6.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑦
それからも、ルナとディーンは少しずつ距離を縮めていった。大神殿へ足を運ぶ機会の限られているカトリナにさえ、それが分かるほどに。
勇者と聖女。互いに類稀なる力を持ち、同じ高さに立つ者として言葉を交わし、支え合う。同じ使命を背負う者同士の信頼が、二人の間にはあった。
けれど、いつしかそこには、それまでとは違う色が滲み始めていた。
ふとした瞬間に重なる視線。互いの姿を見つけた時、無意識に緩む表情。
明確な言葉などなくとも、カトリナには分かってしまった。ディーンがルナへ向ける感情も、ルナがそれに応えつつあることも。
もちろん、嫉妬しなかったわけではない。
二人が並んでいる姿を見るたび、胸の奥には鈍い痛みが走った。自分がどれほど焦がれても手に入らなかった笑顔を、ルナはあまりにも自然に引き出している。その事実を思えば、今でも悔しさに歯を食いしばりたくなる。
けれど同時に、カトリナはどこかで納得してもいた。
きっといつかこうなるのだろうと、心のどこかで思っていた。ディーンがルナに向ける笑顔を、初めて見たあの日から。ディーンが求めていたものをルナは持っているのだと、一度は認めてしまったから。
だからカトリナは、二人の関係を完全に受け入れたわけではないにせよ、少なくとも否定することはしなかった。
——そんな二人の間に変化が訪れたのは、それからしばらく経った頃だった。
いつからか、ルナはディーンを避けるようになった。
以前ならば顔を合わせるたび自然に言葉を交わしていたというのに、今では必要最低限の受け答えしかせず、彼が近づけば露骨に距離を取る。
ディーンの方も何度か話しかけようとしていたが、そのたびにルナは聖務を理由に立ち去ってしまった。
あれほど近しかった二人の間に、目に見えない壁ができていた。
(……あの噂のせいかしら)
カトリナには、思い当たることがあった。
少し前から、王都では勇者と聖女にまつわる噂が広がっていたのだ。
——今代の勇者と聖女は、互いに想い合っている。
——神へ身を捧げるべき者たちが私情に溺れたため、国は災禍に見舞われた。
——近頃流行している疫病も、神の怒りに違いない。
そんな根拠もない言葉が、市井ではさも真実であるかのように囁かれている。
勇者も聖女も、神に仕える聖職者。配偶者を持つことは許されず、個人的な情よりも国と民への献身を優先することを求められる。
その二人が恋愛関係にあるとなれば、神殿の威信に傷がつく。実際、神殿へ向けられる批判も日に日に強まっていると聞いていた。
(だからあの女は、ディーン様から距離を取っているというの……?)
自らの立場を守るためか、ディーンの名誉を傷つけないためか。あるいは、神殿からそう命じられたのか。
理由までは分からない。けれど、二人の間に生まれた不自然な隔たりが、あの噂と無関係だとはカトリナには思えなかった。
それだけなら、まだよかった。
一度は敗北を認めたとはいえ、ルナは恋敵に違いない。二人の関係が終わるというのなら、それはカトリナにとって願ってもないことのはずだった。
けれどもカトリナの胸は晴れない。
理由は明白だった。ディーンが、目に見えて落ち込んでいたからだ。
カトリナがいつものように大神殿を訪れた、ある日のこと。
遠く廊下の向こうにディーンの姿と、その少し先を歩くルナの姿を見つけた。
何やら言葉を交わす二人を見て、カトリナは思わず足を止める。
何かを話しかけるディーンに、けれどもルナはその言葉を遮るように小さく首を振った。
「……ごめんなさい。私、急いでいるから」
「おい、ルナ——!」
それだけを告げると、視線すら合わせないままディーンの横を通り過ぎていく。
ディーンはその背に向かって名前を呼びかけながらも、追いかけることはしなかった。ただ立ち尽くしたまま、去っていく黒髪を見送る。そして、
「……」
伸ばしかけた手を、その場で握り込む。
その横顔に浮かんだ表情を見て、カトリナは息を呑んだ。
——それは、初めて見る表情だった。
グッと奥歯を噛み締め、眉を顰める。空色の瞳は僅かに揺れ、そっと伏せられた。
傷ついたような顔だった。
いつも不遜で他人のことなど気にしない男が、たった一人の言葉でここまで寂しげな表情を見せる。
目の当たりにした現実が、信じられなかった。
胸がぎりと痛む。同時に言い様のない感情が込み上げてきた。
それは、以前ルナへ向けられた笑顔を見た時とはまた違うものだった。
ディーンを——自分の愛する人を傷つけたことへの、純然たる怒りだった。
(どうして……どうしてそんなことができるのよ……!?)
