭は日本にとってどれほどの価値がありますか?」
野口はすぐには答えなかった。
単純な金額へ換算できる問題ではない。
「採掘可能量によります。ただ、価値を市場価格だけで考えるべきではありません」
「理由は?」
「供給を国外へ依存している資源について、国内管理下に安定した供給源を持てる可能性があるからです」
箱庭そのものが日本領なのかという法的な問題は別に存在する。
しかし出入口は日本政府が管理する施設にあり、その主である伊織も日本で生活している。
何より伊織自身が日本政府との協力を選択している。
「今すぐ輸入を置き換えられるとは考えていません。箱庭の規模も採掘可能量も不足しています。ただし箱庭が今後も拡張するのであれば、前提が変わります」
黒田は資料へ目を落とした。
「そして八樹君が協力をやめれば、その全てにアクセスできなくなる」
「はい」
高橋が答えた。
「限定ゲートは八樹さんの意思で閉鎖できます。政府側から開くことはできません」
黒田はしばらく考えた。
「なら、やるべきことは変わらないな」
八樹伊織を囲い込むのではない。
協力を続けてもらえる関係を作る。
「ただし一つ、そろそろ考えなければならないことがあります」
黒田が高橋を見る。
「八樹君は今も普通の会社員なんだな?」
「はい」
「このまま研究が拡大した場合、勤務を続けながら対応できると思うか?」
高橋は答えなかった。
限定ゲートによって伊織の負担は減った。
しかし新領域が増えるたび、伊織にしか確認できない情報が出てくる。通行許可も伊織にしか設定できず、重要な判断には本人の了承が必要になる。
今後、研究規模がさらに大きくなれば、会社員として働きながら片手間で対応できるとは考えにくい。
「辞めさせるわけにはいきません」
「当然だ。本人が望んでいないならな」
黒田は頷いた。
「だから選択肢を用意しよう。政府との協力によって八樹君の生活や仕事へ負担が出ている以上、無償で協力を続けてもらうわけにもいかない」
野口も同意した。
これまでは調査が中心だった。
しかし箱庭の価値が明確になり始めた以上、伊織との関係も善意だけに頼る段階を終えつつある。
「報酬だけではありません。勤務を続けたいなら、それを支援する方法も考えるべきでしょう。本人が退職を希望するなら、生活を箱庭へ依存させずに済む仕組みも必要です」
高橋はその言葉を記録した。
政府側にとって、箱庭は重要になり始めている。
だからこそ伊織を箱庭へ縛り付けてはいけない。
翌日。
高橋から連絡を受けた伊織は、次の面談について少し首を傾げていた。
ハコニウムでも原油でもない。
今回の議題として伝えられたのは、ただ一つだった。
今後の伊織自身の生活と、政府との協力関係について。
「俺の生活?」
電話越しに聞き返すと、高橋は落ち着いた声で答えた。
「はい。箱庭の研究が始まってから、八樹さんには何度も時間を使っていただいています。今後さらに負担が増える可能性がありますので、その状態を善意だけで続けるべきではないという結論になりました」
伊織は少し考えた。
確かに最近は、休日の予定に政府との面談や箱庭の調査が入ることが増えている。
まだ耐えられないほどではない。
しかしこの先も同じとは限らない。
「分かりました。話だけ聞きます」
「ありがとうございます」
電話を切った伊織は、少しだけ考え込んだ。
一か月ほど前まで、箱庭は誰にも知られていない自分だけの趣味だった。
それが国家機密になり、研究者が入り、未知の金属に名前がつき、地下から原油まで見つかった。
そして今度は、その箱庭が伊織自身の現実での生き方まで変えようとしている。
伊織はまだ知らなかった。
次の話し合いを境に、政府と八樹伊織の関係は単なる《相談者と行政》から、長期間にわたって続く正式な協力関係へ変わり始めることになる。




