第4話「二重盲検の終焉」
カフェの奥の席。
窓の外は完全に暗くなった。街灯が橙色の光をガラス越しに投げかけている。コーヒーカップは三杯目——いや、四杯目か。数えることさえ意味を持たない。明日には忘れる。
今日、話すことだけが全てだ。
「最初から説明する」
彼女の前にノートを開く。Day_1のページ。
「国立神経工学研究所。ナノマシンMG-22AとMG-19B。製造元は架空のものかもしれない。でも、このノートが存在すること——そして俺たちが毎朝記憶を失うという事実——それが全ての証拠だ」
「あなたはノートを書いた。毎日」
「そうだ。でも書いているのは“昨日の自分”だ。俺じゃない。昨日の俺は“今日の俺”のために、このノートを続けている」
彼女がうなずく。その動作も——覚えている気がする。
「問題はここからだ」
ページをめくる。Day_25。
『やり直すたびに、彼女も昨日を失っているのではないか』
「俺は長い間、このループが『記憶の消去』だけの問題だと思っていた。でも違った。俺が『会いに行く』と決めた瞬間、あなたの昨日も消える。つまり——俺の選択が、あなたの連続性を奪っている」
「でも、それは実験の仕様なんじゃないの?」
彼女の問いかけ。
「だって、タイプBの私には最初から『記憶も感情も消える』って設定されてる。私の昨日が消えるのは、あなたの選択のせいじゃなくて——ナノマシンのせいじゃないの?」
「その通りだ」
うなずく。
「でも——問題は『あなたの昨日が消えるメカニズム』じゃない。“そのことに気づいた俺がどう行動するか”が測定されている」
ここでスマホを取り出す。自分のアドレスから送られてきたメッセージを表示する。
『孤独に耐えられなくなった時、お前はようやく人間になる。』
「この実験の本当の目的——『感情の純度の測定』じゃない。“孤独の中での選択の継続性”だ。毎朝リセットされて、誰も昨日の自分を覚えていない。それでも——同じ対象を選び続けられるか。変化するか。諦めるか。それだけが測定されている」
彼女がノートを手に取る。
ページをめくる。Day_50。
『彼女はそのための「指標」として配置された』
「……これが私の役割」
声が低い。
「選択される側。あなたが毎日選ぶ『対象』。でも——」
彼女の指が震える。
「私には感情がないはずなのに。覚えていないはずなのに。どうして——どうしてここに来るのをやめられないんだろう」
その言葉で——全てがつながった。
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「わかった」
声が出た。
「あなたが『指標』として配置された理由——それはあなたが俺と『同じ』だからだ」
「同じ?」
「あなたも被験体だ。タイプB。記憶も感情も消える。でも——それでも毎日ここに来ている。『なんとなく』『誰かに会える気がするから』と。それは——選択だ。“何も覚えていなくても繰り返される選択”」
彼女の目が見開かれる。
「つまり——」
「この実験は、タイプAだけのものじゃない。タイプBもまた、被験体だ。ただ、測定項目が違うだけ。タイプAは『意識的な選択の継続性』。タイプBは『無意識的な選択の継続性』。どちらも——“なにも覚えていなくても、同じものに向かっていくという現象”を測定している」
ノートの最後のページを開く。
裏表紙の直前。そこに——最初からあったはずのないページがあった。
紙の質が違う。インクの滲み方が違う。誰かが後から挿入した——?
いや。
このノートを書いていた「過去の自分たち」の誰かが、書き足すことを選んだのだ。
タイトルは——『プロトコル終了条件』
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**『実験終了には二つの条件が必要である。』
『条件1:タイプAがタイプBに対して「完全な自己開示」を行うこと。』
『条件2:タイプBがタイプAの自己開示を「受け入れる」こと。』
『この二つが満たされた瞬間、両者のナノマシンは同時に不活性化される。』
『なぜなら——この実験は「二者間の共鳴」を測定するものだから。』
『一人の孤独では何も計測できない。誰かがいて、その誰かを選び続けることで——初めて「選択」という現象が生まれる。』
『覚えているか。あなたは——いや、私たちは——これを望んだのだ。』**
「……これを望んだ」
その言葉が頭の中で反響する。
ノートの裏表紙にあった『治療』という文字。
治療?
ここには『実験』と書いてある。では『治療』とは何か。
——治療とは、自分で選んだものだ。
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彼女がスマホを差し出す。
画面には——さっきまで見たことのないアプリが表示されている。
『被験体#019 / 観測記録』
スクロールする。
タイムスタンプは——今日ではない。もっと前。何ヶ月も前。
いや、年単位か。
『Day_0(初期設定)』
『被験体#731と#019を同一環境に配置。ナノマシンMG-22A / MG-19Bを埋込。実験目的を説明。両者、書面で同意。』
『実験期間:無期限。ただし終了条件が満たされた時点で実験は終了し、両者のナノマシンは不活性化される。』
『補足——#731は実験開始前に“あるリクエスト”をした。「彼女にだけは、覚えていてほしい」と。しかし技術的制約により、それは不可能であった。代わりに“感情だけ残る”処置が#731に施された。これがMG-22A開発のきっかけである。』
「……これ」
声が震える。
「俺が——頼んだのか」
彼女がうなずく。
「あなたが頼んだの。私を覚えていてほしいって。でも——それも私の記憶からは消えた。たぶん、あなたも忘れてる」
「なぜだ」
「なぜって——それが実験だから。覚えていられたら“選択”じゃない。覚えていないのに選ぶから“選択”なんだよ」
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彼女の言葉が、ゆっくりと——しかし確実に——胸に刺さる。
覚えていないのに選ぶ。
それが選択。
ならば——
「俺は、もう選んでいる」
そう言ったとき、左手首の異物感が——消えた。
いや、違う。消えたのではなく——振動している。
ブーンという微小な音が聞こえるような気がする。
ナノマシンの自己診断プロトコル?
それとも——
「私も」
彼女が自分の左手首を触る。
「——震えてる。MG-19B、起動してないはずなのに」
二人同時にスマホを見る。
画面に表示される。
『終了条件——未達成』
『条件1:タイプAの自己開示——未』
『条件2:タイプBの受容——未』
「自己開示……」
彼女が俺を見る。
「まだ、話してないことがあるんでしょ」
そうだ。
話していない。
なぜこの実験を始めたのか。
なぜ彼女を選んだのか。
なぜ——毎日、記憶を失っても——彼女を選び続けているのか。
それがわからない。
覚えていないから。
感情だけが残っている。でもその感情が「何に対するものか」というラベルは——消えている。
「わからない」
正直に言う。
「覚えていない。でも——」
右手を伸ばす。
テーブルの上で、彼女の左手に触れる。
冷たい。
震えている。
「これが——たぶん答えだ」
彼女はその手を——離さなかった。
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スマホの画面が変わった。
『終了条件——条件1:達成』
『自己開示——完了(非言語的コミュニケーションによる)』
『条件2:待機中』
彼女がその画面を見た。
そして——小さく笑った。
記憶も感情も消えるはずの彼女が——笑った。
「……プロトコル、発動」
声は掠れていた。
「条件2——受容する。私は、あなたの選択を受け入れる。あなたが何を選んできたかは覚えていない。でも——」
彼女の手が、俺の手を握り返す。
「この手の温もりは——覚えている。たぶん、ずっと」
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『終了条件——全て達成』
『ナノマシンMG-22A / MG-19B、不活性化プロトコルを実行』
『推定残り時間——00:03:00』
『被験体#731 / #019。実験は終了した。』
『お疲れ様でした。』
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