表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昨日を選ぶ  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

第5話「残存する情動」

カフェの時計が16時47分を指している。


スマホのカウントダウン——残り2分43秒。

ナノマシンの不活性化プロトコル。


何が起こるのかわからない。ノートにも書いていなかった。過去の自分たちも、ここから先は——知らない。

「……怖い?」

彼女が聞いた。

「当たり前だ」

「私は——怖くない」

彼女が自分の左手首を見る。

「だって、感情が消えるのが普通だから。今この瞬間の『怖い』という感情も、もうすぐ消える。それが私の日常。でも——あなたは違う。感情が残るから、怖いも残る。それが怖いんでしょ」

図星だった。

「……そうだ」

「じゃあ、良かったね」

彼女が微笑む。

「もうすぐ、それが終わる。あなたも私も——同じになる」


同じ。

その言葉の重みが——わからなかった。

記憶も感情も消えるタイプBと、記憶だけが消えるタイプA。

不活性化されれば、両者とも「普通の人間」に戻る。

普通の人間——記憶も感情も残る。

つまり彼女にとっては「感情が残る」ということが——異常なことだ。


「君は、大丈夫なの?」

「わからない」

彼女は正直に言った。

「感情が残ったらどうなるのか——経験したことがないから。でも——」

手を握る力が強くなる。

「あなたがそばにいてくれるなら、たぶん——」


---


残り1分15秒。

頭の中で何かが——書き換わっていく感覚がある。

これまでは「消える」感覚だけだった。毎朝4時、記憶が綺麗サッパリ消え去るあの感じ。


今回は違う。

「戻ってくる」感覚だ。

奥底にしまわれていた何かが、引き出しから次々と溢れ出す。

知らない景色。

知らない会話。

知らない——自分たちの姿。

駐車場。雨。誰かの叫び声。

「——っ」

息が詰まる。

「どうしたの?」

彼女の声が遠い。


「何か——」

「戻ってくる」

頭を押さえる。

「記憶が——戻ってくる」


---


残り43秒。

見える。

あの日。

国道沿いの駐車場。雨。ワイパーの音。

助手席に彼女がいる。

——私たち、どこに行くの?

——ちょっとだけ遠くまで。

——なんで?

——決めてくるんだ。これからどうするか。

ハンドルを握る自分の手。ナックルが白い。

信号が赤に変わる。

ブレーキ。

——ねえ、怒ってるの?

——怒ってない。

——嘘。怒ってる。


——……


——言ってよ。何に怒ってるか。私、覚えてないんだから。

——覚えてないから、言えないんだ。

——それ、おかしくない?

——おかしくない。毎日忘れるお前が悪い。

——覚えてないんだから仕方ないでしょ!

声が大きくなる。

雨の音がかき消す。


——僕はね、覚えてるんだよ。全部。昨日のことも。一週間前のことも。お前が何を言ったかも。全部。

——それがどうしたの。

——それが——苦しいんだ。


信号が青に変わる。

アクセルを踏む。


——


残り22秒。


次の景色。

病院の廊下。消毒の匂い。

医者が何かを言っている。聞こえない。

彼女がベッドに横たわっている。目を閉じている。

スマホのメモアプリが開いている。自分で記録したメモ。

『事故。彼女の海馬損傷。宣言的記憶の保持が困難になる見込み。』

『感情はおそらく残る。しかし出来事は覚えられない。』

『毎日が——初めてになる。』

その下に、さらに書き足した文字。

『治療を希望。国立神経工学研究所のプログラムを申し込む。彼女と一緒に。彼女が忘れても、俺が覚えていれば——選択を続ければ——何かが——』

ここで文字が途切れている。


---


残り8秒。


カフェの光。彼女の顔。

目の前の彼女と、記憶の中の彼女が——重なる。

「そういうことか」

声が出た。

「実験じゃない。治療だ。お前の——いや、俺たちの」

「どういう——」

「お前は事故で記憶を失った。海馬の損傷。毎日リセットされる。感情だけが残る——それはお前の症状だ。そして俺は——それを治すために、自分も同じ状態になることを選んだ」

彼女の目が見開かれる。

「なにそれ……」

「ナノマシンMG-22AとMG-19B。これは治療用デバイスだ。実験という名目で——でも本当の目的は『一緒にリセットされることで、記憶の非対称性をなくす』こと」


残り3秒。


「そしてもう一つ——」

右手を握る。

「この治療の本当のゴールは——俺が毎日お前を選び続けることによって、お前の海馬に『新しい経路』を作り出すことだった」

「新しい経路——?」

「記憶は消えても、選択のパターンは消えない。お前が毎日『なぜかここに来てしまう』という現象——それが証拠だ。もう、大丈夫だ。お前の脳は——覚え始めている。記憶ではなく、『習慣』として」


