表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昨日を選ぶ  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/5

第2話「記録という戦略」

駅までの道のりは十五分。


その間、左手首の違和感がずっと消えなかった。


皮下の硬さ。米粒大。MG-22A。


製造元:国立神経工学研究所。


メモに書いてあった情報を反芻する。覚えておかなければならない。たとえ明日には消えても——いや、だからこそ。


歩きながら、スマホのメモアプリを開く。


ついさっき自分でやったはずなのに、「『メモを見ろ』と自分に書き残す」という行動の意味が、ようやく理解できた。


昨日の自分は他人だ。


ノートにそう書いてあった。


ならば、昨日の自分は——他人でありながら、今の自分と同じ「感情の残渣」を持っている。


つまり。


自分の書いたメモを読む行為は、「他人からの手紙を読む」のではなく、「ほとんど同じ人間が書いた日記を読む」のに近い。


同じ恐怖。同じ迷い。同じ彼女への——


信号が青に変わる。


渡りながら、ノートの内容を思い出そうとする。だがぼやける。ページをめくった感触は覚えている。紙の手触り。角の擦り切れ。でも、そこに書いてあった文字の正確な並びは——もう曖昧だ。


たった数十分前なのに。


これが「宣言的記憶の消去」というやつか。


---


駅前に着く。


カフェは改札を出てすぐ右手。ガラス張りの正面。中は見える。オレンジ色の間接照明。木目調のテーブル。混んではいない。


奥の席。


彼女がいた。


その瞬間——息が止まった。


知らない。


確かに知らない。


でも。


胸の奥が強く引かれた。釣り針で引き上げられるような、物理的な感覚。呼吸が浅くなる。手のひらに汗。


この反応——覚えている。


ノートのDay_15に書いてあった。


「彼女に出会った」


その一行を読んだときの、胸の締め付け。


あれと同じだ。


つまり——あのノートを読んだ過去の自分も、この瞬間を経験した。


そしてまた明日、次の自分も——このカフェの前に立つ。


何度でも。


---


ガラス越しに彼女を見る。


二十代半ば。紺のカーディガン。ストレートの黒髪。テーブルの上にコーヒーカップ。読んでいた本を閉じて、窓の外を見ている。


目が合った。


彼女の表情がほんの少し——動いた。


驚き? それとも——


いや、これは「既視感」の表情だ。


彼女もまた、この瞬間を「どこかで見た気がする」と思っている。


ノートのDay_25。


「彼女もまた、俺という存在に既視感を覚えている」


つまり。


彼女の昨日も消えている。


俺が「会いに行く」と決めた日だけ。


---


扉を開ける。


ベルの音。


店内の空気——コーヒーの苦味と、焼き菓子の甘さ。それらの感覚は鮮明だ。情動記憶は残るから。昨日もこの匂いを嗅いだなら、その時の「何か」は今もここにある。


歩く。


彼女のテーブルの前で止まる。


「……あの」


声が掠れた。


彼女が顔を上げる。


目が合う。茶色の瞳。こちらを見る角度——わずかに左に傾いている。


この角度。


知っている。


確かに知っている。


「はい?」


その声。高さ。間。


「知っている」という感覚が電流のように走る。


言葉よりも先に口が動いた。


「俺たち、会ったことあるよね」


彼女は一瞬止まった。


驚き。それから——少し困ったような笑顔。


「いえ……初めてだと思います」


同じだ。


その表情も。間も。返し方も。


何度も——見ている。


「そう……かもしれない」


言いながら、向かいの席に座る。


コーヒーの匂いが一段と濃くなる。


「でも、少しだけ話していい?」


彼女は迷った——これも覚えている——それから小さくうなずいた。


「……何ですか?」


---


会話は途切れ途切れだった。


天気の話。このカフェに来る理由。本の話。


どれも「初めて聞く」のに、「答えがわかる」瞬間があった。


「私、ここよく来るんです」


「うん、知ってる」


「……え?」


「——いや、なんとなく」


彼女の表情が曇る。警戒している。無理もない。


俺は深呼吸をした。


「よかったら、これ見てほしい」


スマホの画面を見せる。そこには——さっき歩きながら書いたメモが表示されていた。


『俺の記憶は毎朝リセットされる。あなたに会うのはこれで○回目だ。多分、あなたは覚えていない。でも俺は覚えている——いや、覚えているという“感情”だけが残っている』


