7.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑧
「……珍しいですね、君がこんなところに来るなんて。何か用かい?」
静かな執務室に、穏やかな声が響いた。
大杖を抱え窓の外を眺めていたオーギュストは、静かな微笑みを浮かべカトリナを迎え入れた。
その問いに答えることなく、カトリナはためらいもなく室内へ足を踏み入れる。執務机の前まで歩み寄ると、扇子で口元を隠し、くすくすと喉を鳴らした。
「用だなんて、たいしたことではないわ。ただ、少し、聞きたいことがございますの」
「聞きたいこと?」
「ええ。一つは、今代聖女について。もう一つは——あなたのその、大杖について」
「……ほう?」
わざとらしく含みを持たせるカトリナに、オーギュストは片眉を上げた。
穏やかな笑みは崩さず、視線だけ冷たく彼女を見下ろす。そんな彼に、カトリナはいっそ愉快そうに笑みを深めた。
「ねえ、おじ様——その程度で、わたくしの『瞳』を誤魔化せるとお思い?」
「……」
そう言うと、耳元へ流れた金髪を指先で払った。さらりと揺れた髪の奥から、紫の瞳が妖しく光る。
その視線を真正面から受け、オーギュストは笑みを浮かべたまま目を細めた。
カトリナの聖力は、『他者の聖力を見抜く』というもの。
人の纏う聖力は、彼女の瞳には光となって映る。その強さも質も、その聖なる力が『魔』へと穢れ『呪い』へ変質してしまった時でさえも。彼女には何一つ隠すことはできない。
だから、今もわかっている。
今、オーギュストの全身を包むその力は、本来あるべき神々しい輝きではない。
底なし沼のように黒く澱み、静かに蠢く——『呪い』そのものだった。
「……いつから、などと問うのは愚問ですね。君のその力を誤魔化そうなどと、最初から思ってはいませんでした」
静寂を破ったのは、オーギュストだった。
ぽそりと落とされた言葉に、カトリナは口元だけで笑う。
「あら、ずいぶん余裕ですこと。わたくし、その気になれば今すぐあなたを糾弾することだってできるのよ?」
「君はしませんよ。それをしても、君の利にはならない。むしろ——利用できると思ったからこそ、ここへ来たのでしょう?」
「……お見通し、というわけね」
動揺もせず答えるオーギュストに、カトリナは思わず肩を竦める。カトリナがこうして訪ねてくることも、彼にとっては想定内だったのかもしれない。
以前から関わりのあったオーギュストの聖力が、いつしか『呪い』へと変質していることには、とっくの昔から気づいていた。
大神官という、神殿でも指折りの地位にありながら『魔』へ堕ちるなど、本来なら許されざる大罪。しかしカトリナは、それを告発しようとは思わなかった。
興味がなかったからだ。神殿の内部に『魔』へ堕ちた者がいようと、オーギュストが裏でどんな悪事を働こうと、自分には関係のない話だった。
——だが、利用できるなら話は別だ。
カトリナは扇子を閉じ、真っ直ぐにオーギュストを見据えた。
「なら、単刀直入に申し上げるわ。あの女——ルナ・ルクスを、聖女の座から退かせたいのです。協力なさい」
一歩、机へ身を乗り出し、カトリナは宣う。
尊大に言い放たれた言葉に、オーギュストは困ったように肩を竦めた。
「それはまた、穏やかではありませんね」
「あなたなら、どうとでもできるでしょう」
「そう簡単にはいきませんよ。聖女がいなくなれば、またその座は空席になる」
「なら、その席にはわたくしが就くわ。元より、ディーン様の隣を諦めた覚えはありませんもの」
迷いなく言い切るカトリナに、藍の瞳が探るように向けられた。
「……本気なのですか?」
カトリナは無言で頷いた。
その瞳に宿る執念を見たのだろう、オーギュストは何かを考え込むように静かに目を伏せた。
執務室に沈黙が落ちる。
カトリナは急かさなかった。協力しないなら『呪い』について暴露すると脅してもよかったが、そうまでせずとも断られるなんて微塵も思っていなかった。
聖なる力すら呪いへ染め上げたこの男が、あの正義の権化のような女を、そのまま放置するはずがない。
きっと彼となら、利害が一致する。そう信じていたのだ。
「……私にも、考えがないわけではありません」
やがて、オーギュストはそう低く声を落とした。
その言葉に、カトリナは顔を上げる。
「たしかに最近のあの子は、少々手に余る存在になってきました。代わりとなる聖女がいるのなら……話は、ずいぶん簡単になるかもしれません」
