9.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑩
——ああ、まただ。
アネリアに笑いかけるディーンを見た瞬間、カトリナの胸に浮かんだのはその一言だった。
陽光の差し込む穏やかなその場所で、静かに向き合う二人。その光景は、カトリナには見覚えがあった。
(まただ。またあの女が、わたくしからディーン様を奪う)
カトリナの胸に、言いようのない焦燥が込み上げた。
今そこでディーンと向き合っているのは、アネリアだ。なのにカトリナの瞳には、その姿がルナに重なって仕方なかった。
アネリアのことは、元からルナによく似て気に入らないと思っていた。
見た目の話ではない。穏やかに微笑む表情や、誰かのために祈ることを当たり前のように受け入れる姿勢。
そのどれもがルナの姿に重なって、忘れかけていた憎悪が蘇ってくる。
(どうして……どうしてその笑顔を向けられるのが、わたくしではないの……!?)
胸の奥で、何かが弾けた。
腹の底で渦を巻いていた嫉妬心が、炎のように燃え盛る。
せっかく奪ったのに。やっと手に入れたのに。
——どうしてまだ、あの女の影がディーン様の隣にいるの……!?
その怒りが、アネリアへ向けられたものなのかルナへ向けられたものなのか、もはやカトリナ自身にもわからなかった。
いや——きっと、どちらでもよかった。
死に物狂いであの女を追い落とし、この手を罪に染めてまでここに辿り着いたというのに。
結局ディーンの心には、ルナだけが残り続けている。
その事実に打ちのめされてしまいそうだった。
(それなら……それならわたくしは、何のために——)
なんのために、聖女になったの?
*
「や、やめ……っ、やめてください、カトリナ様……!」
「お黙りなさい、この恥知らず!」
「あ゛ぁッ!」
鋭い叱責とともに、鞭がアネリアの肌を裂く。
どれだけアネリアが泣き叫び許しを請うても、カトリナは折檻の手を止めなかった。
——あれからカトリナは、嫉妬に駆られた行動ばかりを取り続けた。
アネリアを呼び出しては鞭を振るい、聖務を理由に必要以上の労役を課す。もはやそれは主が従者に与える仕置きではなく、一方的な私刑だった。
「どうして……どうしてこのようなことをなさるのですか……!?」
日増しに激しくなる折檻に、アネリアは怒りではなく悲しむような表情をした。そんな彼女が、カトリナにはさらに腹立たしかった。ルナを思わせるその表情に、さらに怒りをぶつける。
「このわたくしに隠れて、ディーン様と逢瀬を重ねていたのでしょう? なんて厚かましい。あなた如きが、彼の方に懸想するなど……!」
「ご、誤解です……! 私は神に身を捧げた巫女、恋情など、どなたであっても向けるつもりはありません……!」
アネリアは何度もそう言った。だけどカトリナはその一切を聞き入れなかった。
だってルナだって、同じことを口にしていた。
『聖女だから』と恋心を押し殺し、そのくせ心の奥底ではディーンに想いを寄せていた。そのせいで、ディーンをひどく傷つけた。
(きっとアネリアも同じだわ。『聖職者だから』と恋心を隠して、そのくせディーン様の傍には居続ける。なんて汚らしいの……!)
そんな怒りの矛先は、やがてアネリアだけでは収まらなくなった。アネリアが大切にしていた温室も壊した。他ならぬ、ディーンの手によって。
ルナが与えたというその温室を聖剣が両断するのを見て、やっと胸がすいたような想いがした。あの女の残したものなど、一片たりともディーンの傍に残しておきたくなかった。
そのうちディーンにかけられた『呪い』のことがアネリアに知られ、彼女にも無実の罪を着せ、『魔女』として断罪した。
侍女をこの手で葬ることになっても、心など一つも痛まなかった。むしろ牢獄の中で打ちひしがれるアネリアの姿を見て、仄暗い悦びで胸が満たされた。
(ああ、これで——あの女の影一つ、ディーン様の隣から消え去ったわ)
心の底から、そう思った。
——だが、物語はそこで終わらなかった。
無実の罪を着せられ、『魔女』として断罪されたアネリア。だが皮肉にも、その死は彼女を本当の『魔女』へと変えてしまっていた。そしてその呪いが、カトリナへと降りかかったのである。
アネリアの育てていた花そっくりの白花が、カトリナのいく先々に現れては彼女を襲った。最初は難なく対処できていたそれは、日を追うごとに強大な『呪い』へと変わっていく。それに憎きあの女——魔女ルナの手が加わっていると気づいた時には、もう遅かった。
途方に暮れたカトリナは、ついにオーギュストへ助けを求める。だが彼は手を差し伸べるどころか、
「この女は『魔女』です。——捕らえなさい」
——そう命じ、ディーンにカトリナを拘束させた。
「了解した」
「待っ……! ちが、誤解ですディーンさ、ぐぅっ!」
口を挟む隙もなく、ディーンは命じられた通りにカトリナを石床へと引き倒した。命令に従うだけの機械のような暴力に激しい衝撃を受ける。