彼女の顔色が変わる。


「なにこれ……」


「冗談っぽいよな。でも——あなたもなんとなく思ってない? この状況、前にもあった気がするって」


彼女は黙った。


コーヒーカップを両手で包む。指先が少し震えている。


「……確かに」


声が小さくなる。


「さっき、あなたが入ってきたとき——見たことある気がした。どこで、とは絶対に思い出せないけど」


それだ。


ノートのDay_25に書いてあった「検証」が正しかった。


彼女もまた——昨日を失っている。


「俺があなたに会いに来るたびに、あなたの『昨日の記憶』も書き換わっているかもしれない」


「書き換わる……?」


「正確には『消える』。俺だけじゃない。俺が『会う』と決めた瞬間に、あなたも昨日の俺との記憶を失っている。だから毎回、あなたにとっては『初めて』なんだ」


彼女が顔を上げた。


その目には——恐怖と、好奇心と、それから「何かを確信した」ような色が混ざっていた。


「あなた、実験のことを知ってるの?」


その言葉で、全てが止まった。


---


静寂。


時計の秒針。隣の席の会話。コーヒーマシンの蒸気音。


それら全てが遠く聞こえる。


「……『実験』って」


俺の声は自分でもわかるほど震えていた。


彼女は少し迷ったあと、自分のスマホを取り出した。


画面をこちらに向ける。


そこには——さっき俺が見せたものと似た、メモアプリの画面。


彼女の字で、こう書いてあった。


『ナノマシンMG-19Bが埋め込まれている。旧型。記憶も感情も——両方消える。だから私は“覚えていない”。でもあなたは違う。あなたの新型は感情を残す。それが——私があなたを待っていた理由』


「MG-19B……」


ノートに書いてあったMG-22Aの旧型。


感情も消える——?


彼女は感情もろとも記憶を失っている?


「あなた……」


「そう」


彼女がうつむく。


「私は毎朝、全てを忘れる。あなたのように『感情だけ残る』という贅沢もない。ただ——真っ白。昨日何を食べたかも、誰と話したかも、何を感じたかも。全部、きれいさっぱり」


「でも、そのメモは……」


「ノートに書いてあるのを、今朝読みました。『駅前のカフェに行け。そこに、あなたが待っている人がいる』って。誰が書いたかは——覚えてないけど」


彼女が顔を上げる。


目が合う。


その目には——何もなかった。


本当に何も。


記憶のない、感情のない、「ただそこにある」だけの目。


だが。


その奥に——ほんのわずかな——かすかな——「期待」のようなものを感じた。


それが彼女にとっての「感情」なのか。


それとも、俺の「感情だけが残る脳」が勝手に作り出したノイズなのか。


わからない。


「あなたに聞きたい」


彼女が言った。


「このループから抜け出す方法——知ってる? 私はノートに『あなたが知っている』って書いてあった。でも、それが本当かどうか——」


スマホが震えた。


通知。


ロック画面に表示される。


『ノートの裏表紙。もう一度開け。答えはそこだ。』


送信元——自分のアドレスだった。


過去の自分が、予約送信したのか。


それとも——ナノマシンが何かを——


「ちょっと待ってて」


俺は立ち上がる。


彼女が「えっ」という顔をした。その表情も——何度も見ている気がする。


「すぐ戻る」


---


カフェを出る。走る。


アパートの階段を三段飛ばしに上がる。鍵を開ける。机の上のノートを手に取る。


裏表紙。


開く。


そこには——スタンプの隣に、ペンで書き足された文字があった。


さっきまではなかった。


確かに、なかった。


『答えは簡単だ。彼女に“真実”を伝えろ。全部。ナノマシンのこと。実験のこと。ループのこと。そして——お前が彼女を何度も何度も選んできたこと。それを彼女が“受け入れた”瞬間、プロトコルが発動する。なぜならこの実験の終了条件は——“被験体が他者に対して完全に自己開示すること”だから。孤独に耐えられなくなった時、お前はようやく人間になる。』


その下に、もう一行。


違う字だった。


彼女の字だった。


『これは実験じゃない。これは——治療だ。あなたが選んだものだ。思い出せ。』


治療。


選んだ。


思い出せ——?


何を。


何を思い出せというんだ。


---


スマホがまた震える。


時刻——15時58分。


メッセージ。


**『カフェに戻れ。もうすぐ時間がない。ナノマシンのデータ送信フェーズは16:00から始まる。その前に——決めろ。逃げるか。続けるか。』


**


ドアを閉める。


走る。


階段を駆け下りる。


外の光が——夕方の光が——目に刺さる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