「なるわ! わたくしなら、あんな女よりずっと、ディーン様の隣にふさわしい働きができるもの!」
「……そうでしょうね」
食い気味に言葉を重ねるカトリナに、オーギュストは穏やかに微笑んだ。
静かに続ける。
「あなたの協力があるのなら——ディーンをこちらへ引き寄せることも、難しくはありません」
そう言うと、大杖を静かに抱え直す。その宝玉の奥で、黒い靄がゆっくりと脈打った。
オーギュストはカトリナを向き直ると、ゆったりとした仕草で手を差し出した。
「ならば、カトリナ。私とあなたは、今日から共犯者です」
黒い靄が、宝玉から静かに溢れ出す。
それを紫の瞳で認めながら、カトリナは妖しく笑った。
「——ええ。望むところですわ」
*
その日を境に、カトリナはオーギュストと頻繁に密会するようになった。
驚いたことに、彼はすでにルナを聖女の座から引き摺り下ろすための布石を幾つも打っていた。
たとえば疫病の折、彼女が巡礼に用いた名簿。有力者から贈られた数々の献上品。王都で密かに囁かれ始めていた『聖女』への悪評。その多くが、オーギュストの手によって用意され、あるいは意図的に流されたものだと、カトリナはこの時初めて知った。
だが、それだけでは足りない。
聖女ルナ・ルクスの『奇跡』は、あまりにも大きい。その力に救われ、『聖女』としてではなく彼女個人を慕う者は神殿の内外に数え切れないほどいた。偽りの証拠だけでは傷を負わせることはできても、その座から完全に追い落とすことは難しいだろう。
だからこそ、カトリナもまた手を貸した。
ブランシェ家の影響力を用いて貴族たちへ働きかけ、神殿内ではルナを支持する者たちを少しずつ切り崩していく。侍女アネリアへ近づき、甘い言葉を囁き、僅かな綻びを広げていく。
気づけば自分の手もまた、深い泥に沈んでいた。それでも構わなかった。
ただ一つ、ディーンに『呪い』をかけるつもりだと聞かされた時は、さすがに驚き激しく衝突した。
「そんなことまで必要なの!? 嫌よ、ディーン様まで巻き込むだなんて……!」
「必要でしょう。そうでもしなければ、あれは最後までルナを守ろうとする」
「それは……そうだけれど……!」
珍しく声を荒げるカトリナへ、オーギュストは静かに首を振る。
返す言葉に詰まった。
オーギュストの言う通り、ルナを罠に嵌めようとする行為を、ディーンが黙って許すなど思えなかった。たとえ今は距離が離れてしまったとしても、誰よりもルナを信じ、誰よりも彼女を守ろうとする男だ。その姿を、カトリナも嫌というほど見てきた。
「ご安心ください。あなたが聖女となれば、『呪い』は必ず解きますから」
そしてオーギュストは、最後に穏やかな笑みでそう言った。
その一言だけが、カトリナを繋ぎ止めた。
たとえルナから聖女の座を奪えたとして、その隣にディーンがいないのなら意味がない。そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
——かくしてルナ・ルクスは『魔女』として告発され、処刑されることとなる。
その命を奪われて尚、最後までこの神殿に楯突くような最期だったらしいが、今となってはもう過ぎた話だ。
魔女ルナの告発の一端を担った功績もあり、カトリナは次代聖女として推挙される。
もちろん、その裏にはオーギュストの後押しがあった。だが、この時のカトリナにとって、そんなことはどうでもよかった。
何を利用しても、誰を犠牲にしても、あの女からこの場所を奪いたかった。これでディーンの隣は自分のものだと、心から喜んだ。
自分専用に誂えわせた豪奢な法衣に身を包み、『聖女』の冠を頭上へ戴く。
『勇者』ディーンと並び、民衆の前に立った時。
言いようのない高揚と幸福感に見舞われた。
祝福の鐘と民衆の喝采に包まれながら、「ようやく、ここまで来た」と涙まで流れた。
それは、夢にまで見た光景だった。
自分のした行為は、全て正しかったのだと思った。これで全てが手に入ったと。ルナを犠牲にしてでも、手に入れた価値があったと。すべては、この瞬間へ辿り着くためだったのだと。
これから本当の人生が始まるのだと思った。幼い頃から夢見続けた、ディーンの隣を歩く人生が。
——たとえ、その隣に立つディーンが、
『呪い』によって心を奪われ、人形のように何一つ表情を動かさなくなっていたとしても。




