第五話 水の帰る道
全五話の短期連載も、いよいよ最終話です。
水の道を取り戻した紬が、祖母の遺したもう一冊の写本を開きます。
近江国佐和山から、肥前国諫早へ。
水守がつないできた記憶の行方を、最後までお楽しみください。
翌朝、給水船が港へ入った。
海が静まり、飲料水を積んだ船がようやく接岸できたのだ。
島中が、それを喜んだ。
誰も、昔の井戸だけで生きていこうとは言わなかった。
復旧した導水路の水は、まずトイレや清掃などの生活用水に使われた。
飲み水は給水船と備蓄でしのぎ、何度も水質検査を行う。
三日後。
潮の井戸の塩分濃度は、大きく下がった。
一週間後。
山の湧水と井戸水の安全が確認された。
一か月後には、海底送水管も復旧した。
役場は、古い導水路を非常用水源として正式に整備する方針を決めた。
石水路をすべて新しくするのではない。
残せる石組みは残し、崩れた箇所だけを補強する。
水質と水量を定期的に測り、災害時にはすぐ使えるようにする。
島に、新しい水道と古い水路、二つの水の道ができた。
◇
石蔵のあった場所には、低い石壁だけが残った。
番号をつけて外した石は、やがて小さな管理小屋へ組み直すという。
母は家の売却を、ひとまず取りやめた。
島へ残ると決めたわけではない。
片づけと、水路に関する権利や管理方法を整理するために、少し時間が必要になっただけだ。
紬も、進学先を変えなかった。
卒業すれば島を出る。
外の街で暮らし、これまで知らなかったものを見る。
その気持ちは、今も変わっていない。
「結局、出ていくんだな」
航平が、少し意地の悪い顔で言った。
二人は山の石水路を歩き、位置をスマートフォンの地図に記録していた。
分岐、点検口、崩れやすい斜面。
祖母の手帳だけに残すのではなく、誰でも確認できる形にするためだ。
「出ていくよ」
紬は答えた。
「でも、出ることと忘れることは違うから」
「それ、ハルばあちゃんの言葉?」
「私の」
「なら、手帳に書いとけ」
「もう地図に入れた」
紬は保存ボタンを押した。
画面の中で、山から海へ一本の青い線がつながった。
◇
その晩、紬は一人で潮の井戸へ行った。
風鈴を軒先に戻す。
ちりん。
井戸の水面は、月を映して澄んでいた。
「いる?」
水面が揺れる。
青い衣の少女が、月明かりの中に立っていた。
「もう行くの」
「水は、道へ帰りました」
「あなたが戻したんじゃないの?」
「私は、覚えていただけ」
少女は、最初の夜と同じことを言った。
「戻したのは、あなたたちです」
紬は井戸の縁へ座った。
「水守って、ずっと昔からいるの?」
「水があり、人がいるところに」
「じゃあ、いろんなところに現れた?」
「さあ」
少女は少しだけ首を傾けた。
「水は、流れた先のことまで話してはくれません」
「名前は?」
「水守」
「それは名前じゃないでしょ」
「今は、それでよいのです」
水面の少女が薄くなる。
紬は、どうしても聞いておきたかったことを口にした。
「おばあちゃんも、あなたを見た?」
少女は答えなかった。
ただ、消える直前に、風鈴を見上げた。
「あの人も、道を選びました」
ちりん。
風鈴が鳴る。
水面には、月だけが残っていた。
◇
祖母の手帳の二重底には、もう一冊、薄い写本が隠されていた。
和紙の表紙は水を吸って波打ち、題の一部は消えている。
辛うじて読めたのは、四文字だけだった。
――水守拾遺。
巻頭には、異なる筆跡でこう記されていた。
水守を見し者は、これを記せ。
水の道は残れど、語られぬ記憶は消ゆるものなり。
収められていたのは、一つや二つの昔話ではなかった。
北は陸奥、南は薩摩。
山里、城下、干潟、離れ島。
年代も土地も異なる、三十六の水守伝承だった。
陸奥では、七日七夜の雨のあと、水守が村人に古い沢を掘り戻させていた。
出羽では、旱魃の年、枯れ井戸の底に立ち、忘れられた横井戸の口を示した。
越後では、名もなき石工とともに雪解け水の道を変え、三つの村を救った。
信濃では、水を争う二つの里に、古い分水の約定を思い出させた。
紀伊では、海鳴りの前夜、浜の子らを高台の社へ導いた。
