3.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ④
「ディーン様! 今度、わたくしの誕生パーティがありますの。もちろん、来てくださいますわよね?」
——ヴァレンティス邸、応接間。
ディーンに会いにやって来たカトリナは、彼と顔を合わせるや否や開口一番そう言った。
期待に溢れたキラキラと輝く瞳。しかし、対するディーンはというと、
「パーティ? 興味ないな。そういうのなら親父と兄貴が行くんじゃないか?」
初対面の時から変わらない、淡々とした態度でそう答えた。
二人の出会いからしばらくが経った。あれ以来カトリナはディーンをすっかり気に入り、ことあるごとに彼につきまとっていた。
初対面で抱いた畏れ、それはすぐに興味へと変わった。ディーンが自分と同じ『特別』な存在だと認めたからだ。
彼ならば、自分の隣に立つに相応しい。自分に興味を持つのが当然と、そう思ったのだ。
「そ、それでは意味がありませんわ! わたくしのエスコートは誰に……!」
「エスコート? そういうのは父親か婚約者の役目だろ。俺はどっちでもない」
「いずれそうなるかもしれないではありませんか!」
「俺はなるつもりはないけど」
「そんな……っ!」
だが、カトリナの内心とは裏腹に、二人の縁談はほとんど進んでいない。他でもないディーンが乗り気ではないのだ。
婚約そのものを嫌がっているのではない。兄たちを押し退け、爵位を継ぐことに関心がないのだ。少なくともカトリナにはそう見えていた。
そして自分たちの両親もまた、無理を通してまで進めたいわけでもないらしい。あの日の対面は、結局のところ、互いを引き合わせる以上の意味を持たなかった。
「そういう相手が欲しいんなら他を当たった方がいい。もういいか? 他に用事がないなら、俺は行くけど」
「……っ!」
ショックを受けたようなカトリナに、ディーンはすげなくそう返す。
正式な婚約者ではない以上、そう言われてしまえばそれ以上食い下がることもできなかった。
ディーンはいつだってこうだった。カトリナにも、自分の将来の話にも、ほとんど興味を示さない。
唯一狩猟だけは好み、騎士たちに混じり魔物の森へ向かう日には満面の笑みさえ見せるというが、令嬢であるカトリナが同行を許されるはずもなく、彼のそんな姿など見たこともなかった。
ディーンのそんな態度に、苛立つこともあった。
それでもカトリナはディーンを訪ねてヴァレンティス邸へ通い、自分の屋敷へも何度も彼を招いた。
なぜだろう、これほど無礼で、会うたび腹を立てさせられる相手なのに。もう会わなければいいとは、少しも思えなかった。
ディーンが自分の誘いに応じることは滅多にない。だけども、他の令嬢には屋敷の門すら開かない。自分だけは、こうして顔を合わせることを許されている。そう思えば、胸の奥の苛立ちは少しだけ和らいだ。
*
ある日のことだった。
その日は、ディーンが久方ぶりにカトリナの誘いに応じ、ブランシェ邸へと訪れる予定の日であった。
カトリナはこの日を何日も前から楽しみに、入念な準備を重ねていた。
侍女には彼好みの茶菓子を用意させ、庭師には普段よりも手厚い手入れを指示する。下男に命じて庭先のテラスを磨き上げさせ、少しでも埃が残っていれば容赦なく叱責を飛ばした。
「ディーン様にお越しいただくのですもの、少しの粗相もあってはならないわ!」
そう宣うカトリナに、使用人たちは薄らと苦笑いを浮かべる。貴族の子息とはいえ、子供同士の逢瀬にここまで、と、誰もが心のどこかで思っていた。
とはいえ、主人の命を違えるわけにもいかない。相手がカトリナであるなら尚更だ。万全の支度でもって、この日を迎えた。
問題が起こったのは、その早朝であった。
「——庭園が、荒らされている?」
侍女にそう告げられたとき、カトリナはまだ朝の支度の最中だった。
この日のために仕立てた深緑のドレス。軽く化粧を施し、豪奢な金の髪を高く結い上げている最中に、その報せは舞い込んできた。
「はい、昨夜見回りをした時には問題なかったようなのですが……庭師が朝の手入れに出たところ、薔薇園の一角が荒らされているのを発見したそうです」
「薔薇園!? よりにもよって、テラスから丸見えじゃない!」
屋敷の庭園が荒らされた——その報告に、カトリナは大いに憤った。
今回の茶会は、庭のテラスに設えた茶席にて行う予定だったのだ。そこから見える景色が荒らされた庭だなんて、客人に対してそんな無礼はできない。
カトリナは支度もそこそこに、庭園へと繰り出した。
それはひどい有様だった。
丹精込めて整えられていた花壇は見る影もなく、折れた花と抉られた土が無残に散らばっていた。
「なんてひどい……!」
あまりの様子に、カトリナは思わず声を漏らした。
彼女の後ろに控える使用人たちも、「なんてひどい」「誰の仕業だ?」などと口々に言葉を落とす。
こんな庭、ディーンになんて見せられたものではない。カトリナはぎゅっと唇を噛み締め、両の拳を握りしめた。
「……お嬢様。本日の茶会は、室内のサロンか応接室に変更いたしましょう。流石にこの庭をお客様にお見せするわけには行きません」
「冗談じゃないわ! 今日は早咲きの薔薇を見せて差し上げるって、ディーン様と約束しているのよ。それなのに……!」
「ですが、お客様がお見えになるまでにここを回復させるのは、いくらなんでも……」
「どうにかなさいよ! それがあなたたち使用人の仕事でしょう!?」
「そ、そんな……!」
苛立ちを抑えきれず、カトリナは侍女を怒鳴りつける。
癇癪だということは自分でもわかっていた。彼女の言うことが正論だということも。
だけど——
(せっかくディーン様が来て下さるのに。薔薇の一つも見せられないだなんて……!)
