第5話「残存する情動」
カフェの時計が16時47分を指している。
スマホのカウントダウン——残り2分43秒。
ナノマシンの不活性化プロトコル。
何が起こるのかわからない。ノートにも書いていなかった。過去の自分たちも、ここから先は——知らない。
「……怖い?」
彼女が聞いた。
「当たり前だ」
「私は——怖くない」
彼女が自分の左手首を見る。
「だって、感情が消えるのが普通だから。今この瞬間の『怖い』という感情も、もうすぐ消える。それが私の日常。でも——あなたは違う。感情が残るから、怖いも残る。それが怖いんでしょ」
図星だった。
「……そうだ」
「じゃあ、良かったね」
彼女が微笑む。
「もうすぐ、それが終わる。あなたも私も——同じになる」
同じ。
その言葉の重みが——わからなかった。
記憶も感情も消えるタイプBと、記憶だけが消えるタイプA。
不活性化されれば、両者とも「普通の人間」に戻る。
普通の人間——記憶も感情も残る。
つまり彼女にとっては「感情が残る」ということが——異常なことだ。
「君は、大丈夫なの?」
「わからない」
彼女は正直に言った。
「感情が残ったらどうなるのか——経験したことがないから。でも——」
手を握る力が強くなる。
「あなたがそばにいてくれるなら、たぶん——」
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残り1分15秒。
頭の中で何かが——書き換わっていく感覚がある。
これまでは「消える」感覚だけだった。毎朝4時、記憶が綺麗サッパリ消え去るあの感じ。
今回は違う。
「戻ってくる」感覚だ。
奥底にしまわれていた何かが、引き出しから次々と溢れ出す。
知らない景色。
知らない会話。
知らない——自分たちの姿。
駐車場。雨。誰かの叫び声。
「——っ」
息が詰まる。
「どうしたの?」
彼女の声が遠い。
「何か——」
「戻ってくる」
頭を押さえる。
「記憶が——戻ってくる」
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残り43秒。
見える。
あの日。
国道沿いの駐車場。雨。ワイパーの音。
助手席に彼女がいる。
——私たち、どこに行くの?
——ちょっとだけ遠くまで。
——なんで?
——決めてくるんだ。これからどうするか。
ハンドルを握る自分の手。ナックルが白い。
信号が赤に変わる。
ブレーキ。
——ねえ、怒ってるの?
——怒ってない。
——嘘。怒ってる。
——……
——言ってよ。何に怒ってるか。私、覚えてないんだから。
——覚えてないから、言えないんだ。
——それ、おかしくない?
——おかしくない。毎日忘れるお前が悪い。
——覚えてないんだから仕方ないでしょ!
声が大きくなる。
雨の音がかき消す。
——僕はね、覚えてるんだよ。全部。昨日のことも。一週間前のことも。お前が何を言ったかも。全部。
——それがどうしたの。
——それが——苦しいんだ。
信号が青に変わる。
アクセルを踏む。
——
残り22秒。
次の景色。
病院の廊下。消毒の匂い。
医者が何かを言っている。聞こえない。
彼女がベッドに横たわっている。目を閉じている。
スマホのメモアプリが開いている。自分で記録したメモ。
『事故。彼女の海馬損傷。宣言的記憶の保持が困難になる見込み。』
『感情はおそらく残る。しかし出来事は覚えられない。』
『毎日が——初めてになる。』
その下に、さらに書き足した文字。
『治療を希望。国立神経工学研究所のプログラムを申し込む。彼女と一緒に。彼女が忘れても、俺が覚えていれば——選択を続ければ——何かが——』
ここで文字が途切れている。
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残り8秒。
カフェの光。彼女の顔。
目の前の彼女と、記憶の中の彼女が——重なる。
「そういうことか」
声が出た。
「実験じゃない。治療だ。お前の——いや、俺たちの」
「どういう——」
「お前は事故で記憶を失った。海馬の損傷。毎日リセットされる。感情だけが残る——それはお前の症状だ。そして俺は——それを治すために、自分も同じ状態になることを選んだ」
彼女の目が見開かれる。
「なにそれ……」
「ナノマシンMG-22AとMG-19B。これは治療用デバイスだ。実験という名目で——でも本当の目的は『一緒にリセットされることで、記憶の非対称性をなくす』こと」
残り3秒。
「そしてもう一つ——」
右手を握る。
「この治療の本当のゴールは——俺が毎日お前を選び続けることによって、お前の海馬に『新しい経路』を作り出すことだった」
「新しい経路——?」
「記憶は消えても、選択のパターンは消えない。お前が毎日『なぜかここに来てしまう』という現象——それが証拠だ。もう、大丈夫だ。お前の脳は——覚え始めている。記憶ではなく、『習慣』として」
