箱庭共同研究班
《ハコニウム》という仮称が決まってから数日後、伊織は再び政府管理の研究施設へ呼ばれていた。
もっとも、以前のように何が起こるのか分からない状態で呼び出されたわけではない。今回は事前に高橋から説明を受けており、目的も箱庭に関する今後の研究体制を決めることだと聞かされている。
伊織が会議室へ入ると、高橋誠司、野口玲奈、松島孝明の三人に加え、黒田雅臣も席についていた。
「八樹さん、お忙しいところありがとうございます」
「大丈夫です。それで、研究する人を増やす話でしたよね?」
「はい。ただし、その前に八樹さんと確認しておきたいことがあります」
高橋に促され、伊織は席についた。
机の上には何枚かの資料が置かれている。
表題には《箱庭共同研究に関する暫定運用案》と記載されていた。
「随分ちゃんとしたものになりましたね」
「政府として継続的に関わる以上、口約束だけで進めるわけにはいきません」
高橋はそう答えてから資料を開いた。
「今回決めたいのは、研究内容そのものより先に、八樹さんと政府側の関係です。箱庭について、政府が何をお願いできるのか。そして何を勝手にしてはいけないのかを明確にしたいと考えています」
伊織は少し意外だった。
研究計画や採掘量の話から始まると思っていたからだ。
「まず最も重要な点ですが、《箱庭》そのものは八樹さんの異能であり、政府が所有権を主張するものではありません」
黒田が説明を引き継いだ。
「限定ゲートについても同様です。通行許可を誰へ与えるか、いつ開閉するかについて、最終的な権限は八樹さんにあるものとして扱います」
「そこは変わらないんですね」
「変える理由がありません。それに、政府側が強制的に操作できない以上、実態に合わない取り決めを作っても意味がないでしょう」
黒田の言葉は現実的だった。
伊織としても、その方が安心できる。
「その代わり、政府側からお願いしたいこともあります」
「何です?」
「箱庭から未知の物質や生物を現実世界へ持ち出す場合、少なくとも危険性が分からないものについては事前に相談していただきたい」
伊織はすぐに納得した。
最初のハコニウムを民間の分析機関へ持ち込んだ時には、放射性物質かどうかさえ分かっていなかった。
結果として大きな問題は起きなかったが、今後も同じとは限らない。
「それは俺もそうします。変なものを家に持って帰ってから危険だって分かるのも嫌ですし」
「ありがとうございます」
次に決められたのは、研究者の出入りだった。
限定ゲートへ通行許可を登録するのは伊織だけであり、政府側が勝手に人員を追加することはできない。
研究者を新たに参加させる場合は、事前に伊織へ氏名と役割を説明する。伊織が了承した人物だけが箱庭へ入る。
箱庭内部での採取や設備設置についても、事前に目的を共有する。
「研究するたびに全部俺が許可するんですか?」
「最初はそう考えています。ただ、細かな作業まで毎回確認していては八樹さんの負担が大きいでしょう。慣れてきた段階で、一定範囲の包括的な許可を作ることも検討します」
「それならいいです」
伊織は会社員を辞めるつもりは、今のところなかった。
箱庭のために毎日政府から連絡を受ける生活になれば、それこそ本末転倒だ。
「あと、俺からも一ついいですか?」
「もちろんです」
「箱庭の最初の方にある森とか畑は、できれば研究施設みたいにしたくないです」
伊織は少し言葉を選んだ。
「あそこ、俺が普通に休んだりする場所でもあるので。研究するなら山の近くとか、別の場所にまとめてほしいです」
高橋はすぐに資料へ書き込んだ。
「生活区域と研究区域を分離しましょう」
「そんな感じです」
松島も異論はなかった。
「私も鉱床の近くに最低限の観測設備を置ければ十分です。森まで研究施設にする必要はありません」
そこで箱庭内部を大きく三つに分ける方針が決まった。
