10.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑪
『 愛 し て る わ 』
ぞくりと背筋を撫でる甘い囁きに、カトリナははっと瞳を見開いた。
「————ここは、」
思わず漏れた声が、静かな闇へ溶ける。
そこは、頭上も足元も夜に覆われた、夜のような世界だった。
冷たい石造りの地下牢も、手足を絡め取っていた蔦も、いつの間にか消えていた。
夢とも現ともつかぬ世界。
星屑のような光が全身を優しく包み込み、胸を焦がしていた憎悪さえ静かに溶かしていくようだった。
「なんて、ところなの……」
その穏やかな闇に包まれながらも、カトリナはその胸を畏怖で震わせた。
その紫の瞳には、余すことなく映っていたからだ。この空間を満たす、圧倒的な力が。
「——それであなたは、ここへ磔られたのね。
その美しい呪いに苛まれながら」
と、鈴を転がすような声が、静寂を揺らした。
決して忘れることなどない、憎らしいその声。慈愛に満ちた、だけどもどこか愉悦に歪んだ、その口調。
——ああ、ああ、ああ。
胸の奥で、焼け付くような憎悪が再び燃え上がる。
「さあ、私の愛する『踊り手』よ。
あなたの『願い』は何かしら?」
「————ルナ・ルクス……!」
振り返りざま、カトリナは叫んだ。
視線の先で、一人の女がふわりと闇に浮かんでいる。
長い黒髪を揺らし、穏やかに微笑むその姿。それは——
自分が何よりも憎んだ女。
自分が何もかもを奪い、『魔女』へと堕とした女。
——ルナ・ルクス。
肩に小さな黒猫を乗せたその女が、蠱惑的な笑みを浮かべこちらを見下ろしていた。
「ずいぶん、ご大層なことね。貴女が、わたくしをここへ連れてきたの?」
その圧倒的な存在感に、カトリナはどこか気圧されながら問いかけた。
美しい相貌も、『魔』に堕ちてなお衰えぬ甚大な力も、カトリナの記憶にある彼女と何一つ変わらない。
けれど、血を塗り重ねたような紅い瞳も、こちらを挑発するような笑みも、かつて知っていた『聖女』とはまるで別人だった。
ここがルナの生み出した場所だと言うことは、カトリナには最初から分かっていた。ならば、自分がここへ招かれた理由も——
警戒した面持ちのまま、眼前の『魔女』を見上げる。
だがルナは、ひとつ息を吐くと、静かに首を横に振った。
「いいえ。ここへ辿り着いたのは、あなた自身よ」
「え——」
その言葉に、カトリナは目を丸くした。
「私にできるのは、ここに辿り着いた魂に力を貸すことだけ。
ここに来られるのは——強い恨みを胸に抱いている者だけ。
私が呼んだのではないわ。あなた自身の魂が、この場所を選んだのよ、カトリナ」
「力を、貸す……?」
真っ直ぐ向けられる紅い瞳に、カトリナは目を見開く。
そして次の瞬間には、怒声を張り上げていた。
「——冗談じゃないわ! わたくしは、たとえこの命尽きても、貴女にだけは靡かない! 貴女の手を借りるくらいなら、このまま朽ちた方がよほどましよ!」
紫の瞳を鋭く顰め、そう怒鳴りつける。
自身を睨み上げるカトリナに、ルナは「あら、嫌われたものね」とくすりと笑った。
その余裕が、なおさら腹立たしかった。
穢らわしい黒髪も、穏やかに微笑む表情も。こんな世界に閉じこもりながら、ディーンを救おうとしないその在り方も。
ルナという存在の全てが、カトリナには憎くて仕方なかった。
「だけどあなたはここに降り立った。
大嫌いな私の力を借りてでも、叶えたい『願い』があるのではなくて?」
「巫山戯ないで。たとえそうだったとしても、大嫌いな貴女にだけは頼らないと言っているのよ」
「残念ね。
私はあなたのこと、そんなに嫌いじゃなかったのだけれど」
「何を——!」
苛立ちを隠さないカトリナに、ルナは飄々と言ってのける。
その態度にさらに苛立って、カトリナは怒気を露わに顔を上げた。
瞬間。
息が止まった。
「だって、私の気持ちに気づいたのはあなただけ。
あなたの想いに気づけるのも、きっと私だけだわ」
——そう告げたルナの表情には、もう揶揄うような笑みはなかった。
真っ直ぐな瞳でカトリナを射抜き、凛とした姿勢でそこに立つ。
その姿はまるで、神へ祈りを捧げていた頃の『聖女』、そのものだった。
「わたくしの、気持ち……?」
「ええ。あなたが心から恨む相手。心から救いたい相手。
私にはわかる。だって私たちは——ずっと、『同じ』だったもの」
そう言ってルナは静かに微笑み、月光のように白い手を差し出した。
心から憎んだ女の手。白く細い、死人の手。
その手を睨み続けるカトリナへ、ルナは再び『魔女』の笑みを向けた。
「取り戻したいものがあるのなら、私が力を貸しましょう。
——あなたがその血を、捧げるのならば」
——それは、『魔』への誘い。
偽りとはいえ聖女だった自分を、魔女へと堕とす甘い囁き。
それでもカトリナは、今度こそその手を振り払えなかった。
これが死した自分がディーンを救える唯一の道だと、きっと心のどこかでわかっていたから。
「……勘違いしないで。これはディーン様のためよ」
そう言って、差し出された手へ自らの手を重ねる。
意地だけで紡いだその言葉に、ルナはくすりと笑った。
その笑みにまた胸が掻き毟られる。
けれど、長年澱のように沈んでいたその嫉妬心も、もはやどうでもよかった。
虚飾に塗れた人生の、だけどたったひとつ抱いた本当の恋心。
嫉妬も、羨望も、惨めさも、すべてが遠のいていく。
今、心を満たしているのはただ一つ。
愛した人を穢されたことへの、焼けつくような憎悪だけだった。
「さあ、共に舞台へ上がりましょう——」
重ねた手の隙間から眩い光が溢れ出すのを、カトリナの瞳がとらえた。
幾重にも広がるその輝きが、二人の聖女を包み込んでいく。
夜の世界を聖なる光が満たした。
最後の舞台の、幕が上がった。




