5.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ⑥
——サンクティア王国、王都、大神殿。その大聖堂にはその日、多くの神殿関係者が集まっていた。
新たなる『聖女』ルナ・ルクスの、戴冠式である。
古くから神殿と縁深いブランシェ家からは、傍流を含む多くの一族が参列していた。
カトリナもまた当主である父の隣に控え、多くの貴族女性がそうするように豪奢な扇子でその表情を隠している。
(このわたくしを差し置いて、聖女だなんて……!)
唇を強く引き結び、紫の瞳で大祭壇を睨みつける。その眼差しには、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
新たな聖女が迎えられたと聞いたその日から、カトリナはずっとこの調子だった。
自分が望みながら退けられた聖女の座に、見知らぬ誰かが就く。あと少し時間さえあれば、そこに立つのは自分だったはずなのに。そう思うだけで、誇りを踏みにじられたような怒りが込み上げた。
そんなカトリナの耳に、声を潜めた囁きが不意に届いた。
「……知ってるか、新たに立つ聖女サマ、どうやら呪われた黒髪を持つらしいぞ」
——黒髪?
その言葉に、カトリナは思わず耳をそばだてた。
「黒髪? それで祈祷なんてできるのか?」
「さあな。神殿は強い聖力を持つと言っているらしいが」
「平民の出自なんだろう? 何かのコネで入り込んだのかもな」
「違いない」
ひそひそと交わされる、嘲りを含んだ会話。後方に控える下位神官や貴族たちの間から、同じような囁きが幾つも漏れていた。
突如現れ瞬く間に『聖女』の座に就いたその女を、面白く思わない者はカトリナ以外にもいたのだろう。周囲の囁きを聞くうち、張り詰めていた肩からわずかに力が抜けた。
黒髪の聖女だなんて、そんなもの聞いたこともない。
聖力の強さはその者の持つ髪色に現れる。光のように明るいほどその者の持つ聖力は強く、闇のように暗いほど低い。『黒髪の聖女』など、その髪色だけで程度など知れたものだ。
(まさか、神殿側が扱いやすいようにと、わざわざ聖力の乏しい者を選んだのではないでしょうね)
カトリナは、扇子の陰で意地悪げに口元を歪めた。
そうだ、自分が劣っていたのではない。神殿が、聖女に相応しくない者を選んだだけなのだと、そう思ったからだ。
「——静粛に。これより、聖女戴冠の儀を執り行う」
と、厳かな声がざわめきを割いた。
式の進行役なのだろう、高位神官の一人が前へと進み出る。場が静まったのを確認したのち、もう一度声を張り上げた。
「神に選ばれし者、ルナ・ルクス——御前へ」
言葉と同時、大聖堂の扉が開かれた。神殿の紋が大きく刻まれた、重厚な扉。
その奥から現れるだろう小娘を、品定めするようなつもりでカトリナは顔を上げる。
値踏みするようなカトリナの視線の先に、それは現れた。
目を見開いた。
紫の瞳が、その姿を捉える。純白の法衣。穢らわしい長い黒髪。
そして、彼女を包むのは——
——絶大な、『光』だった。
(どう、して……!?)