伊織が自由に利用する生活区域、自然環境を維持する区域、政府との共同研究に使用する区域を分ける。ただし壁で完全に区切るわけではなく、研究者側が勝手に立ち入らないための運用上の区分だった。
話が一段落したところで、野口が別の資料を出した。
「次に、地下資源についてです」
そこにはこれまで確認された鉱床がまとめられている。
鉄や銅だけでなく、金や銀、複数の工業利用が可能な金属資源も含まれていた。
「現段階で政府側が希望しているのは、商業採掘ではありません。まず、それぞれの鉱床がどのような条件で再形成されるのかを確認したいと考えています」
「ハコニウムと同じことを他でもやるんですね」
「はい。採掘量を変えた場合の回復速度や、同じ場所から繰り返し採取できるのかについて調べたいと思っています」
伊織は反対しなかった。
自分でも気になっていたことだからだ。
ただし、大量に掘ることだけは認めなかった。
「最初は少しずつでお願いします。箱庭がどうなるか分からないので」
「そこは我々も同じ考えです」
野口が答えた。
資源が再形成されるからといって、無限だと決めつけることはできない。
生命循環によって箱庭が成長する以上、地下資源の形成にも何らかの条件が存在する可能性がある。
採掘しすぎれば箱庭の成長そのものへ悪影響を与えることも考えられた。
「そこで、研究者を二人だけ追加したいと考えています」
高橋が説明した。
一人は地質と鉱床を専門とする研究者。
もう一人は生態系と土壌環境を扱う研究者だった。
どちらも最初から箱庭の全情報を渡すのではなく、参加が決まった段階で必要な範囲から説明する。
「二人ならいいですよ」
「ありがとうございます。本人たちへの説明後、八樹さんとも一度顔を合わせる機会を作ります」
こうして、箱庭へ関わる人間は少しずつ増えることになった。
それでもまだ、存在を知る者はごく僅かだった。
会議が終わった後、伊織は松島とともに限定ゲートを通って箱庭へ入った。
今日の目的はハコニウム鉱床から追加試料を採取することだった。
研究区域として使う場所も確認しながら山地へ向かう。
「松島さん、研究ってどれくらいかかりそうです?」
「何をもって終わりとするかによりますね」
「そんなに?」
「未知の材料ですから」
松島は歩きながら説明した。
「例えば強度だけを確認するなら、それほど時間はかかりません。しかし実際に材料として使うなら話が違います。加工できるのか、熱を加えたらどうなるのか、繰り返し負荷をかけた時にどう変化するのか、他の金属と組み合わせられるのかまで調べる必要があります」
「なるほど」
「それに、今は天然状態に近い試料を調べています。精製した場合に性質が変わる可能性もあります」
伊織には半分ほどしか分からなかった。
ただ、一週間や二週間で研究が終わるものではないらしい。
「じゃあ、必要な分は採ってください。多すぎなければ」
「そこは慎重に進めます」
鉱床へ到着すると、松島は以前の採掘地点を確認した。
さらに再形成が進んでいる。
今回は別の場所から少量を採取し、天然状態でのばらつきも調べることになった。
作業を終えて戻ろうとした時、伊織は少し離れた岩肌で足を止めた。
「そういえば、こっちってまだちゃんと見てなかったな」
「何かあるんですか?」
「管理画面だと地下に別の反応があります」
松島の表情が変わった。
「ハコニウムとは違う?」
「違うみたいです」
伊織は管理画面を確認する。
ハコニウム鉱床から少し離れた地下に、別種の鉱物反応が存在していた。
ただし今回は名称が表示されている。
「白金族……って出てますね」
「白金族?」
松島が近づいた。
伊織には詳しい違いが分からなかったが、松島はすぐに意味を理解した。
「プラチナやパラジウムなどを含む可能性があります。場所を記録しておきましょう。ただし今日は掘らない方がいい」
「分かりました」
以前の伊織なら、興味本位ですぐ掘っていたかもしれない。