---


残り0秒。


スマホの画面が——真っ暗になった。

同時に、左手首の異物感が完全に消えた。

米粒大だった硬さが——ない。

代わりに——頭の中に、情報が雪崩のように流れ込んでくる。


61日分の記憶。

いや、それだけじゃない。

その前の——事故以前の記憶。

彼女と出会った日のこと。初めてデートした場所。喧嘩した夜。仲直りした朝。

全て。

一気に。

処理しきれない。

視界が歪む。

「——っ」

机に手をつく。

「大丈夫?」

彼女の声。

彼女もまた——同じように頭を押さえている。

「なにこれ……」

「記憶」

「こんなに——たくさん——」

「そうだ。これが俺たちの——」

言葉が止まる。


彼女の目から、涙がこぼれた。

「あ——」

彼女が自分の頬に触れる。

「涙が——出てる」

驚いた顔。

「私——覚えてる。あなたのことを。全部じゃないけど——でも——」

しゃくりあげる。

「ここが痛いの。ずっと、ずっと前から痛かったの。でもそれが『何の痛みか』わからなかった。それが——今、わかった」

「何の痛みだ」

「さみしいの」

彼女が笑う。

涙を流しながら笑う。

「あなたがいないと——さみしいの。覚えていなくても、ずっと——さみしかった」


---


静寂。

時計の秒針。外の車の音。コーヒーマシンの蒸気音。

全てが——やけにはっきりと聞こえる。

「俺もだ」

言う。

「覚えていなくても——さみしかった。でも、それが何に対する寂しさか、わからなかった。今——わかったよ」

「何に対する寂しさ?」

「お前に会えないことに対する寂しさだ」


彼女がまた笑った。

さっきよりも——もっと深い笑顔。

「バカ。毎日会ってたじゃん」

「会ってた。でも——覚えてなかったから、会ったことになってなかった」

「じゃあ、今日からは——」

彼女が手を伸ばす。

「会ったことになるの?」

その手を——握る。

「ああ」

言う。

「もう忘れない。お前も俺も」


---


窓の外。

暗かった空が、少しだけ明るくなり始めている。

いや——これは夜明け前というやつか。


今日が終わっても、明日にはまた別の日が来る。

記憶は消えない。

昨日の続きがある。


「帰ろっか」

彼女が立ち上がる。

「どこに」

「あなたの部屋。ノート、読み返したいから。これからのために」

「これからのために?」

「うん。これからは——忘れないから。覚えているからこそ、ちゃんと『記録』しておきたいんだ」


コーヒー代を払う。財布の中にレシートがある。明日には消えないレシート。

カフェの外に出る。冷たい空気。

「寒い」

「当たり前だ。冬だもん」

「……冬って、今日が何月何日か覚えてないからわかんない」

「十二月二十四日」

「え」

「イブだ」

彼女が隣に並ぶ。

「プレゼントは?」

「——帰ってから渡す」

「なにそれ」

「ノートに書いてある。『最後のページを開け』って」


---


アパートの階段を上がる。

鍵を開ける。部屋の中は——やはり、記憶の中と同じだった。

机の上のノート。

表紙を開く。

最後のページ。

そこには——自分の字と、彼女の字が並んでいた。

『Day_0。』

『これは治療であり、実験であり、そして——恋愛だ。』

『毎日リセットされるあなたを、私は毎日選ぶ。』

『そう決めたのは、私自身だ。』

『あなたが覚えていなくても構わない。』

『なぜなら——あなたが覚えていないその時間の中で、私は確かにあなたを愛しているから。』

『約束する。これからも毎日、同じ選択をし続ける。』

『たとえそれが永遠に続くとしても。』

その下に、彼女の字が続く。

『私も。』

『何も覚えていなくても——毎日、あなたのところへ行く。』

『それはもう、記憶じゃない。習慣だ。』

『私の身体が覚えている。』

『あなたを——好きだってことだけは。』


---


ノートを閉じる。

隣で彼女が——小さく笑った。

「これ、私たちが書いたんだ」

「そうみたいだ」

「すごいね。覚えていないのに——こんなに長く、続けてたんだ」

「続けるって決めたからだ」

「覚えていないのに?」

「だからこそ」

彼女が俺の肩に頭を寄せる。

温かい。

この温もりは——覚えている。

ずっと。

何度リセットされても——消えなかった。


---


窓の外が白み始める。

十二月二十五日。朝。

記憶は消えていない。

彼女はここにいる。

昨日の続きが、ある。

『人は、毎日少しずつ記憶を失っている。』

『でも——』

『選ぶことだけは、やめられない。』

『たとえそれが、同じ選択を繰り返すだけだとしても。』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