第3話「モニター#019」
カフェの扉に手をかけた瞬間、スマホが震えた。
16時00分。
ナノマシンのデータ送信フェーズ。
時刻通り——この時間感覚も、もしかするとナノマシンが調整しているのか。
店内に入る。ベルの音。
奥の席——彼女はまだそこにいた。コーヒーカップは新しいものに変わっている。震える指で取っ手を握っている。
向かいの席に座る。
息が上がっている。走ってきたからではない。心臓の動きがおかしい。ナノマシンが何かを——いや、ただの動悸か。
「……戻った」
「遅かったね」
彼女の声は平坦だった。感情がないわけではない。だが、それが「本当の感情」なのか「感情を装っているだけ」なのか——判断できない。
ノートを開く。
裏表紙の書き足しを見せる。
『答えは簡単だ。彼女に“真実”を伝えろ。全部。』
彼女がそれを読む。
表情が変わらない。ただ、目が数回、左右に動いた。
「そう……」
「そう、じゃない」
声が荒くなるのを抑えられない。
「これってどういうことだ。お前は——あなたは、誰なんだ。なぜ俺のノートにあなたの字がある。なぜ『治療』って書いた」
彼女はゆっくりと息を吐いた。
コーヒーカップを両手で包む。その動作は——誰かの真似のように見えた。俺の? それとも——
「教えてほしいことがあるわ」
彼女が言った。
「あなたのノートを読ませて。最初から。今この瞬間に書かれたものじゃなくて——本当の『記録』を」
「……なぜだ」
「私のノートには、あなたのノートを読めとしか書いてなかった。だから——読ませて。そうすれば、私も話すから。私が誰なのか。なぜMG-19Bなのか。なぜ感情も消えるのか」
---
ノートを渡す。
彼女は最初のページから読み始めた。
Day_1。
Day_4。
Day_10。
ページをめくる速度が、途中から変わる。
Day_15。
『彼女に出会った』
この行で、彼女の手が止まった。
指先が震えている。それは——感情だ。記憶がなくても、身体が覚えている反応。
「……続きを」
声が掠れている。
Day_20。
Day_25。
『やり直すたびに、彼女も昨日を失っているのではないか』
彼女の呼吸が速くなる。
ページをめくる手が早まる。
Day_30。
『恐怖。彼女に近づくたび、彼女の連続性を奪っている』
Day_45。
そこから先——俺もまだ読んでいなかった。
**『今日、初めて彼女と話した。いや、“初めて”ではない。何度目かわからない。だが今日、彼女が言った。「どこかで会った気がする」と。その瞬間、確信した。彼女もまた、このループの中にいる。ただ——彼女の方が進行が早い。なぜなら彼女のナノマシンは旧型。記憶も感情も消える。
だが、それでも。
彼女は「期待」という感情だけを、消え残らせている気がする。』**
Day_50。
『実験の目的がわかった。“感情の純度”ではない。“選択の継続性”だ。毎日リセットされても、同じ選択を繰り返すか——それとも変化するか。それが測定されている。そして彼女は、そのための「指標」として配置された。』
Day_55。
『彼女に聞いた。「なぜ毎日ここに来るんだ」と。彼女は答えた。「なんとなく。ここに来れば、誰かに会える気がするから」と。その「誰か」が俺だと気づいていない。いや、気づけない。感情が消えるから。「期待」だけが、理由もなくここに彼女を運ぶ。』
彼女がノートを閉じた。
顔を上げる。目が赤くなっている——はずなのに、涙はない。
感情が消えているから。
泣くという行為の「プログラム」だけが実行されて、そこに伴う感情が——ない。
「……読んだ」
「そうか」
「あなたは、私を——」
彼女の声が途切れる。
言いたい言葉が出てこない。
記憶がないから。感情がないから。適切な言葉を選ぶための「材料」が不足している。
「あなたは、私を——何度も選んできたんだね」
代わりに、そう言った。
「選ぶたびに、私の昨日を消して。それでも——選び続けた」
「……そうかもしれない」
「覚えてないの?」
「覚えてない。でも——」
自分の胸元を押さえる。
「ここが痛い。今、そう言ったとき。この痛みが——たぶん、答えなんだと思う」
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沈黙が降りる。
コーヒーが冷めていく。
窓の外はもう暗くなりかけている。夕方の光がオレンジから藍色へ変わる。
「教えてくれ」
俺が言った。
「あなたは誰なんだ。なぜMG-19Bなんだ。治療ってどういうことだ」
彼女は深呼吸をした。
「——被験体番号は、019」
「モニター#019」
「そう。あなたの——担当モニターだった」
その言葉の意味を、脳が処理するのに数秒かかった。
モニター。
実験のモニター。
つまり——
「あなたは、実験を運営する側の人間だったのか」
「違う」
彼女が首を振る。
「違うの。“だった”のよ。過去形。今は違う。私は——あなたと同じ。被験体。ただ、役割が違っただけ」
「どういう——」
「この実験の構造を説明するわ」
彼女はスマホのメモアプリを開き、文字を打ちながら話し始めた。
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『実験の名称:感情持続性観測プログラム』
『目的:毎日記憶がリセットされる状況下において、被験体が「同じ対象」を選択し続けるかどうかを測定すること』
『被験体は二種類』
『タイプA(MG-22A搭載):記憶は消えるが感情は残る』
『タイプB(MG-19B搭載):記憶も感情も消える』
『タイプA=#731。あなた。選択する側。』
『タイプB=#019。私。選択される側。』
『そして——この実験の終了条件』
ここで彼女の指が止まった。
「続きは、あなたのノートに書いてあった」
「『彼女に真実を伝えろ』——それか」
「うん。」
彼女が顔を上げる。
「でも、それだけじゃないの。真実を伝えるだけではプロトコルは発動しない。条件がもう一つある」
「何だ」
「あなたが——『誰のために』真実を伝えるのか。それが重要なの。実験を終わらせるため? ループから抜け出すため? それとも——」
彼女の声が小さくなる。
「私のため?」
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心臓が跳ねた。
その質問の意味が——わかるような気がした。
ノートのDay_60。
『重要なのは“選択”ではない。“選択の理由”だ。』
そして裏表紙の最後の行。
『孤独に耐えられなくなった時、あなたはようやく人間になる。』
「——わかった」
立ち上がる。
「もう一度、最初から確認する。この実験の全部を。ナノマシンのことも。ループの構造も。そして——なぜ俺が毎日あなたを選び続けてきたかも」
彼女が見上げる。
その目に——涙はない。
でも。
「期待」がある。
確かに——そこに——あった。




