第4話 月夜の散歩
防衛陣の修復が半ばを過ぎた日の午後、ニクラスから呼び出しを受けた。
領主邸は町の中心にある二階建ての石造りで、「邸」と呼ぶには質素すぎる建物だった。応接間に通されると、壁に一枚の古い地図が掛けられている。
グリュンフェルト周辺の地形図。ところどころに手書きの印が入っている。
「昨日の誘引器について調べた」
ニクラスは机に数枚の書類を広げた。前領主の遺した記録らしい。
「叔父は死の直前、宮廷魔法局から辺境領の魔法陣管理権を返還するよう求められていた。管理権を返還すれば、この町の防衛は完全に宮廷の管轄になる」
「管理権の返還? 防衛陣は地方領主が管理するのが通例のはずですが」
「ヴァイセン建国時の法令ではそうだ。しかし五年前に宮廷が『効率化』の名目で法令の改正を進めている。辺境領の魔法陣を宮廷が一括管理し、維持費を削減するという建前だ」
効率化。聞こえはいい。だが実態は、辺境の防衛陣を宮廷が握ることで、地方領主の自治権を削ぐ動きだ。
「叔父はそれを拒否した。その直後に体調を崩し、半年で亡くなった」
ニクラスの声は淡々としていた。けれど、握りしめた拳の力は隠せない。
「……毒殺を疑っているのですか」
「証拠がない。医師の診断は持病の悪化だった。だが——」
だが、疑わずにはいられない。その気持ちは、わかる。
「ニクラスさん。一つ提案があります」
「何だ」
「この町の防衛陣を完全に修復するだけでなく、改良します。宮廷の標準設計よりも効率的で、維持費も低い陣を。そうすれば、管理権の返還を拒否する実質的な根拠になる」
ニクラスが初めて、はっきりと驚いた顔をした。
「できるのか、そんなことが」
「ゲルハルト・リントナーの設計思想を応用すれば、可能です」
隠された署名の主。退官した筆頭魔法陣師。
前領主との繋がり。まだ全貌は見えないが、あの追加設計には従来の魔法陣理論を超えた革新がある。
「リントナーの名前を知っているのか」
「宮廷魔法局の伝説的な陣師です。退官後の行方は不明とされていますが——この防衛陣の追加設計は、おそらく彼の仕事です」
ニクラスは黙って窓の外を見た。しばらくして、静かに言った。
「叔父の書斎に、手紙が残っている。リントナーという差出人からの」
前領主の書斎は二階の奥にあった。埃を被った書棚と、整理されないままの書類の山。ニクラスが一通の封筒を引き出した。
封蝋はすでに切られている。中の手紙は短かった。
『防衛陣の追加設計を完了した。この陣には、証拠保全機能を組み込んである。万一の際に、真実を守るための備えだ。くれぐれも、宮廷には知らせるな。——G・R』
証拠保全機能。魔法陣に情報を記録する技術は存在するが、それを防衛陣に組み込むのは聞いたことがない。
「つまりリントナーは、何かの証拠をこの防衛陣の中に隠したということですか」
「そう読める。そして宮廷は、その証拠を回収——あるいは消去したがっている」
管理権の返還要求。前領主の死。
放置された防衛陣。魔獣の誘引。
すべてが一本の線で繋がった。
宮廷はこの防衛陣を手に入れたい。いや、正確には、この陣の中に隠された「証拠」を消したい。
(……私が追放されたのも、そのための準備だったのかもしれない)
大広間の基幹魔法陣の暴走事故。私を排除する口実としては完璧だった。宮廷で最も技術力のある陣師を消せば、証拠の存在に気づく者がいなくなる。
手紙を元に戻し、書斎を出た。廊下で立ち止まる。夕日が窓から差し込み、床に長い影を作っていた。
「ソフィア」
ニクラスが後ろから声をかけた。
「これは危険な話だ。関わらなくてもいい。あんたはここで静かに陣を修復して、定時に帰る生活を望んだんだろう」
「ええ、望みました。今も望んでいます。でも——」
胸ポケットの手帳に触れた。十年分の記録。誠実に描いてきた線の積み重ね。
「嘘の上に建てられた陣は、いつか必ず崩れます。それを放置できるほど、私は器用じゃないんです」
ニクラスは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、先に階段を下りていった。
◇
その夜、防衛陣の修復を夜間に延長する代わりに、翌日の午前を休むことにした。定時退社の原則は崩さない。ただし、始業と終業の時刻を柔軟に調整する。
月明かりの下、基盤石の前に座る。昼間とは違う光の角度で、また新しい隠し線が浮かび上がった。
リントナーの設計は、光の入射角に応じて異なる層の情報が読み取れる仕組みになっている。昼光、夕日、月光、星明かり——それぞれの波長に反応する異なるインクの層。
これは「多層暗号陣」と呼べる技術だ。理論としては魔法陣工学の教科書に言及があるが、実用化された例は知られていない。リントナーは退官後も研究を続け、この辺境で実用化に成功していたのだ。
月光で浮かんだ層には、数式が刻まれていた。魔法陣の出力計算式。ただし、見覚えのない変数が含まれている。
手帳に書き写しながら、計算を追う。この変数は——宮廷の基幹魔法陣の設計定数だ。
機密中の機密。外部に持ち出されるはずのない数値。
リントナーが隠した「証拠」の一端が見えてきた。宮廷の基幹魔法陣に関する設計情報が、ここに記録されている。なぜそんなものを辺境に隠す必要があったのか。
答えは一つしかない。宮廷の基幹魔法陣に不正がある。そして、リントナーはそれに気づいた。
月が雲に隠れた。浮かんでいた文字が消える。
私は道具を片づけ、宿に戻った。
戻り道、領主邸の前を通りかかると、二階の窓にまだ灯りが点いていた。ニクラスも、眠れない夜を過ごしているのだろう。
(……お互い、不器用なんだ)
宿の扉を開ける。ハンナが温めておいてくれたハーブティーが、卓の上に置いてあった。
一杯の茶が、こんなに沁みたのは初めてだった。
——明日からは、修復と解読の二正面作戦になる。定時退社だけは、絶対に守る