その事実が、どうしようもなく口惜しかった。この日を、どれだけ楽しみにしていたことか。それを、こんなふうに台無しにされてしまうなんて——
その悔しさを紛らわすように、さらに使用人たちへ怒号を飛ばす。
「だいたい、庭園が何者かに荒らされるなど、あなたたちは何をやっていたの!? 夜間の見回りは!? 手入れを怠っていたのではなくて!?」
「め、滅相もございません!」
憤り叫ぶカトリナに、庭師が狼狽えて否定する。屋敷の警備にあたっている私兵たちも、慌てたように首を横に振った。
カトリナとて、本気でそう思っているわけではない。おおかた迷い込んだ獣か何かが踏み荒らしたのだろう。ただ、このやり場のない憤りを、どこかにぶつけたかっただけだ。
カトリナのその声に、次第に庭には屋敷の使用人たちが続々と集まって来た。これだけの者がいて、誰一人庭先の異変に気づかなかったことにも腹が立つ。
ディーンは、薔薇が見れないことなど気にするような人間ではない。侍女の言う通り、サロンに場所を移し茶会の準備をするべきだ。
わかっていても、身体が動かなかった。思い通りにいかない悔しさに涙が滲んだ。
その時だった。
「……またお嬢様の癇癪か。この庭荒らしも、カトリナ様の仕業なんじゃないか?」
——小さく噂するような声が、カトリナの耳に届いた。
「さもありなん。この前も、出された紅茶が気に入らないって茶器を割ったんだろう?」
「最近庭師につらく当たっていたし、自作自演で追い込みたいんじゃないか?」
ひそひそ。こそこそ。
人だかりの中からそっと潜められた声が聞こえた。嘲るような声色、含み笑い。
使用人たちが気まずげにカトリナから目を逸らす。
言葉の意味を理解した瞬間、もうすでに声を張り上げていた。
「——今、わたくしの仕業だと言ったのはどなた!? 名乗り出なさい!」
ヒステリックな声が庭園に響いた。
しかし使用人たちは皆、気まずげに顔を見合わせるだけで誰もその問いに答えない。当然だろう、言う通り名乗り出ようものなら首の一つや二つ簡単に飛ばされてしまう。
そもそも秘密裏に交わす陰口のつもりだったのだろう、カトリナの耳に入るとすら思っていなかったはずだ。苛立ちで敏感になったカトリナの聴覚に、運悪く捕まってしまっただけで。
「臆病者! わたくしに文句があるのなら、直接言いなさいな!」
「カトリナ様、落ち着いてください……!」
「お黙りなさい! それともあなたも、わたくしが犯人だと疑っているの!?」
怒りに任せ、自分を宥め透かす侍女にさえも噛み付く。
「そんなわけがありません」と、その言葉を期待した。「カトリナ様がそんなことをするわけがありません」と、自分を慰めてくれるのを。
だが、
「ま、まさか……」
返って来た反応は、それとは全く違うものだった。
どこか言いにくそうに口ごもり、すっと逸らされた視線は足元へと落ちる。
まるで、カトリナの言葉が図星であったかのように。
(何よその反応……。まさか本当に、わたくしがこれをやったと思われているの!?)
思い至ったその結論に、カトリナは胸が冷えるような心地がした。
使用人たちに好かれていない自覚はある。先ほどの囁き声の言う通り、癇癪を起こして物を壊すなど日常茶飯事だ。だが——
「……何よ、その目は。わたくしが嘘をついているとでも言いたいの?」
「そ、そんなことはありません。カトリナ様が、このようなことをするだなんて……」
「ブランシェ家のご令嬢ともあろう御方が、草花を踏み潰すなど。考えすらしませんでした」
侍女に加勢するように、人垣から次々に否定の声が上がる。
だがその声色はどこか空々しく聞こえた。それぞれが浮かべた笑顔も、どうしてだろう、仮面を被ったように凝り固まって見える。心に抱いた疑念を、ひた隠しにするように。
(信じてもらえて、いない……?)