民衆の噂がなんだというのだ。聖女の立場が、神殿の威信がなんだと。
大切なのはディーンの心、それだけだろうに。
なのに、あの女は。
たかが噂一つで、彼を傷つけた。
ディーンをあんなふうに笑わせることができるのは、この世でルナただ一人なのに。あんなふうに傷つけることができるのも、またルナただ一人なのに。
それが、カトリナには許せなかった。
*
「——最近、ディーン様を避けていますわね」
祈祷の間へと続く長い回廊。その場所をとぼとぼと歩く黒髪の少女へ、カトリナは声をかけた。
その声にルナは、一度びくりと肩を揺らし、そしてゆっくりとした仕草で振り返る。
「……カトリナ様」
そして、どこか疲れたような声色でカトリナの名を呼んだ。
この日、カトリナは初めて、ディーンではなくルナに会うためだけに大神殿を訪れていた。どうしてもこの女に、一言言ってやらないと気が済まなかったからだ。
自分を真っ直ぐ見つめる紫の瞳に、ルナは無意識に目を逸らしながら答えた。
「そんなこと、ありません。ただ……最近はお互いに聖務が立て込んでいて。以前ほど顔を合わせる機会がないだけで」
——嘘ね。
小さく笑みを作って答えるルナに、カトリナは一目でそう悟った。
言葉を選ぶように間を置いたその話し方に、ルナもまた傷ついているということに。
「……莫迦げた噂に踊らされるなんて、本当に愚かな女ですこと」
だけどその事実を理解した瞬間、カトリナの胸に込み上げたのはさらに強い苛立ちだった。
ぴしゃりと言い放つカトリナに、ルナは目を逸らしたまま指先を震わせる。
「そんなにも、『聖女』として称賛され続けることが大事なの?」
「そんなこと……っ!」
そこでやっとルナは、弾かれたように顔を上げた。
「私は、ただ……必要なことをしているだけです」
「必要? これが、必要なことですって……!?」
「……」
それでも尚誤魔化すように続けるルナに、思わず声が鋭くなる。
ディーンを振り回すことの——傷つけることの、何が必要だというのか。カトリナには全く理解できなかった。
怒りに震えるカトリナを、ルナは押し黙ったまま受け止める。その態度が、カトリナにはたまらなく腹立たしかった。
(貴女に、そんな顔をする権利などないわ……!)
ついに堪え切れなくなったカトリナは、一歩踏み出し振り絞るような声で叫んだ。
「——貴女、ディーン様のことが好きなんでしょう。どうしてそんな態度を取るの」
その一言に、ルナは大きく目を瞠った。
その姿を見て、カトリナは心の中で冷たく吐き捨てる。
(どこまでも、愚かしい女……)
ルナは今の今まで、カトリナに自分の恋心が見抜かれていただなんて思いもしていなかっただろう。きっと誰にも隠していた想いだった。それが尚腹立たしかった。
「好きだなんて、そんな……」
「そんな誤魔化しがわたくしに通じるとでも? 貴女の所為なのでしょう、ディーン様の憔悴したあのお姿……見ていられないわ」
「……」
苦しげに否定しようとするルナへ、カトリナは容赦なく言葉を重ねる。
言葉を吐きながら、カトリナはふと自分でも莫迦らしい気持ちに駆られた。
(何をしているのかしら、わたくしは)
こんなもの、敵に塩を送るようなものだ。このまま放っておけばいいではないか。二人の関係が壊れるのなら、自分にとってこれ以上都合のいいことはない。
それなのに、わざわざその間に割って入り、仲を取り持とうとするだなんて。本当に莫迦らしい。そんなこと、カトリナとてとうにわかっていた。
でも——
思い出すのは、ルナを見つめて柔らかく笑ったディーンの顔だった。
そして、去っていくルナの背中を寂しそうに見送る横顔。
どれもこれも、目の前のこの女にしか引き出せない表情。
自分では、決してさせることのできない表情。
それを思えば、言葉はもう止まってなどくれなかった。
だけどそんなカトリナに、返ってきた答えはあまりにも冷たいものだった。
「……私は、聖女として正しい行動をしているだけです」
「——っ!」
唇を噛み締めるようにして、告げられたその言葉。
それだけで充分だった。カトリナは全て理解した。
何を言っても、この女は変わらない。きっとこれからもディーンへの想いを隠し続け、そして彼を傷つけ続けるのだ。
ただ、『聖女』であることを選び続けるのだ。
(どうして……!)
