国家機密になった箱庭
ーーー日本政府視点ーーー
八樹伊織との面談が終了してから一時間も経たないうちに、高橋誠司と野口玲奈は内閣官房の会議室へ移動していた。先ほどまで使っていた面談室とは異なり、これから行われる報告には関係者以外が立ち入らないよう手配されている。
会議室で二人を待っていた黒田雅臣は、五十五歳という年齢以上に落ち着いた印象を与える男だった。内閣官房で複数省庁にまたがる案件の調整を担っており、通常の行政手続きだけでは処理できない問題が持ち込まれることも少なくない。
それでも今回の報告は、黒田にとって過去に経験した案件とは根本から異なっていた。
「もう一度、最初から説明してくれ」
黒田の前には、高橋が作成した速報資料が置かれている。そこには八樹の基本情報、政府へ連絡してきた経緯、民間分析機関へ提出された試料、そして面談中に確認された現象が記録されていた。
文章だけなら荒唐無稽に見える。
だからこそ黒田は、実際に八樹と会った二人の口から説明を聞こうとしていた。
「八樹伊織、二十二歳。現在は民間企業へ勤務している会社員です。本人の説明では、一か月ほど前に《箱庭》と呼ばれる異能が突然発現しています」
高橋は面談で確認した内容を順番に説明した。
箱庭へ移動できること。
内部で植物や動物を育てられること。
生命の循環が成立することで領域そのものが成長すること。
植物の成長速度が現実より大幅に速いこと。
そして領域拡張後には地下資源が現れ、採掘された鉱床が時間経過によって再形成されることまで話す。
「地下資源については鉄や銅だけではありません。本人の記録では金や銀も確認されています。さらに今回、既知のものとして本人が判断できない金属質の鉱石が発見され、その一部が民間分析機関へ提出されました」
「その試料が、最初の問い合わせに繋がったわけか」
「はい」
今度は野口が説明を引き継いだ。
「鉱床については現地確認を行っていませんので、現時点では八樹さん本人の説明と写真記録に基づいています。ただし採掘箇所を一定期間撮影した写真には変化が確認できます。仮に本人の説明通り再形成が起きているなら、資源としての性質は既存の鉱山とは全く異なります」
黒田は資料をめくった。
採掘直後と、その後の状態を撮影した写真も印刷されている。
「本人が写真を加工した可能性は?」
「現段階では否定し切れません。ただし、それとは別に我々が直接確認した現象があります」
高橋がそう答えると、黒田は視線を上げた。
高橋は用意していた端末を操作し、面談室で撮影された映像を再生した。
画面の中では、八樹伊織が高橋たちと話している。
やがて椅子から立ち上がり、少し離れた場所へ移動する。
次の瞬間、その姿が消えた。
映像を止める。
「編集は?」
「していません。元データについても保全しています」
高橋は映像を再開した。
しばらく何もない会議室が映り続けた後、八樹が同じ場所へ戻ってくる。その手には、移動前には持っていなかったジャガイモが握られている。
黒田は映像が終わっても、すぐには話さなかった。
「この野菜は?」
「現在、政府側で保管しています。本人から検査許可も得ています」
「本人は食べているのか?」
「日常的に食べているそうです。野菜だけでなく、箱庭で飼育している鶏の卵も食べています」
黒田は椅子へ背中を預けた。
「少なくとも、異常な移動現象が存在することだけは疑いにくいわけだな」
「はい。箱庭内部については未確認ですが、八樹さんが通常とは異なる方法で別の場所へ移動し、物品を持ち帰れることについては事実として扱ってよいと考えています」
ここで黒田が気にしたのは、資源よりも先に八樹本人だった。
「彼は何を要求している?」
「現時点では、ほとんど何も」
高橋の答えに、黒田の眉が僅かに動いた。
「金銭も?」
「要求していません。未知の鉱石を自分一人では調べられなくなり、民間へ不用意に出すより政府へ相談した方がいいと判断したようです」
「政府に能力を買い取ってほしいという話でもない?」
「ありません。むしろ本人が気にしているのは、名前や映像が外部へ漏れることです」
黒田はそこで初めて資料から目を離した。
「そこは重要だな」
