エピローグ
——サンクティア王国、某所。
人の寝静まった夜の路地に、見回りの衛兵の声が小さく響いた。
「——なあ、知ってるか? 村人が消えた村の話」
「ああ、◯◯村の話か? 行商人が立ち寄ったら、もぬけの殻になってたってやつ」
「そう、昨日まで暮らしてたまんまの気配はあるのに、村人だけ一人もいなくなってたらしい」
「畑も井戸も荒れてねえ。家も荷も、家畜もつながれたまま。近隣の村に逃れたやつもいねえ……」
「盗賊にしちゃ、妙な話だよな」
ヒソヒソ。こそこそ。
月明かりに槍の穂先を鈍く光らせながら、二人は声を潜めて噂を続けた。
積み上げられた石造りの家々の間を、底冷えのする夜の空気が音もなく流れていく。
「ただ、ひとつだけ遺体が発見されたらしい。村のはずれになぜかひとつだけ焼け落ちた小屋があって、その中から小さい子供の焼死体が出たんだと」
「なんだそれ、気味が悪い話だな」
「ああ。だけど気味が悪いのはそれだけじゃないