第10話 魔法陣師の帰る場所
王都ヴァイセンに戻るのは、追放されて以来初めてだった。
馬車を降りたとき、城壁に囲まれた街並みが以前より狭く感じた。辺境の広い空に慣れた目には、王都の空は切り取られた布切れのように小さい。
コンラートからの伝書鳩が届いたのは三日前。基幹魔法陣の現状データの写しを入手したという報告とともに、照合結果の速報が添えられていた。
改竄箇所は十七か所。魔力出力の分岐経路が、正規の設計図には存在しない形で追加されている。リントナーの原本と現行の陣を重ね合わせれば、不正は一目瞭然だった。
告発先は宮廷魔法局ではない。局長ヴォルフラム自身が首謀者である以上、内部告発は握り潰される。
「王国監察院に直接提出する。ここは宮廷とは独立した監査機関で、局長級の不正も調査できる権限がある」
コンラートが事前に手配してくれた監察院の受付で、私たちは告発書類一式を提出した。
リントナーの原本設計図。オットーの検査記録。
ベアトリスの証言書。私の十年分の作業手帳。
誘引器の筆跡鑑定。コンラートが入手した現行設計データ。
監察官は書類を受け取り、分厚い眼鏡の奥の目を見開いた。
「これは——相当な案件ですな」
「ええ。十年以上にわたる国家規模の不正です」
監察院が動いた。翌日には宮廷魔法局に対する強制調査が開始された。
ヴォルフラムは執務室で拘束された。抵抗はなかったと聞いた。
証拠の量に、逃げ道がないことを悟ったのだろう。
ヨハンも拘束された。オットーの毒殺への関与が疑われている。
事件の全容が明らかになるにつれ、王都は騒然とした。基幹魔法陣の魔力横領は、王国の防衛力を著しく低下させていた。辺境で魔獣被害が増加していたのも、基幹陣の出力低下が一因だった。
私はその間、宿の部屋で静かに過ごしていた。やるべきことはすべてやった。あとは監察院の仕事だ。
三日目の夕方。王城から使者が来た。
王太子ギルベルトが面会を求めている、と。
王城の謁見室。私は追放された時と同じ作業着で、王太子の前に立った。
「ソフィア・ブレンネル。宮廷魔法局の不正を告発し、王国の安全に貢献した功績を認め——」
「殿下」
遮った。無礼は承知だ。
「功績の承認よりも先に、確認させてください。大広間の事故の夜、殿下はベアトリスの報告を鵜呑みにして、私の弁明を聞きませんでした」
ギルベルトの顔が強ばった。周囲の廷臣たちがざわめく。
「あのとき、一言でも『調べよう』と仰っていただければ、この十年の不正はもっと早く明るみに出ていた。オットーも、リントナー師も、前領主も——命を落とすことはなかったかもしれない」
謁見室が静まり返った。
ギルベルトは——頷いた。
「その通りだ。私の怠慢が招いた結果でもある。弁明はしない」
意外だった。王太子が非を認めるとは思わなかった。
「今後の宮廷魔法局の再建にあたり、あなたの力を借りたい。局長代行として戻ってくれないか」
「お断りします」
即答だった。廷臣たちが再びざわめく。
「宮廷には戻りません。辺境で、自分の陣を描きます」
「……なぜだ」
「定時に帰りたいからです」
ギルベルトが目を瞬いた。そして——少しだけ笑った。
「わかった。ただし、辺境の防衛陣の管理権はグリュンフェルト領に正式に帰属させる。それと、王国全土の防衛陣の技術顧問として、必要な時だけ意見を聞かせてほしい」
「技術顧問なら、お引き受けします。ただし、出張費と定時退社は保証してください」
「善処する」
王太子と元・追放魔法陣師が、労働条件について交渉している。奇妙な光景だったろう。
◇
グリュンフェルトに戻ったのは、王都を発って四日後のことだった。
馬車から降りると、見慣れた土の広場が迎えてくれた。風が吹いた。
草の匂い。焼きたてのパン。
ハンナが宿の前で手を振っている。
「おかえりなさい、ソフィアさん! 大変だったでしょう」
「ただいま、ハンナさん」
初めてこの町に「ただいま」と言った。
丘の上に登る。防衛陣の基盤石は、穏やかに光を放っていた。リントナーの多層暗号陣は、証拠としての役割を終えた今もなお、この町を守り続けている。
基盤石の前にしゃがみ込み、表面に触れた。温かい石。陽の光を溜め込んでいる。
「戻ったか」
振り返ると、ニクラスが水筒を持って立っていた。毎日同じ時刻にやってくる。律儀な人だ。
「戻りました」
「宮廷には戻らなかったんだな」
「ええ。ここがいいので」
ニクラスが水筒を差し出した。受け取る。
指が触れた。ほんの一瞬。
けれど、その温度を私は覚えている。
「ニクラスさん。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「前領主の叔父上が亡くなった後、どうしてこの町に残ったんですか」
「……叔父が守りたかったものを、引き継ぎたかった」
「この町を?」
「この町と、ここに住む人たちを。そして——」
ニクラスは言葉を切った。丘の上の風が、二人の間を通り抜ける。
「——最近は、もう一つ増えた」
それ以上は言わなかった。でも、十分だった。
私は防衛陣の点検に取りかかった。いつもの日課。
いつもの丘。いつもの風。
違うのは、隣に誰かがいること。
コンラートからの最後の手紙には、こう書かれていた。
『祖父の技術は、ソフィアさんを通じてこの世に残りました。祖父もきっと喜んでいると思います。——これからも、正しい線を引き続けてください。』
正しい線を引く。ただそれだけのことが、こんなにも難しくて、こんなにも尊い。
魔法陣の設計において最も重要なのは、最初の一本の線だと師匠は言っていた。最初の線が正しければ、残りのすべてはそこから導かれる。
私はインクを指先に含ませ、新しい陣を描き始めた。この町のための、新しい結界。
西日が丘を照らし、銀色の線が金色に光った。
定時まで、あと少し。今日の分が終わったら、食堂でハンナの料理を食べよう。ニクラスも、きっと来る。
風が凪いだ。基盤石の上で、光の線がそっと息づいている。——まるで、誰かの鼓動のように。
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