8.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑨
「——地方巡礼? 嫌よ。どうして聖女たるわたくしが、わざわざ田舎くんだりまで足を運ばなければならないの!?」
「し、しかしカトリナ様……! これは歴代聖女様も皆お務めになられた大切な聖務でして……」
「お黙りなさい! そんなもの、どこぞの巫女にでもやらせればいいでしょう。とにかく、わたくしは行きませんからね!」
「そ、そんな……!」
——王都、大神殿。その一角に設けられた聖女専用サロン。豪奢なその部屋に、甲高い怒声が響き渡った。
先代には存在しなかったその部屋は、聖女となったカトリナが自ら望み、大神殿へ新たに造らせたものだった。
『聖女』カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ——彼女がその座に就いてから、すでにしばらくの時が流れていた。
念願だった『聖女』となったというのに、カトリナは頑なに聖務を拒み、容赦なく侍女へ苛立ちをぶつけていた。
聖女としてこの神殿に居を移し、その地位に与えられた力を惜しみなく振るっても、カトリナの心は満たされることはなかった。こうして侍女に当たり散らすのも、一度や二度ではない。青ざめる侍女を気にも留めず、カトリナは苛立たしげに顔を背けた。
もちろん、最初からそうだったわけではない。
戴冠直後は民衆も新たな聖女を歓迎していたし、カトリナ自身もまた、その期待に応えようと精力的に聖務へ励んでいた。
『他者の聖力を見抜く』という彼女の力は、神殿の内では非常に重宝された。神官や巫女の配置を決めるのも、異端者を裁くのも、カトリナにしかできない役目だった。
何より、『魔女』ルナ・ルクスを告発した功労者として、彼女を英雄のように称える者も少なくなかった。
とりわけ、ルナによって長きにわたり血を搾取されていた——もちろん、それすらオーギュストが仕組んだ虚構だったのだが——神官や巫女たちは、カトリナへ惜しみない感謝と敬愛を向けた。
だが、祈祷や巡礼を重ねるに連れ、歯車はどんどん狂っていった。
カトリナの持つ聖力は、民衆が『聖女』に対し期待するものではなかった。
地方を巡っても、今までのような『奇跡』など起こせない。ルナが自ら自ら始めた民の願いを聞き届ける儀式も、代替わりと共に途絶えていた。
やがて市井からは、不満の声が漏れるようになっていった。
「地方を巡るだけ巡って、何の成果もないじゃないか」
「前の聖女様なら、あの子の病も治してくださったのに」
「あれで本当に『聖女』なのか?」
その声は最初こそ小さなものだった。けれど、民の噂など広がり始めれば止まらない。
いつしか人々はカトリナをこう呼ぶようになった——『偽りの聖女』、と。
「お気になさらないでください、カトリナ様。カトリナ様にしかできないことも、必ずございます」
侍女アネリアなどは幾度となくそう言ってくれたが、そんな言葉など何一つ慰めにはならない。
夢にまで見た『聖女』という地位。この手を罪に染めてまであの女から奪い取ったというのに、聖務のたびにルナと比較され、いつしかカトリナはそれを放棄するようになっていった。
それだけではない。ディーンのことだ。
カトリナがこれほどまでに聖女の座に執着したのは、愛するディーンの隣に立ちたいという、ただそれだけの想いからだった。
『勇者』と肩を並べる『聖女』になれば、彼はきっと自分を見てくれる。ルナに向けていたように対等に言葉を交わし、あの柔らかな笑みを見せてくれる。
いやむしろ自分なら、ルナよりもっとうまくやれる。あの女のように彼を傷つけたりはしないと、そう思っていた。
だが現実はそううまくはいかなかった。
『呪い』によって心を縛られたディーンは、オーギュストの命に従い、勇者として各地を飛び回る日々を送っていた。『勇者』としては理想的な働きだが、その代償として大神殿へ戻る日は数えるほどしかない。たまに帰還したとしても、顔を合わせる機会さえほとんどなかった。
ようやく言葉を交わせたとしても、心をその奥底に封じられたディーンは、必要以上の会話をしようとしなかった。ルナのようにどころか、今まで自分としてきたような世間話すら、今は滅多にしない。あの日庭園で見せたようなあの笑顔も、二度と見ることはなかった。
最低限の返答だけを残し、またどこかへ去っていく。何も感じていないかのように、ただ己に課せられた責務を果たし続ける。まるで人形のようだった。
耐え切れなくなったカトリナは、何度もオーギュストへ詰め寄った。
「オーギュスト! あなた、いつまでディーン様の『呪い』を解かないつもりなの!?」