知っていたはずなのに。むしろ、自分もその一端に加担していたはずなのに。
それでも、自分だけは違うと思っていた。
彼の作られた正義が自分へ向けられる日が来るなど、考えたこともなかった。
「誤解です! ディーン様なら、信じてくださいますわよね!?」
自分を押さえつけるディーンに、カトリナはそう懇願する。だけどもディーンは、相変わらず感情のない声で言うだけだった。
「命令だ。捕縛する」
「————っ」
その冷たい声に、光を失った蒼い瞳に、カトリナはようやく気づいた。
今目の前にいるディーンは、自分が恋をしたあの少年とは違うのだと。
オーギュストによって——他ならぬ、自分によって。『呪い』に蝕まれ、心の奥深くに縛られてしまったのだから。
——でも、わざわざ花を荒らすような奴でもないだろ。
不意に、遠い昔の記憶が蘇った。
まだ少年だった頃のディーンが、カトリナに対し口にしたその言葉。太陽のような笑顔で、初めて笑いかけてくれたこと。
その全てを——自ら、壊してしまったのだと。
——かくしてカトリナは、地下牢の最奥、魔封じが施された特別な牢獄へと投獄される。
冷たいその檻の中で、カトリナを襲うのは美しい白の花だった。
「忌々しい……! 邪魔をするんじゃないわ! あなただって、あの男を許せないはずでしょう!?」
自分へ向かって伸びてくる蔦を引きちぎりながら、カトリナは叫ぶ。まるでアネリアそのもののような、愛らしい花。だけどその見た目とは裏腹に、その花々は牢獄に囚われたカトリナは容赦なく襲った。
「もう嫌……やめなさい……! ……来ないで。こっちへ、来ないで……!」
葉を手で振り払い、蔦を裸足で踏みつけ、それでも花は止まらない。魔封じの牢に囚われた今、その花を灰へ変えることももうできなかった。
——でも、わざわざ花を荒らすような奴でもないだろ。
美しい呪いに蝕まれながら、カトリナの胸にはその言葉が何度も繰り返されていた。
——やってないならいつもみたいに言い返せばいいだろ。普段はもっとしつこいくせに。
そんな失礼な言い様で続けられたその言葉。貴族らしからぬ、くしゃりと目尻を下げたその笑い方。
威厳の欠片もないそれに、だけどもカトリナの心がどれほど救われたことか。
(——ああ、だけどディーン様。わたくし、壊してしまったわ。あの、綺麗な花が咲いていた温室を)
遠い過去の記憶に、カトリナは自嘲の笑みを浮かべる。あの日笑いかけてくれたあの少年は、もうどこにもいない。
あの時のディーンが今の自分を見たら、いったいどう思うのだろう。どんな瞳で見るのだろう。あの温室を壊せと命じた自分のことを、どんなふうに。
最初から、自分は知ってた。ディーンに『呪い』をかけ、その心を縛ることを。
それでもオーギュストの手を取った。それほどまでに、あの女が憎かった。ああ、でも——
(あなたはもう、わたくしの恋したあなたではない。だけど、わたくしも今——あなたに笑いかけてもらった時のわたくしではないのね)
鋭い葉が肌を裂く痛みより、蔦に首を絞められる苦しさより、ただその事実がカトリナの胸を強く抉った。
ディーン様が好きだった。ただそれだけだった。
だから後悔など決してしない。ルナやアネリアを陥れたことだけは、絶対に。
たとえ過去へ戻れたとしても、自分はきっと同じ道を選ぶだろう。カトリナはずっと、自らが望んだままに生きてきたのだから。
だから、この胸にあるのは悔恨ではない。ただひたすらに燃え盛る、憎悪の炎だ。
——この全ての始まりは誰だった?
ディーンを縛り、ルナを陥れ、自分をここまで堕としたあの男。
全てを踏みつけてただ一人嗤う、あの男。
(————オーギュスト……!)
あの男に対する、憎悪の炎だけだ。
『——————てる』
(見ていなさい、オーギュスト。このわたくしを愚弄したこと、わたくしは、決して、決して……!)
全身を蔦に絡め取られながら、カトリナは憎々しげに胸中で呟く。
しゅるしゅると巻き付く緑は、なおも勢いを増していった。蔦は肌へ食い込み、鋭い葉は皮膚を裂き、滲んだ血を白い花弁に落としていた。『————してる』
やがてその細い蔦は、カトリナの白い首にも絡みつく。しゅるり、しゅるり。まるで彼女を愛おしむように巻き付きながら、『————愛してる』じわじわとその首を締め上げていった。
『————愛してる』その間にも牢獄は白い花で埋め尽くされていく。カトリナの足元に、頬に、流れる金の髪の上に、小さな花々が次々と咲く。
まるで亡骸へ手向けられる献花のように、『——愛してる。愛してる』花は美しく、そして冷たく咲き誇った。
「………………ディ……さ、ま……」
ぎり、と首を締め上げる蔦が、最後の声を奪う。掠れた呟きだけが冷たい牢獄へと落ちた。
——瞬間。
『 愛 し て る わ 』
愛の言葉が、カトリナの耳にだけ甘く囁くように落とされた。