息を呑んだ。聖力など欠片もないはずの黒髪のその女から、ここにいる誰よりも一際強い光が放たれていた。
他者には見えない真白な光を纏い、『聖女』は大聖堂の中心を歩く。なぜ。どうして。誰にも届かない疑問符が、カトリナの脳裏をよぎっては消えた。
後光のようなそれは夜明けように静かに広がり、大聖堂の隅々まで満たしていく。あらゆるものを包み込む光。こんなの、まるで——
(まるで……ディーン様のような)
胸をよぎったその考えに、愕然とする。
何にも穢されない、圧倒的な『聖』。それは——かつてディーンを初めて見た日に、自分を震わせたものと同じ光だった。
心が震える。無意識に喉が鳴り、扇子を持つ手に思わず力が入った。
自分の胸を支配するその感情。それが、かつてディーンに抱いた『畏れ』と同じだと、カトリナは理解した。
理解したと同時、言いようのない怒りが込み上げた。
自分が行くはずだった場所に、突如現れた女。そんな女に、自分が畏れを抱いたという事実が——
何よりも、許せなかったのだ。
*
「相変わらず穢らわしい髪の色ね。そんな姿で、よく神の御許たるこの神殿を歩けるものだわ」
——大神殿の一角。
目に留まった白い法衣に、カトリナはわざと棘を滲ませた言葉をかける。
意地悪いその声に、長い黒髪の少女——ルナ・ルクスは、どこかうんざりした表情で振り返った。
「……こんにちは、カトリナ様」
「嫌だわ、『呪いの聖女』が、気安く話しかけないで頂戴」
「……」
自分から声をかけた癖にそう言い捨てるカトリナに、ルナはすんっと押し黙る。
その態度はカトリナにとっても慣れたものだった。彼女が聖女の座に就いてから、このようなやり取りはもう何度も繰り返していた。
以前からディーンに会うために頻繁に神殿を訪れていたカトリナは、ルナともすぐに親交を持った。
しかし、自分が欲しくってたまらなかった『聖女』の座をあっさりと奪っていったルナへの嫉妬が抑えられず、カトリナは彼女に顔を合わせるたびこうして冷たい態度を取り続けていた。
「随分と立派な聖力ですこと。祈る以外には、何がおできになりますの?」礼儀作法がまだ未熟なことをそう皮肉ることもあれば、
「お可愛らしい口調ね。どちらのご出身なの?」と、平民らしい言葉遣いが残ることを嘲ったりもした。
神殿のしきたりに疎いこと、貴族への接し方を知らないこと——カトリナはルナの欠点を探しては、見つけるたびに胸を撫で下ろした。常識の一つも知らない、下賤の女。いくら聖力が強くとも、やはり自分の方が聖女に相応しいと安心したのだ。
しかしルナは失敗を素直に認め、すぐ学び、周囲にも受け入れられていった。その『奇跡』としか言いようのない力もあいまって、彼女を聖女として認める声も次第に大きくなっていった。そしてそれが尚更、カトリナの心を逆立てるのだった。
また、カトリナの心を乱すものはそれだけではなかった。
「……お前ら、何やってんだ?」
「ディーン様!」
不意に投げかけられた声に、カトリナは弾かれたように振り返った。
大聖堂へ続く回廊の向こうから、白髪の青年が歩いてくる。王宮から戻ったばかりなのだろう。青いマントを肩に掛けたまま、どこか気怠そうにこちらを見ていた。
思いがけず会えたことに頬を緩めるカトリナとは対照的に、ルナは驚きもせず、親しい友人を迎えるような気安さで首を傾けた。
「あら、ディーン。今日は王宮に招集されていたのではなかった?」
「今、帰ってきたところだ。お前たちの声が聞こえたから寄った」
「そう。お疲れ様」
あまりにも自然なやり取りだった。
勇者に対する敬称も、畏まった態度もない。元は名もなき平民にすぎなかった少女が、ディーンを呼び捨てにし、さも当然のように言葉を交わしている。
(なんて馴れ馴れしい……!)
胸の内に苛立ちが込み上げる。
聖女に選ばれたからといって、ディーンと対等な関係になったとでも思っているのだろうか。思い上がった態度が腹立たしく、カトリナは二人の間へ一歩進み出た。
「そういえばディーン様、先の遠征では大層ご活躍だったそうですわね。大型の魔物を、たったお一人で討ち果たされたとか」
「ああ。まあな」
賞賛を受け、ディーンの口元がわずかに緩む。その様子に、カトリナは密かに胸を張った。
(ほら、ご覧なさい。わたくしは昔から、ディーン様がどれほど素晴らしい御方か知っているのよ)
ディーンとは幼い頃から親交を重ねてきた自分と、神殿へ入ったばかりのルナとでは、積み重ねてきた時間が違う。ルナよりも自分の方が、彼をよく理解している。彼が何を得意とし、何を誇りに思うのかも、自分の方が知っているのだ。
そう見せつけるように、カトリナは視線だけでルナを見やる。
だがルナは、どこか怒ったように眉を寄せディーンを見つめていた。
「カトリナ様、あまり褒めないでください。調子に乗りますから」
「何だよ、その言い方」
