4.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑤
庭を荒らした犯人は、後日、近隣から迷い込んだ猟犬だったと判明した。けれどカトリナにとって、そんなことはもはやどうでもよかった。
あの日以来、ディーンの言葉が頭から離れなかった。
その空色の瞳を見るたびに胸がときめいて、今まで以上に彼に会える日を待ち焦がれた。恋を自覚するのにそう時間はかからなかった。
カトリナは、ディーンとの縁談を進めることを今まで以上に強く父にねだった。しかし、話は相変わらず遅々として進まない。両家共に様々な思惑があるのだろう。そのことに痺れを切らしかけた、その矢先のことだった。
「ディーン様が、『勇者』に選ばれたですって……!?
——ブランシェ家、当主執務室。
そこで父から告げられた言葉に、カトリナは声を荒げた。
「ああ。以前から選定は受けていたのだが、このたび正式に認められたそうだ」
「そんな……!」
「来春から神殿で暮らすことになるらしい。戴冠式には当家は揃って参列する、準備は怠るなよ」
父はそれだけ告げると、話は終わりだと言わんばかりに書類へ視線を戻した。
ショックを受け固まっていたカトリナは、ハッとして食い下がる。
「ま、待ってくださいまし! そ、それでは……っわたくしたちの、縁談は……!?」
カトリナがここまで狼狽える理由は、これだった。
この国で、『勇者』とは聖職者。配偶者を持つことは許されない。
ディーンが『勇者』として戴冠するというのなら、まさか——
「それならもちろん、白紙になった」
焦ったように声を上げるカトリナに、だけども父は淡々と告げる。
「そんな、簡単に……! 貴族同士の、縁談ですのよ!? 破談なんて、あっさりと決められるものでは……!」
「破談ではなく、白紙だ。言ってあっただろう、あくまで候補、決定事項ではないと」
「そんなの、言葉の綾ですわ! 一方的に縁談を打ち切るなど、ブランシェ家を蔑ろにしています!」
なんでもないように言ってのける父に、カトリナは納得いかず詰め寄る。
そんな彼女に多少眉を寄せながらも、父は言葉を返した。
「……蔑ろなど。ヴァレンティス家が望んでいたのは、彼の才に見合う地位を与えることだ。君との婚姻が成れば、兄たちを差し置いて後継に据える理由にもなった。だが今や、彼は『勇者』となった。縁談を進める必要がなくなっただけのことだ」
「え……?」
「我が家門は神殿とも縁深い。彼が『勇者』となるのなら、それも我が家にとっては利となる。私としては、どちらでも構わない」
初めて聞いた縁談の裏事情に、カトリナは激しいショックを受ける。
どちらでも構わない? そんな話、自分は何一つ聞いていない。
自分の縁談だというのに。自分と、他でもないディーンとの間のことだというのに。
父にも、ディーンにも。何も、聞かされていなかった。
カトリナは愕然とした。
このままいけば、自分はディーンと結ばれるのだと思っていた。どれだけすげない態度を取られても、それだけは変わらないのだと。
それがただの夢だったことに、カトリナは絶望した。
自覚したばかりの恋が、こんなに簡単に破れてしまうなんて。
言いようのない悔しさが、胸の奥から込み上げる。
しばし俯き、片手に持っていた扇子を握りしめたあと——
「……ならば、わたくしは『聖女』になりますわ」
低く声音を落とした声で、そう言った。
「……何を、言っているんだ? 聖職など、今まで興味も示さなかったではないか」
「ええ。でも、気が変わりましたの。ディーン様が『勇者』になるのなら、『聖女』の座に相応しいのは、わたくし以外にいないではありませんか!」
高らかに宣言するカトリナに、父は困ったように額を押さえた。どう説得すべきか迷っているのだろう。
父の中の迷いを読み取って、カトリナは駄目押しするように言い募った。
「それに、このわたくしが『聖女』として擁立されるのは、我が家門への利となるでしょう!?」
——こうしてカトリナは、自ら聖女候補として名乗りを上げた。
『勇者』となったディーンの『隣』に立つ、ただそれだけのために。
本来なら、妻としてその『隣』に立つはずだった。だが彼がその道を捨てたというのなら、別の形で追いつくしかない。
カトリナは元より高い聖力の持ち主だ。高位の巫女として神殿へ入るよう、以前から何度も誘われていた。ディーンとの婚姻を望んで断り続けてきたが、今や拒む理由はない。それどころか、ブランシェ家の令嬢である自分が望むのだ。聖女への道も、容易に開けるはずだと信じていた。
だがその夢は、あっけなく破れる。
「……申し訳ないが、君を『聖女』として推すことはできません」
オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード。
ブランシェ家の傍流である彼は、幼い頃からその貴族籍を捨て、神殿へと入った者であった。
『聖女』という位を目指すカトリナは、高位神官である彼に口添えを頼んだ。
しかし、返ってきたのは明確な拒絶だった。
「ど、どうして!? 前は、わたくしの聖力を評価してくださったじゃない! 神殿に入らないかと誘ってくれたのも、あなたでしょう!?」
「それは巫女として、です。他者の聖力を見抜く貴女の力は、神殿にとっては非常に価値がある。その強さも、歴代聖女たちと比べて申し分ありません」
「なら……!」
「しかし、『聖女』となると話は変わります。民が聖女に望むのは、病を癒し、飢えた土地を潤し、災いを退ける力。貴女の力は、民にとって恩恵が見えにくいのです」
「……っ!」
諭すように言われ、カトリナは言葉に詰まった。
自分の聖力は、決して凡庸なものではない。その自負はある。だが、『聖女』として求められるものじゃと言われれば、自分でも首を縦に振ることはできなかった。
「巫女としてなら、私たちはいつだって貴女を歓迎します。もちろん、それ相応の地位を与えることになるでしょう」
「それじゃあ、意味ないわ。わたくしは、わたくしが欲しいのは……」
「それでも『聖女』の座に着きたいというのなら、民が納得する功績がなければ難しいでしょう。その時は、私にもその手伝いをさせてください。今はまだ、『聖女』の座は空いていますから」
「……」
気落ちするカトリナに、オーギュストは宥めるように言った。
カトリナは悔しさに歯を食いしばりながらも、ディーンのいる大神殿を後にする。
(わたくしでは、駄目だというの……?)
高くそびえる白亜の大神殿を見上げながら、カトリナは思う。
ディーンの隣にいたい。ただそれだけの願いが、ここまで遠いものだなんて思わなかった。
諦めてしまおうか。そんな諦念がふと胸をよぎる。
だけどすぐに首を左右に振った。こんな時にいつも思い出すのは、ディーンがいつか自分に放った言葉だった。
宝物のようなその言葉を反芻して、ディーンがいるであろう大神殿をもう一度見上げる。
(待っていて、ディーン様。わたくしは必ず、あなたの隣に辿り着くわ)
ディーンと同じ、『特別』なその場所へ——
誓いを胸に、その日から民の信頼を得る方法を必死に模索し始めた。歴代聖女の功績を調べ、家名でも権力でも、使えるものはなんでも利用した。
それは、血の滲むような努力だった。
しかし、彼女のそんな願いも、あっけなく散ることとなる。
ディーンが『勇者』として神殿に迎えられてから、数年後。
ルナ・ルクスが、新たな『聖女』として選ばれたのだ。




