第9話 嘘の王宮に立つ
視察最終日の朝。
領主邸にベアトリスからの呼び出しが届いた。「視察報告の最終確認」という名目。ニクラスと二人で応接間に向かった。
ベアトリスは書類を広げていた。その隣にヨハンが立っている。
無表情の男。オットーを殺したと疑われる人物。
「グリュンフェルトの防衛陣について、視察報告書を作成しました。結論から申し上げますと——管理状態は不適格。管理権の宮廷への返還を勧告します」
予想していた結論だ。ニクラスは表情を変えない。
「根拠をお聞かせください」
「第一に、追放された元局員による不正な改修。第二に、管理責任者である領主代行の技術的知見の不足。第三に——」
ベアトリスは視線を私に向けた。
「先日発生した住民の死亡事故。防衛陣の不備による魔獣被害と推定されます」
「オットーさんの死因は毒物です。魔獣ではありません」
私は冷静に反論した。
「医師の診断書があります。水源からは魔力阻害剤が検出されています」
ベアトリスの表情が一瞬固まった。しかし、すぐに持ち直す。
「辺境の医師の診断がどこまで信頼できるかは疑問ですわ。いずれにせよ、住民の安全を守れなかった事実は——」
「ベアトリス様」
声が割って入った。コンラートだ。応接間の入口に立っている。
「コンラート、あなたは待機しているよう指示したはずよ」
「申し訳ありません。しかし、視察報告に関して補足すべき事項があります」
コンラートは一枚の書類を差し出した。
「昨晩、防衛陣の詳細な技術検証を行いました。修復された陣の魔力効率は宮廷標準の百三十パーセント。安全基準も完全に満たしています。技術的に不適格とする根拠はありません」
ベアトリスの目が鋭くなった。
「あなた、誰の指示で検証を?」
「検査課員としての職責です。視察において技術検証を怠ることは、職務規程に反します」
正論だ。ベアトリスは反論できない。
その瞬間、ヨハンが動いた。腰の鞘から短剣を抜き、一歩を踏み出す。
「コンラート、よせ」
ニクラスが机を蹴って立ち上がった。ヨハンの腕を掴み、短剣を叩き落とす。領主として町を守ってきた男の、鍛え抜かれた反射だった。
「視察団の一員が領主邸で武器を抜いた。これは明確な法令違反です」
ニクラスの声は低く、静かだった。
ヨハンの目が揺れた。ベアトリスが制止の手を上げる。
「ヨハン、やめなさい」
短い沈黙の後、ヨハンは後退した。ニクラスが短剣を拾い上げ、机の上に置いた。
「ベアトリス様。この視察の本当の目的は何ですか」
私は一歩前に出た。もう後には引けない。
「管理権の返還は口実でしょう。あなた方が欲しいのは、この防衛陣に隠されたゲルハルト・リントナーの記録です」
ベアトリスの顔色が変わった。初めて見る動揺。
「何を——」
「リントナー師は、宮廷基幹魔法陣の改竄前の設計図をこの陣に隠しました。その設計図と現在の基幹陣を比較すれば、魔力の不正流用——つまり横領の全容がわかります」
「戯言を。追放された元局員の妄言など——」
「妄言かどうかは、設計図を照合すればわかります。元・騎士団整備士のオットーもその不整合に気づいていた。そして——口を封じられた」
ベアトリスが唇を噛んだ。
「証拠はあるの」
「あります。十年分の作業記録。リントナー師の原本設計図。オットーの検査記録。誘引器の筆跡鑑定。そしてあなたが送った脅迫状」
一つ一つ指を折って数えた。単独では弱い証拠も、積み重ねれば全体像を描き出す。
魔法陣と同じだ。一本の線は無力でも、組み合わせれば結界になる。
「ベアトリス様。あなたはヴォルフラム局長の指示で動いている。でも、このまま従い続ければ、あなた自身が切り捨てられます。ヴォルフラムは不都合な者を消してきた。リントナー師も、前領主も、オットーも。次はあなたかもしれない」
ベアトリスの手が震えていた。強気の仮面の下に、恐怖がある。
彼女の目が、一瞬だけヨハンの方を向いた。局長が送り込んだ「処理係」。それは彼女を守るためではなく、監視するために同行している。
その事実に、ベアトリス自身も気づいているのだろう。いや——とうに気づいていて、気づかないふりをしていたのだ。
「……私に、どうしろと言うの」
「証言してください。ヴォルフラムの指示の内容を。それが、あなた自身を守る唯一の方法です」
長い沈黙。壁時計が時を刻む音だけが聞こえる。
ベアトリスは目を閉じた。翡翠の耳飾りが微かに揺れた。
やがて——唇が動いた。最初はほとんど声にならなかった。
「……もう、疲れたのよ」
その一言は、権力者に仕える者の、積もりに積もった重荷を降ろすような響きだった。
ベアトリスが目を開けた。そこにはもう、計算の色はなかった。
「……あの人は、基幹陣の魔力出力の一部を、自分の領地の魔道具工房に流していた。年間にして王国防衛予算の二割に相当する魔力量。その不正を隠すために、設計図を改竄し、気づいた者を排除してきた」
告白が始まった。十年以上にわたる、宮廷の闇。
コンラートが書記役を買って出た。ベアトリスの証言を一字一句、記録していく。
ヨハンは壁際に座り込み、動かなかった。実行犯であると同時に、使い捨ての駒でしかなかったことを、本人も知っていたのだろう。
記録が終わる頃には、窓の外は夕焼けに染まっていた。
ベアトリスが最後に一つだけ付け加えた。
「ソフィア。大広間の事故——あれは事故ではなかったわ。ヴォルフラムの命令で、基幹陣の出力分岐を拡大する工事を行った際に暴走が起きた。あなたを追放するために起こしたわけではなく——ただ、暴走の原因を知られるのが危険だったから、あなたに責任を被せた」
「……知っています。薄々は」
「でも、あなたがあのとき制御しなかったら、死者が出ていた。私を含めて」
ベアトリスは初めて、まっすぐ私の目を見た。
「……ありがとう。十年遅いけれど」
返す言葉が見つからなかった。ただ小さく頷いた。
視察団は翌朝、グリュンフェルトを去った。ベアトリスの証言記録とともに。
ニクラスが見送りの後、私の隣に立った。
「これを王都に持っていくのか」
「ええ。コンラートさんが基幹陣の現状データを入手次第、照合して、しかるべき機関に告発します」
「一人で行くつもりか」
「一人では無理です。力を貸してください」
ニクラスが少し笑った。無愛想な顔に浮かぶ、わずかな微笑み。
「断ると思ったか」
「思いませんでした」
——王都への道は長い。けれど、もう一人ではない。




