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第1話「覚醒と観測」

午前6時23分。


意識が浮上する感覚——それを正確に言葉にできる人間がどれだけいるだろうか。


深い水底から、ゆっくりと光の方へ向かっていくような。あるいは、機械のスイッチが入るような。どちらにしても、自分の感覚ではない。


目を開ける。


天井。白い。無機質なシミひとつない。


体を起こす。布団の感触。枕の位置。左手首にかすかな違和感——皮下の硬さ。


米粒大。


ある。


そこに。


---


脳が起動する。


視野が鮮明になる。焦点調整。瞳孔反射。正常。


次に聴覚。時計の秒針。外の車の音。冷蔵庫のコンプレッサー。全て「正しい」位置にある。


平衡感覚。問題なし。


痛覚——なし。触覚——シーツのテクスチャを認識。


ここまでは毎朝同じだ。


問題はこの次。


6時24分。


机の上に何かある。白い。A4。用紙。


ボールペン。黒。


文字。


立ち上がる。無意識に歩く。手に取る。


見覚えのある筆跡。


『これはお前が書いたメモだ。落ち着いて読め』


自分の字だ。


筆圧0.8ニュートン、角度52度。癖として左端が少し上昇する。間違いない。過去の自分が書いた。


では、過去の自分は誰だ。


今の自分とどこが違う。


『ナノマシンMG-22Aが埋め込まれている。製造元:国立神経工学研究所。目的:感情の「純度」を測定する社会実験。副次効果として、宣言的記憶の日次リセット』


左手首を触る。皮下の硬さ。バイオセンサー。米粒。MG-22A。


メモの情報と、自分の身体のそれとが一致する。


嘘ではないらしい。


『毎朝午前4時、海馬CA1領域から大脳皮質へのシナプスが初期値に戻る。消えるのは「何をしたか」「どこに行ったか」「誰と話したか」のエピソード記憶のみ。しかし情動記憶——その出来事に紐づいた「感情の残渣」——は消えずに残る。なぜなら実験の目的が、まさにその“経時変化”だから』


思い出そうとする。


昨日の夕飯。


何を食べたか——思い出せない。


食べたという事実だけがある。皿洗いをした感触。水道の音。それらは「あったはず」という確信だけで、輪郭がない。


昨日の帰り道。


暗かった。それが全て。街灯の色も、歩いた時間も、誰かに会ったかどうかも——抜け落ちている。


喉が詰まる。


これは「忘れている」のではない。


「消されている」のだ。


『だがな、よく考えろ。もし完全に消えているなら、このメモを読んだときの“既視感”はどこから来る?』


メモの次の行。


確かに——この違和感。この「また読んでいる」感覚。


あるいは、この震える手。


これが保持されているということか。


『そう。お前の“今感じている恐怖”——それこそが測定対象だ』


---


机の上に、もう一つ。


黒い表紙。大学ノート。角が擦り切れている。何度も開かれた形跡。


ページを開く。


びっしりと、同じ筆跡。


日付がある。Day_1から始まっている。


最初のページ。


『観察記録:被験体#731』


『ナノマシン埋込後の記憶リセットを確認。日単位。消去範囲は宣言的記憶に限定。情動は保持される。このノートを読むときの違和感——これがデータになるのだろう』


息が浅くなる。


自分は「被験体」だ。


この部屋も、この街も、このメモもノートも——すべて実験の一部。


ページをめくる音だけがやけに大きい。


Day_4。


『検証:他人の記憶を確認したところ、彼らは昨日の出来事を完全に覚えている。記憶喪失は自分だけ。ナノマシンの埋込は単体——おそらく被験体は複数いるが、個別に隔離された環境で運用されている』


Day_10。


『生活は維持可能である。買い物、金銭管理、習慣的行動——これらは手続き記憶として残っている。コンビニで同じ弁当を毎日買っている形跡がある。問題は“連続して生きている感覚”が希薄なこと。昨日の自分は他人だ』


Day_15。


ここから字が変わる。


同じ筆跡なのに——ペンの入り方が違う。迷いが混じっている。


『彼女に出会った』


彼女。


その言葉を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。


理由がわからない。


ぼんやりと——誰かの笑顔のようなものが——いや、笑顔そのものではない。笑顔を見たときの「何か」が残っている。


感情だけ。


『私は彼女を知らない。初めて会ったはずだ。でも——覚えている。いや、“覚えている”という感覚が残っている。彼女の笑い方。声の高さ。首をかしげる角度。言葉にできないが、確かに“そこにある”』


ページをめくる手が震える。


Day_20。


『彼女に再会した。同じ場所。カフェ。同じ会話をしている気がする。断定できない。でも彼女の反応の“次”がわかる瞬間がある——「その次に彼女はこう言う」という予感が当たる。つまり何度も繰り返している』


Day_25。


『ある可能性に気づいた。もし“やり直し”ができるとしたら——』


ここで一度、字が途切れている。


次の行はインクの色が違う。別の日の書き足し。


『やり直すたびに、彼女も昨日を失っているのではないか』


心臓の音が聞こえる。


自分の耳で。


つまり——俺が巻き込んでいる?


『検証:彼女に“初めて会ったとき”の話を聞いた。彼女は「前にも会ったことがある気がする」と答えた。つまり彼女にも既視感が生じている。ならば消えているのは俺の記憶だけではない。俺の“選択”が彼女の昨日も書き換えている』


呼吸ができない。


これは——


人を巻き込んでいる。


自分だけのループではない。


Day_30。


『恐怖。彼女に近づくたび、彼女の連続性を奪っている。俺が「もう一度会おう」と決めた瞬間に、彼女の昨日がなかったことになる。でも会わなければ——俺は何もわからないまま、毎朝このメモを読んで、同じ迷いを繰り返す』


---


最後のページまでめくると、ノートの裏表紙に小さなスタンプがある。


「延命装置 稼働日数:61日」


61日。


今日で61日目。


裏表紙をめくると、最後のページのさらに裏——つまり閉じると見えなくなる場所に、ペンで殴り書きされている。


『この装置の残り寿命は15日。ナノマシンの劣化が検出されている。つまり——いつか。近いうちに。選択を迫られる。ループを続けるか。それとも——抜け出すか。抜け出す方法は、このノートのどこかに書いた。お前なら見つけられる。なぜならお前は、過去の自分だから』


---


スマホが震える。


朝のアラームではない。何かの通知。


画面を開く。ロック画面にメモが表示されている。


『彼女は駅前のカフェに来る。16:00』


予定表のアプリに登録されている。


自分で入れたのだろう。記憶はなくても。


時刻は15時32分。


---


行けば会える。


行かなければ——会わない。


もし会えば、彼女をまた巻き込むのか。


もし会わなければ——このまま何も知らずにまた明日を迎え、同じメモを読み、同じ迷いを繰り返す。


どちらも明日には覚えていない。


だが「感情」は残る。


後悔か——それとも——


手が震える。


でも、その震え自体がデータだ。


誰かに見られている。


ナノマシンが——いや、その先の誰かが——この選択を見ている。


「……くそ」


声が出た。掠れている。


ドアを開ける。


外の光が痛い。


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