しかし返ってくるのは、決まって穏やかな笑みだけだ。
「君の地位が盤石になったら、ですよ」
「そんなことを言って、いつまで待たせるつもりなの!?」
「今、呪いを解いたところで彼は神殿へ反旗を翻すでしょう。彼の意志は私の力で弱められているだけで、失われたわけではありません。仮に今呪いを解いたとしても、その心はルナに奪われたままですよ」
「……っ!」
そして、最後に必ず付け加えられるその言葉に、カトリナいつも何も言えなくなるのだ。それは、カトリナ自身が一番理解していたことだったから。
——こんなはずじゃなかった。そう思う自分がいる。
だけど、こうするしかなかったと、そう言い聞かせる自分もいる。
二つの感情は何度も胸の中でぶつかり合い、その度に逃げ場のない苛立ちだけが積もっていった。
「……ねえ。カトリナ様、また地方巡礼を断ったそうよ」
「アネリア様も大変よね。いつも後始末ばかり」
「本当。聖女らしいことなんて何一つなさらないんですもの」
「さすが、『偽りの聖女』ね」
そんなカトリナの内心など、誰も知りはしない。誰にも聞き咎められていないと油断した下女たちの言葉が、容赦なく突き刺さる。
「——今、わたくしを嘲ったのはどなた!? 出ていらっしゃい!」
気づけば怒鳴り声を上げていた。
「か、カトリナ様……!」「申し訳ありませ……!」
青ざめる下女たちへ怒りのままに歩み寄り、その頬を強かに打つ。
乾いた音が廊下へ響いた。もう片方の頬も打つ。悲鳴が上がっても止まらなかった。
胸へ刺さった棘を引き抜くように、怒りを誰かへぶつけなければ、自分を保っていられなかった。
「カトリナ様! もう、おやめください!」
「——っうるさい!」
「きゃあっ!」
慌てて止めに入ったアネリアの声さえ癇に障り、彼女のことも平手で打った。
それでも胸に突き刺さった棘は抜けない。むしろ日毎月毎、より深く刺さっていくような心地さえした。
そのうち、誰に何を言われたわけでもないのに、苛立ちに任せ侍女たちを痛めつけるようになった。癇癪のように怒り、机の上の茶器を薙ぎ払いわざと床に落とすこともあった。
それでも心は満たされない。腹の奥で燻る怒りを、カトリナはどんどん留めておくことができなくなっていた。
そんな折だった。カトリナの耳に、とある噂が届いた。
「勇者様が最近、神殿の巫女と親しげらしいわよ」——そんな下世話な噂話だ。
カトリナは最初、それを「まさか」と思い取り合わなかった。
今のディーンは『呪い』によって心を縛られている。オーギュストの命に従い、ただ『正義』だけを執行する人形。そんな彼が誰かと親しくなるなど、そもそもがありえない話だった。
まして相手が巫女など。仮に『呪い』にかかる前だったとしても、高位貴族の血を引くディーンが自ら歩み寄る姿など想像もつかなかった。ルナのように、彼と肩を並べるだけの『特別』な存在ならまだしも。
(くだらない噂ね)
そう結論づけ、その場では忘れることにした。
だがその噂は、いつまで経っても収束しない。たかが噂とはいえ、想い人と誰かが噂になるのは嬉しいことではない。カトリナはついに、その噂を確かめに行くことに決めた。
大神殿の裏手。木々に隠れるように建てられたその小さな温室へ、カトリナは誰にも気づかれぬよう足を運んだ。
硝子越しに見える人影、それはたしかにディーンであった。そしてその向こう側に、巫女服を纏った誰かが彼と向き合っている。
ディーンが、自分の知らないところで誰かと会っている。それだけで、カトリナには平常心ではいられないほどの衝撃だった。
だが、それだけでは終わらない。
向かい合う巫女服姿の誰かが、小さく微笑みながら包みを差し出す。ディーンはそれを静かに受け取った。
——瞬間。
ディーンの表情がわずかに緩むのを、カトリナを見た。
「——…っ」
息を呑んだ。
本当に、ほんのわずかだけ。注意して見つめていなければ気づかないほどの、小さな変化。
だけどもカトリナはたしかにそれを見た。
見間違いなどではない。それがどれだけ小さなものでも、この自分が、ディーンに関するものを見逃すわけがなかった。
なぜ? どうして?
疑問符がカトリナの頭に浮かんでは消えた。『呪い』によって心を縛られたディーンが、微笑みを浮かべるなど信じられなかったのだ。
あの笑みを、カトリナは知っている。あれは——
かつてルナへ向けていた、あの穏やかな微笑みだった。
鼓動が大きく跳ねる。震える視線で、その巫女の横顔を見つめた。
そして——その姿を認めた瞬間、全身から血の気が引いた。
「……アネリア?」
それは、毎日自分の傍に仕える侍女——アネリアだった。




