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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
第七章 虚飾の聖女は虚に溺る

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10.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑪

『   愛 し て る わ   』


 ぞくりと背筋を撫でる甘い囁きに、カトリナははっと瞳を見開いた。


「————ここは、」


 思わず漏れた声が、静かな闇へ溶ける。

 そこは、頭上も足元も夜に覆われた、夜のような世界だった。


 冷たい石造りの地下牢も、手足を絡め取っていた蔦も、いつの間にか消えていた。

 夢とも現ともつかぬ世界。

 星屑のような光が全身を優しく包み込み、胸を焦がしていた憎悪さえ静かに溶かしていくようだった。


「なんて、ところなの……」


 その穏やかな闇に包まれながらも、カトリナはその胸を畏怖で震わせた。

 その紫の瞳には、余すことなく映っていたからだ。()()()()()()()()()()()()()()()


「——それであなたは、ここへ磔られたのね。

 その美しい呪いに苛まれながら」


 と、鈴を転がすような声が、静寂を揺らした。

 決して忘れることなどない、憎らしいその声。慈愛に満ちた、だけどもどこか愉悦に歪んだ、その口調。

 ——ああ、ああ、ああ。

 胸の奥で、焼け付くような憎悪が再び燃え上がる。


「さあ、私の愛する『踊り手』よ。

 あなたの『願い』は何かしら?」

「————ルナ・ルクス……!」


 振り返りざま、カトリナは叫んだ。

 視線の先で、一人の女がふわりと闇に浮かんでいる。

 長い黒髪を揺らし、穏やかに微笑むその姿。それは——


 自分が何よりも憎んだ女。

 自分が何もかもを奪い、『魔女』へと堕とした女。

 ——ルナ・ルクス。

 肩に小さな黒猫を乗せたその女が、蠱惑的な笑みを浮かべこちらを見下ろしていた。


「ずいぶん、ご大層なことね。貴女が、わたくしをここへ連れてきたの?」


 その圧倒的な存在感に、カトリナはどこか気圧されながら問いかけた。

 美しい相貌も、『魔』に堕ちてなお衰えぬ甚大な力も、カトリナの記憶にある彼女と何一つ変わらない。

 けれど、血を塗り重ねたような紅い瞳も、こちらを挑発するような笑みも、かつて知っていた『聖女』とはまるで別人だった。


 ここがルナの生み出した場所だと言うことは、カトリナには最初から分かっていた。ならば、自分がここへ招かれた理由も——

 警戒した面持ちのまま、眼前の『魔女』を見上げる。

 だがルナは、ひとつ息を吐くと、静かに首を横に振った。


「いいえ。ここへ辿り着いたのは、あなた自身よ」

「え——」


 その言葉に、カトリナは目を丸くした。


「私にできるのは、ここに辿り着いた魂に力を貸すことだけ。

 ここに来られるのは——強い恨みを胸に抱いている者だけ。

 私が呼んだのではないわ。あなた自身の魂が、この場所を選んだのよ、カトリナ」

「力を、貸す……?」


 真っ直ぐ向けられる紅い瞳に、カトリナは目を見開く。

 そして次の瞬間には、怒声を張り上げていた。


「——冗談じゃないわ! わたくしは、たとえこの命尽きても、貴女にだけは靡かない! 貴女の手を借りるくらいなら、このまま朽ちた方がよほどましよ!」


 紫の瞳を鋭く顰め、そう怒鳴りつける。

 自身を睨み上げるカトリナに、ルナは「あら、嫌われたものね」とくすりと笑った。


 その余裕が、なおさら腹立たしかった。

 穢らわしい黒髪も、穏やかに微笑む表情も。こんな世界に閉じこもりながら、ディーンを救おうとしないその在り方も。

 ルナという存在の全てが、カトリナには憎くて仕方なかった。


「だけどあなたはここに降り立った。

 大嫌いな私の力を借りてでも、叶えたい『願い』があるのではなくて?」

「巫山戯ないで。たとえそうだったとしても、大嫌いな貴女にだけは頼らないと言っているのよ」

「残念ね。

 私はあなたのこと、そんなに嫌いじゃなかったのだけれど」

「何を——!」


 苛立ちを隠さないカトリナに、ルナは飄々と言ってのける。

 その態度にさらに苛立って、カトリナは怒気を露わに顔を上げた。

 瞬間。


 息が止まった。


「だって、私の気持ちに気づいたのはあなただけ。

 あなたの想いに気づけるのも、きっと私だけだわ」


 ——そう告げたルナの表情には、もう揶揄うような笑みはなかった。

 真っ直ぐな瞳でカトリナを射抜き、凛とした姿勢でそこに立つ。

 その姿はまるで、神へ祈りを捧げていた頃の『聖女』、そのものだった。


「わたくしの、気持ち……?」

「ええ。あなたが心から恨む相手。心から救いたい相手。

 私にはわかる。だって私たちは——ずっと、『同じ』だったもの」


 そう言ってルナは静かに微笑み、月光のように白い手を差し出した。

 心から憎んだ女の手。白く細い、死人の手。

 その手を睨み続けるカトリナへ、ルナは再び『魔女』の笑みを向けた。


「取り戻したいものがあるのなら、私が力を貸しましょう。

 ——あなたがその血を、捧げるのならば」


 ——それは、『魔』への誘い。

 偽りとはいえ聖女だった自分を、魔女へと堕とす甘い囁き。


 それでもカトリナは、今度こそその手を振り払えなかった。

 これが死した自分がディーンを救える唯一の道だと、きっと心のどこかでわかっていたから。


「……勘違いしないで。これはディーン様のためよ」


 そう言って、差し出された手へ自らの手を重ねる。

 意地だけで紡いだその言葉に、ルナはくすりと笑った。


 その笑みにまた胸が掻き毟られる。

 けれど、長年澱のように沈んでいたその嫉妬心も、もはやどうでもよかった。

 虚飾に塗れた人生の、だけどたったひとつ抱いた本当の恋心。


 嫉妬も、羨望も、惨めさも、すべてが遠のいていく。

 今、心を満たしているのはただ一つ。

 愛した人を穢されたことへの、焼けつくような憎悪だけだった。


「さあ、共に舞台へ上がりましょう——」


 重ねた手の隙間から眩い光が溢れ出すのを、カトリナの瞳がとらえた。

 幾重にも広がるその輝きが、二人の聖女を包み込んでいく。

 夜の世界を聖なる光が満たした。


 最後の舞台の、幕が上がった。

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