もし八樹が有名になりたい人物なら対応は変わる。
金銭や権力を要求している場合も同様だった。
しかし現状では、自分だけでは扱えないものを見つけたため政府へ相談したという形に近い。
「本人の身辺確認はどこまで進めた?」
「政府へ相談した人物が実在することを確認するための最低限です。勤務先や居住実態について、不自然な点は現在まで確認されていません」
「それ以上は?」
「まだです」
高橋は少し間を置いてから続けた。
「本人は自発的に政府へ連絡しています。現時点で秘密裏に大規模な身辺調査を進めれば、後から知られた場合に信頼を損なう可能性があります」
黒田は反論しなかった。
国家として八樹について確認する必要はある。
しかし世界で初めて確認された異能者だからといって、本人の権利を無視していい理由にはならない。
それ以上に実務的な問題もあった。
「彼を拘束できると思うか?」
「推奨しません」
「理由を聞こう」
「必要がないからです。それに、仮に箱庭への移動を任意に行えるのであれば、通常の施設へ拘束すること自体が成立しない可能性があります」
黒田は小さく頷いた。
八樹が壁も扉も関係なく箱庭へ移動できるなら、警察施設や政府施設へ閉じ込めたところで意味がない。
それ以前に、協力的な人間を敵へ回す理由がなかった。
「八樹伊織を管理対象として考えるな。少なくとも今は、協力を依頼する相手として扱う」
黒田の言葉に、高橋と野口が頷いた。
「本人の安全については?」
「本人と相談する。勝手に護衛を張り付けるな。ただし民間分析機関へ試料が出ている以上、情報がどこまで広がっているかは確認する必要がある」
そこが最初の問題だった。
箱庭の存在は政府へ相談される前から、ほんの一部とはいえ現実世界へ痕跡を残している。
分析機関は異能の存在を知らない。
しかし通常とは異なる試料を誰かが持ち込んだことは知っている。
「分析機関への対応は私の方で整理します」
野口が答えた。
「ただ、理由もなく試料を回収することは難しいです。八樹さんの了承を得たうえで、再分析を政府系の研究機関へ移せないか相談する方が自然だと思います」
「それで進めよう」
黒田は続いて、研究者の選定を指示した。
未知の金属を調べる以上、材料分野の専門家が必要になる。
しかし研究者なら誰でもいいわけではない。
能力が高いことは当然として、情報管理に問題がなく、政府案件への参加経験があり、結果が出る前から外部へ話すような人物は避けなければならない。
「候補が一人います」
野口が資料を開いた。
「国立系研究機関の松島孝明。五十二歳、材料科学が専門です。金属材料と結晶構造の研究に長く携わっており、過去にも非公開案件への協力経験があります」
「人物面は?」
「研究者としての好奇心はかなり強いですが、情報管理で問題を起こした記録はありません」
黒田は経歴を確認した。
「本人へ最初から異能の話をする必要はない。まず未知試料の分析協力として呼んでくれ」
「分かりました」
その後も会議は続いた。
箱庭という名称を政府内部でそのまま使用するか、八樹に関する情報をどの範囲まで共有するか、今後どの部署が窓口になるかについて整理していく。
最終的に、当面の連絡窓口は高橋が担当することになった。
資源関係は野口が受け持ち、研究が必要になった段階で松島を加える。黒田は全体の責任者として、必要になった場合のみ関係省庁との調整を行う。
大規模な組織は作らない。
まだ分からないことが多すぎるからだ。
「それから、名称を決めておこう」
黒田が資料を閉じた。
「正式な制度を作る段階ではないが、通常案件と同じ管理では困る」
高橋が頷いた。
「八樹案件として、当面は限定管理にしますか?」
「それでいい。本人の氏名が不用意に資料名へ出ないよう、内部管理上の呼称は別に設定してくれ」
その日のうちに、箱庭に関する資料の閲覧範囲が制限された。
異能の存在を知る者も必要最小限に留められる。
まだ法律上の意味で新しい国家機密制度が作られたわけではない。それでも実務上、《箱庭》に関する情報は政府内部でも限られた者しか触れられない案件へ変わった。
翌日、高橋は八樹へ連絡した。
ーーー伊織視点ーーー