その反応に、カトリナは強いショックを受けた。
ここにいる誰一人、カトリナを心から信じるような目をしていない。媚びへつらう笑顔なら、幼い頃から嫌というほど見てきた。その目が自分を信じていないことくらい、すぐにわかった。
だけど、庭園の花を蹴散らすなど、そこまで野蛮な真似をすると思われていたのか?
こんな時に疑いの目を向けられるほど、自分は信用されていなかったのか——?
その事実が、カトリナを打ちのめした。
動揺が怒りを塗り替えていく。狼狽としながら、カトリナは侍女に縋り付くように言葉を続けた。
「ね、ねえ。本当にわかっているの!? わたくしは——」
「ええ、ええ、もちろん。ですからカトリナ様。そろそろ支度に戻りましょう」
「もうお客様がお見えになる時間です。茶席は、サロンにご用意いたしますから」
「……っ!」
貼り付けた笑顔で躱される。まともに取り合ってすらくれないことに、カトリナは絶望した。彼らは、自分の言葉など聞く気もないのだ。
聞いたとて、この屋敷ではカトリナの言葉が絶対。それがどんな内容でも彼らにとっては同じなのだ。彼らにとって重要なのは、「カトリナならやりかねない」という事実。そして、「そんなことよりもこの場を早く収めたい」という感情だ。
「何よ、それ……!」
怒りに震える声が出た。本当に怒りが原因だったかは、定かではない。
桃色の唇をわなわなと震わせるカトリナに、使用人たちはもう視線すらくれていなかった。
折れた花を片付ける庭師。サロンの支度に慌ただしく駆け出す執事。身支度の続きをさせようと、カトリナの手を引く侍女。
自分のために奔走しているはずの彼らを見て、なぜだかカトリナは誰からも置いて行かれたような気分になっていた。
ざわめきを取り戻した庭園に、また誰かの囁き声が響く。「やっぱりカトリナ様が……」「しっ! 聞こえるわよ」振り向いても誰の言葉かすらわからない。否定すら、させてもらえない。
胸がきゅっと痛んだ、その時だった。
「そいつじゃないだろ、犯人」
一つの声が、その場に降った。
まだ声変わり前の、澄んだ少年の声。
ざわめきの中たしかに響いたその声に、カトリナは振り返った。
「……ディーン、様? どうしてここに……」
「いつまで経っても屋敷に入れてくれないから、勝手に入ってきたんだよ。……人がやったにしては足跡が小さい。おおかた野犬か何かだろう。まだ近くにいるかもしれない。探すなら庭師だけでするなよ、兵を出した方がいい」
ディーンは無遠慮に荒らされたバラ園に踏み込み、散らばった花弁のひとひらを拾い上げてそう言った。的確な分析に、皆呆気に取られる。
「それから、もう一つ。こいつがやったなら、こんな回りくどい真似はしない。気に入らないなら、目の前で全部引き抜くような奴だろ?」
そして、どこか揶揄うような声色をもって続けた。
冗談めかして言った言葉に、幾人かの使用人が「たしかに」と言わんばかりに頷いた。
その反応に満足げに目を細めたあと——
ディーンはカトリナを振り返り、静かにこう告げた。
「それに——たしかにそいつは我儘で気性も荒い。でも、わざわざ花を荒らすような奴でもないだろ」
——空色の瞳が、真っ直ぐにカトリナを射抜く。その瞳には、一片の嘘偽りも感じられなかった。
その言葉に、真っ直ぐな瞳に。
「——…っ!」
息を呑んだ。
胸にじわりとした情が広がり、頬がカッと熱を持つ。
言葉を無くしたカトリナに、ディーンはどこか悪戯っぽく笑った。
「あんたも、やってないならいつもみたいに言い返せばいいだろ。普段はもっとしつこいくせに」
全く貴族らしからぬ、くしゃりと目尻を下げたその笑い方。
威厳の欠片もないそれに、だけどもカトリナは心臓がどくりと跳ねるのを聞いた。
(なんて失礼な言い様でしょう。これがディーン様でなければ、鞭の一つでも取り出していたかもしれない)
言葉を失ったままのカトリナに、使用人たちはどこか気まずげに顔を合わせる。
だけどそんな光景も、もはやカトリナの目には入っていなかった。
誰もが自分から目を逸らし、貼り付けた表情を向けていた。自分の本当の声なんて、誰も聞いてはくれなかった。
なのに——
(ディーン様だけは、見てくれた。唯一、この御方だけが……)
その事実が、じわりじわりと心を侵食する。
自分を見つめる空色の瞳を、カトリナもまた見つめ返した。
普段とは打って変わって大人しい様子のカトリナに、ディーンは未だ面白そうに笑みを浮かべていた。
いつもはすげない態度の彼が、初めて見せた笑った顔。
『でも、わざわざ花を荒らすような奴でもないだろ』——その言葉が、胸の奥で何度も響いていた。
カトリナが、恋に落ちた瞬間だった。