「聞いたわよ、ディーン。また騎士団長様の忠告を無視して、一人で敵陣へ突っ込んだのでしょう?」
ルナの言葉に、ディーンの表情から先ほどまでの得意げな色が消えた。
「……誰に聞いたんだ」
「騎士団長様ご本人よ。随分とお怒りだったわ」
「余計なことを……」
「これで何度目なの? 隊列を乱す者が一番危険を招くと、以前あなた自身が言っていたでしょう」
「俺一人でやった方が早かったんだ」
「やっぱり反省していないじゃない!」
ルナの語気が強まる。ディーンも露骨に眉を顰め、面倒そうに顔を背けた。
その姿を見て、カトリナの胸に密かな優越感が宿る。
(当然ですわ。ディーン様ほどの御方に、上から小言を言うだなんて)
ルナは何も分かっていない。
勇者たるディーンの強さを信じ、称え、その背を支えることこそが、隣に立つ者の役目ではないか。気分を害するような言葉を平然と投げつける者など、彼の傍には相応しくない。
やはり、ディーンの隣に立つべきなのは自分なのだ。
そう確信しかけた、その時だった。
「万が一、あなたが倒れたらどうするの」
ルナの声が、ふっと弱まった。
「私にはいつも、一人で無理をするなと言うくせに。自分だけは何をしてもいいなんて、そんなの不公平でしょう」
「……」
「あなたが怪我をして帰ってくるたび、心配する者がいることくらい、少しは考えて」
ディーンは黙ったまま、ルナを見つめていた。
先ほどまで浮かべていた不機嫌さは、いつの間にか消えている。気まずそうに視線を逸らし、やがて小さく息を吐いた。
「……悪かったよ」
カトリナは、耳を疑った。
「次からは気をつける。勝手に突っ込まない。それでいいだろ」
「うん。それでよろしい」
満足そうに、ルナが頷く。そんな彼女に、ディーンは呆れたような笑みをこぼす。
——それは、初めて見る表情だった。
雷のような衝撃に打たれた。
幼い頃から、不遜で、頑固で、他人の言葉になど決して耳を貸さなかった人。
父親に諭されても、騎士に叱責されても、意に介することなく我が道を進んできたディーンが、ルナの言葉だけは受け入れ、あろうことか、謝罪の言葉まで口にした。
目の当たりにした現実が信じられなかった。
「お前は俺の母親か」
「何度言っても同じことをするからでしょう」
そんなカトリナを意にも介さず、二人は軽口を叩き合う。
ルナへ向けられた空色の瞳は穏やかに細められ、その顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。
息を呑んだ。
それは、いつか庭園で、自分にただ一度だけ向けられた笑顔とそっくりだった。
(…………どう、して?)
穏やかなその笑みに、だけどもカトリナは世界がガクリと揺れるような心地がした。
胸の奥に大切に抱き続けてきたその表情を、ディーンは今、何の惜しみもなくルナへ向けている。自分には一度しか見せなかったあの笑顔。宝物のように胸にしまっていたその思い出。
(それを、その女には、何度も向けているというの——?)
その事実に、胸が鋭く抉られる。
烈火のような怒りが腹の底から湧いた。
そこにあるのは、守る者と守られる者の関係ではなかった。
互いに意見をぶつけ、互いの過ちを正し合う。同じ高さに立ち、同じ方向を見つめる。
対等な目線を交わし合う、同じ場所に立つ者同士の関係だった。
——負けた、と思った。
誰に言われたわけでもなく、ただ、その言葉が胸にすとんと落ちた。
気づいてしまったのだ。
ディーンが求めていたのは、自分を崇め、褒め称える相手ではない。
彼と並び立ち、臆することなく言葉を交わせる者。彼と同じほど強く、彼と同じほど『特別』な存在。
そしてそれは、
(わたくしでは、なかった)
自分は『特別』な人間だと、ずっとそう思い生きてきた。
家柄も、美貌も、聖力も、誰にも劣っていない。かつてはディーンの婚約者候補にも名前を挙げられ、あと少し時間さえあれば、『聖女』の座にだって手が届いたはずだった。ずっと、そう思っていた。
だけど——
思い出すのは、あの絶大な聖力。
自分を怯ませるほどの圧倒的な光。ディーンと同等の。ディーンがずっと、求めていた存在。
本当はきっと、初めてルナを見た時から気づいていた。自分は、自分が思うほど、『特別』な存在などではなかった。
少なくとも、ディーンのあの笑顔を引き出せるのは自分ではない。ディーンにとっての『特別』に、自分はなれなかったのだ。
——ディーン様のことが好きだった。ただそれだけだった。
だから彼に嫌われるようなことは、決して言いたくなかった。
だけど彼が求めるものは、そんなものではなかった。
あの女はきっと最初から、彼の求めるものを全て満たしていた。
二人の間に流れる穏やかな空気を前に、カトリナはただ一人、その輪の外へ取り残されていた。
認めたくないほどの嫉妬と、決して覆せないような敗北感だけが、胸の内に黒く沈んでいった。