昼休みに高橋から電話が入った時、伊織は会社の外へ出てから折り返した。
昨日会ったばかりなので、さすがに番号は覚えている。
「八樹さん、高橋です。今、お時間は大丈夫でしょうか」
「少しなら大丈夫です」
「昨日のお話について、政府内部で対応を協議しました。結論から申し上げますと、今後も八樹さんと継続してお話をさせていただきたいと考えています」
「まあ、そうなりますよね」
伊織としても、ジャガイモを持って目の前から消えておきながら、これで終わるとは思っていなかった。
「一点、先にお伝えしておきます。昨日の映像や八樹さんの能力に関する情報は、現在、政府内部でも閲覧できる範囲を制限しています」
「それは助かります」
「ただし今後、検証に必要な専門家を加える可能性があります。その場合も事前に八樹さんへ説明します」
伊織は少し安心した。
知らないところで何十人にも能力の話を回されることだけは避けたかった。
「それなら俺は大丈夫です」
「ありがとうございます。もう一点、未知の鉱石についてです。可能であれば、民間へ追加試料を提出せず、政府側で分析させていただけないでしょうか」
「そのために相談したようなものなので、構いません」
伊織は即答した。
「ただ、箱庭の中に研究所を作るとかは、まだ嫌ですよ」
「現段階でそのようなお願いをする予定はありません。まず試料だけをお預かりし、外部で分析します」
「なら大丈夫です」
話は思っていたより普通だった。
もっと能力について細かく命令されるかもしれないと身構えていたが、少なくとも高橋は伊織の意思を確認しながら進めている。
「それと、箱庭へ他人が入れるようになる《限定ゲート》についてですが、こちらから一つお願いがあります」
「もう使ってほしいんですか?」
「いいえ。逆です」
予想外の答えだった。
「安全性が確認できるまでは、政府職員を入れないでください。八樹さん自身が問題なく生活できていることと、他人が安全に滞在できることは別問題です」
「……確かに」
伊織はそこまで考えていなかった。
箱庭の水も飲んでいるし、野菜も食べている。
だから安全だと思っていた。
しかしそれは自分にとっての話でしかない。
「まず持ち出した植物や水、土壌などを調べさせてください。そのうえで問題がなければ、限定ゲートについて相談しましょう」
「分かりました。それなら俺も安心です」
伊織にとって悪い提案ではなかった。
むしろ政府側が慎重なくらいの方が助かる。
そこで高橋から、次の面談について説明された。
今度は資源だけではなく、箱庭の環境そのものを調べるために必要な試料を相談したいらしい。
「あと、昨日のジャガイモはどうでした?」
「現在検査へ回す準備をしています」
「食べても大丈夫ですよ」
「八樹さんが食べられることと、政府職員が検査せず食べていいことは別です」
真面目な声で返され、伊織は思わず笑った。
「高橋さん、結構慎重ですね」
「仕事ですから」
電話を終えた伊織は会社へ戻った。
午後も普段通り仕事をする。
周囲の誰も、伊織が昼休みに何の電話をしていたのか知らない。
昨日、政府の人間の前から消えたことも知らない。
自分が世界で初めて確認された異能者として扱われ始めたことも、当然知らない。
仕事を終えて帰宅すると、伊織は箱庭へ入った。
森では鳥が鳴き、鶏はいつも通り草地を歩いている。小川を覗けば魚が泳いでおり、山地の地下では採掘した鉱床がゆっくりと回復を続けていた。
政府が存在を知ったからといって、箱庭そのものが変わったわけではない。
「まあ、急に何か変わるわけじゃないか」
伊織は森を歩きながら、少し肩の力を抜いた。
自分一人で抱えていた時より、むしろ気持ちは軽くなっている。
未知の金属について、もう素人の自分だけで悩む必要はない。
政府側が専門家を用意してくれる。
そして数日後。
伊織が再び政府側と面談する予定日の朝、国立系研究機関で一人の研究者が突然呼び出しを受けていた。
名前は松島孝明。
材料科学を専門とする五十二歳の研究者であり、この時の彼はまだ、自分がこれから調べる小さな青銀色の試料によって、研究者人生そのものが大きく変わることを知らなかった。