胸の奥から、煮えたぎるような感情が噴き上がる。
ディーンへの恋心を、諦めたわけではなかった。
彼の隣に立ちたい。その笑顔を引き出せる存在になりたい。
そう願って、どれだけ足掻いてきただろう。今でも強い気持ちで、そう思い続けている。
なのに、どうしてこの女はそれをいとも簡単に捨てられるのか。自分がどれほど欲しても得られないものを、最初から持っているのに。
ディーン様が唯一心を許した相手。
唯一、対等に笑い合える相手。
唯一、彼を叱り、彼に叱られ、それでも隣に立ち続けられる相手。
それなのに、なぜ自分から手放すのか。どうして自ら遠ざかろうとするのk。
自分にはできないことを、この女ならできるのに。
怒りと、失望と、どうしようもない嫉妬が胸の中で渦を巻く。
いくばくかの沈黙の末、カトリナは吐き捨てるように言った。
「——貴女にとって、そんな容易に捨てられるものだったのね。彼の方の『隣』は」
——それだけ言い捨てると、カトリナは踵を返し、そのまま回廊を大股で歩き出した。
返事は聞かなかった。何と言われてもこの失望は変わることはなかったし、何よりルナも何も答えられなかっただろうから。
石床を踏み鳴らす足音が、静かな大神殿へ響く。その音だけを聞きながら、胸の内では怒りがなおも燃え続けていた。
身を焦がす嫉妬は、その後も燻り続ける。
屋敷へ戻り、侍女に最高級の紅茶を淹れさせても。偶然ディーンと顔を合わせても。胸を焼く熱は少しも収まらなかった。
むしろ日を追うごとに膨れ上がり、いつしか全身を燃やすような憎悪へと姿を変えていた。
胸の奥で、何度も声が響く。
(貴女だけなのに。ディーン様をあんなふうに笑わせられるのは、憎らしいあの女だけなのに……!)
それがどれだけ貴重なことか、あの女だけがわかっていない。それがどうしようもなく憎かった。
憎い、憎い、憎い。
それでもあの女が、その価値を投げ捨てるというのなら。
それなら。それなら、わたくしが——
(……わたくしが?)
瞬間。一つの考えが、雷のように脳裏を貫いた。
そうだ、奪えばいいのだ。
あの女がいらないというのなら。あの女が、自ら捨てるというのなら。
今度こそ、わたくしがその場所へ立てばいい。諦める理由など、もはやどこにもありはしない。
その考えは、驚くほど自然に胸へ落ちた。
あの女があの場所にいる限り、ディーンは心に傷を負う。それなら——
——気づけばカトリナの足は、とある場所へと向かっていた。
大神殿、中央棟。
一定以上の地位を持つ者たちの、執務室が並ぶその場所へ。
静かな廊下のその一角、一枚の重厚な扉の前で立ち止まる。
そして、コンコン、と控えめに扉を叩いた。
ブランシェ家の傍流にして自身の遠縁、大神官オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード。その、執務室の扉を。
「……入りなさい」
「——お久しぶりですわね、オーギュストおじ様」
低く落ち着いた声を合図に、カトリナはゆっくりと扉を押し開く。
そんな彼女を、オーギュストはどこか怪訝そうな表情で迎え入れた。
その手に握られた大杖からは——
黒々とした靄が立ち込め、静かに執務室を満たしていた。