阿波では、一枚の田を沈めることで、百の家を洪水から守った。
肥後では、濁った泉の上流に埋もれた獣の骨を見つけ、水の道を改めさせた。
日向では、井堰を壊す河童と村人の間に立ち、魚の通る水路を築かせた。
どの話にも、水守が現れていた。
姿は少しずつ違う。
幼い少女と記すものもあれば、青い衣の女と記すものもある。
声だけを聞いた者、水面に映る姿だけを見た者もいた。
だが、水守が雨を降らせたとも、洪水を消したとも書かれていない。
水守はただ、水の声を聞き、水がかつて通った道を人々に示していた。
道を掘ったのも、堤を切ったのも、井堰を築き直したのも、そこに暮らす人々だった。
紬は、一つずつ頁をめくった。
やがて、第十七伝で指を止める。
近江国佐和山――
戦火の夜、水守の傍らに、白瀬湊一なる者あり。
湯を守り、人を守り、落城ののち姿を消す。
知らない土地だった。
知らない人の名だった。
紬はそのまま、頁をめくった。
水守は、その後も各地に現れている。
城下の堀。
山中の棚田。
潮の満ちる干潟。
そして、最後の第三十六伝。
肥前国諫早――
水守とともに海を拓く者あり。
海より百万石を興さんと夢見し、その名も白瀬湊一。
紬の指が止まった。
もう一度、第十七伝へ戻る。
見間違いではない。
近江国佐和山。
肥前国諫早。
土地も、出来事も違う。
記した者の筆跡さえ違っている。
それなのに、二つの伝承には、同じ男の名があった。
「同じ人……?」
紬は呟いた。
「それとも、同姓同名?」
答える者はいない。
窓の外では、蘇った導水路の水が、夜の島を流れている。
写本の最後には、まだ何も書かれていない白紙が一枚残っていた。
紬は机に向かい、祖母の万年筆を手に取った。
迷ってから、最初の一行を書く。
第三十七伝 汐路島――
続けて、あの夜から起きたことを、一つずつ記した。
台風で海底送水管が切れたこと。
潮の井戸が塩辛くなったこと。
水守が、山の水はまだ生きていると告げたこと。
祖母の童歌を頼りに、島の者たちが忘れられた水路を開いたこと。
最後の一文を書き終える。
水守、道を示す。
水を帰せしは、島に生きる人々なり。
万年筆を置く。
どこからか、一滴の水が落ちた。
雨漏りかと思ったが、天井は乾いている。
写本の裏表紙には、古い日本の地図が描かれていた。
三十六の伝承が残る土地に、小さな青い印がある。
その地図の上を、一滴の水がゆっくりと走った。
近江の印に触れ、細い線となる。
線は幾つもの山と川を越え、肥前の印へたどり着いた。
二つの土地を結ぶと、水はぴたりと止まった。
まるで、遠く離れた二つの物語が、初めから同じ流れの上にあったかのように。
そのとき、軒先の風鈴が鳴った。
ちりん。
紬は顔を上げる。
潮の井戸から流れる水の音に交じって、誰かの声が聞こえた気がした。
「これで、三十七」
紬が庭へ出たとき、そこには誰もいなかった。
ただ、月明かりを映した水だけが、山から海へ流れていた。
水は、道を忘れない。
人が忘れても、いつか誰かが思い出す。
そしてその記憶は、次の水辺へと流れていく。
まだ語られていない、海を陸へ変える物語へ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて『水守異聞 潮の井戸が眠る島』、全五話完結です。
本作は一つの独立した物語であると同時に、『佐和山若旦那録』と、現在執筆中の次作『海から百万石』をつなぐ「水の道」でもあります。
『海から百万石』では、江戸時代の有明海を舞台に、現代の土木職員・白瀬湊一が、水守や河童たちとともに大干拓へ挑みます。
奇跡だけでは、海は拓けない。
知恵を絞り、堤を築き、失敗すれば直しながら、仲間たちと新しい国をつくっていく冒険活劇です。
現在、皆さまへお届けできるよう執筆を進めています。
佐和山から離島へ、そして有明海へ――。
水守と白瀬湊一の物語を、これからも見守っていただけましたら幸いです。
本作を楽しんでいただけましたら、評価や感想で応援していただけるとうれしいです。