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残り0秒。
スマホの画面が——真っ暗になった。
同時に、左手首の異物感が完全に消えた。
米粒大だった硬さが——ない。
代わりに——頭の中に、情報が雪崩のように流れ込んでくる。
61日分の記憶。
いや、それだけじゃない。
その前の——事故以前の記憶。
彼女と出会った日のこと。初めてデートした場所。喧嘩した夜。仲直りした朝。
全て。
一気に。
処理しきれない。
視界が歪む。
「——っ」
机に手をつく。
「大丈夫?」
彼女の声。
彼女もまた——同じように頭を押さえている。
「なにこれ……」
「記憶」
「こんなに——たくさん——」
「そうだ。これが俺たちの——」
言葉が止まる。
彼女の目から、涙がこぼれた。
「あ——」
彼女が自分の頬に触れる。
「涙が——出てる」
驚いた顔。
「私——覚えてる。あなたのことを。全部じゃないけど——でも——」
しゃくりあげる。
「ここが痛いの。ずっと、ずっと前から痛かったの。でもそれが『何の痛みか』わからなかった。それが——今、わかった」
「何の痛みだ」
「さみしいの」
彼女が笑う。
涙を流しながら笑う。
「あなたがいないと——さみしいの。覚えていなくても、ずっと——さみしかった」
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静寂。
時計の秒針。外の車の音。コーヒーマシンの蒸気音。
全てが——やけにはっきりと聞こえる。
「俺もだ」
言う。
「覚えていなくても——さみしかった。でも、それが何に対する寂しさか、わからなかった。今——わかったよ」
「何に対する寂しさ?」
「お前に会えないことに対する寂しさだ」
彼女がまた笑った。
さっきよりも——もっと深い笑顔。
「バカ。毎日会ってたじゃん」
「会ってた。でも——覚えてなかったから、会ったことになってなかった」
「じゃあ、今日からは——」
彼女が手を伸ばす。
「会ったことになるの?」
その手を——握る。
「ああ」
言う。
「もう忘れない。お前も俺も」
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窓の外。
暗かった空が、少しだけ明るくなり始めている。
いや——これは夜明け前というやつか。
今日が終わっても、明日にはまた別の日が来る。
記憶は消えない。
昨日の続きがある。
「帰ろっか」
彼女が立ち上がる。
「どこに」
「あなたの部屋。ノート、読み返したいから。これからのために」
「これからのために?」
「うん。これからは——忘れないから。覚えているからこそ、ちゃんと『記録』しておきたいんだ」
コーヒー代を払う。財布の中にレシートがある。明日には消えないレシート。
カフェの外に出る。冷たい空気。
「寒い」
「当たり前だ。冬だもん」
「……冬って、今日が何月何日か覚えてないからわかんない」
「十二月二十四日」
「え」
「イブだ」
彼女が隣に並ぶ。
「プレゼントは?」
「——帰ってから渡す」
「なにそれ」
「ノートに書いてある。『最後のページを開け』って」
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アパートの階段を上がる。
鍵を開ける。部屋の中は——やはり、記憶の中と同じだった。
机の上のノート。
表紙を開く。
最後のページ。
そこには——自分の字と、彼女の字が並んでいた。
『Day_0。』
『これは治療であり、実験であり、そして——恋愛だ。』
『毎日リセットされるあなたを、私は毎日選ぶ。』
『そう決めたのは、私自身だ。』
『あなたが覚えていなくても構わない。』
『なぜなら——あなたが覚えていないその時間の中で、私は確かにあなたを愛しているから。』
『約束する。これからも毎日、同じ選択をし続ける。』
『たとえそれが永遠に続くとしても。』
その下に、彼女の字が続く。
『私も。』
『何も覚えていなくても——毎日、あなたのところへ行く。』
『それはもう、記憶じゃない。習慣だ。』
『私の身体が覚えている。』
『あなたを——好きだってことだけは。』
---
ノートを閉じる。
隣で彼女が——小さく笑った。
「これ、私たちが書いたんだ」
「そうみたいだ」
「すごいね。覚えていないのに——こんなに長く、続けてたんだ」
「続けるって決めたからだ」
「覚えていないのに?」
「だからこそ」
彼女が俺の肩に頭を寄せる。
温かい。
この温もりは——覚えている。
ずっと。
何度リセットされても——消えなかった。
---
窓の外が白み始める。
十二月二十五日。朝。
記憶は消えていない。
彼女はここにいる。
昨日の続きが、ある。
『人は、毎日少しずつ記憶を失っている。』
『でも——』
『選ぶことだけは、やめられない。』
『たとえそれが、同じ選択を繰り返すだけだとしても。』