しかし今は専門家がいる。
急ぐ理由もない。
それから数週間。
箱庭の研究区域には、小さな変化が起き始めた。
大規模な建物が建てられたわけではない。鉱床の変化を記録するための測定器や目印が置かれ、採掘地点ごとに経過を確認できるようになった程度だった。
鉄、銅、金、銀についても少量採取が行われ、それぞれの再形成が観察される。
結果は興味深かった。
どの鉱床も同じ速度で戻るわけではない。
採掘量によっても変化があり、周辺環境の状態によって僅かに差が出ているように見えた。
まだ断定できる段階ではない。
それでも一つだけ分かり始めたことがある。
箱庭の地下資源は、単純に時間だけで復活しているわけではない可能性が高かった。
生命の活動が活発な地域ほど、地下の変化も僅かに早い。
森が成長し、水が循環し、生物が増えた場所の地下では、鉱床の再形成も進みやすい傾向が見え始めていた。
伊織が最初に聞いた《生命循環》という言葉が、ここでも関係している可能性が出てきた。
その日の夕方。
研究区域で記録を確認していた伊織の前に、久しぶりに箱庭の通知が表示された。
研究者が来るようになってからも、管理画面そのものに大きな変化はなかった。
しかし今回は違った。
箱庭内部で維持される生態系がさらに広がり、複数の環境が安定したことで、新たな領域拡張が可能になったことが示されている。
「また広げられるのか」
伊織はすぐには実行しなかった。
以前ならその場で拡張していただろう。
今では箱庭の新しい土地に、何が現れるか分からないことを知っている。
鉄や銅が出た。
金や銀も出た。
ハコニウムまで見つかった。
次もただの草原だとは限らない。
伊織は高橋へ連絡した。
翌日、箱庭の研究区域には高橋、野口、松島が集まった。
「今から領域を広げます」
伊織が告げると、三人は記録機器を準備した。
政府関係者が見守る中で領域拡張を行うのは、これが初めてだった。
伊織が承認する。
遠くに存在していた白い境界が、ゆっくりと後退していった。
新しい土地が姿を現す。
最初に見えたのは広い平地だった。
その先には低い丘陵が続き、さらに奥にはこれまで存在しなかった大きな水域が広がっている。
「湖……ですか?」
野口が呟いた。
「たぶん」
伊織自身も初めて見る土地だった。
管理画面で新しい領域を確認する。
水域、湿地、草原、丘陵。
これまでとは異なる環境が一度に追加されている。
さらに地下情報を確認すると、新しい鉱物反応も複数存在していた。
松島が興味深そうに画面を覗こうとしたが、管理画面そのものは伊織にしか見えていない。
「何かありますか?」
「鉱物はいくつかあります。でも、今回はそれより……」
伊織は新しい水域の方を見る。
湖へ繋がる低地のさらに地下。
そこに、これまでの鉱床とは明らかに違う表示が出ていた。
「地下に液体資源の反応があります」
野口が反応した。
「液体?」
「はい。かなり深いところです」
伊織は表示を読み直した。
今度は名称も出ている。
「原油って書いてあります」
三人が黙った。
金属資源だけでも十分に大きな問題だった。
しかし新しく拡張された土地の地下には、さらに別種の資源が形成されていた。
野口は湖ではなく、その地下へ存在するはずのものを見ながら静かに息を吐いた。
「……本当に資源そのものを育てる世界なんですね」
伊織は答えず、広がったばかりの新領域を眺めていた。
まだ油田を掘るつもりはない。
ハコニウムですら研究が始まったばかりだ。
それでも《箱庭》が成長するほど、現実世界では簡単に扱えないものが次々と現れている。
そして日本政府も、この頃にはようやく理解し始めていた。
八樹伊織が持つ《箱庭》の価値は、未知の金属一種類だけでは到底測れない。
この小さな世界そのものが、生命を増やしながら資源まで生み出し続ける、既存の常識では説明できない巨大な資源循環系だった。




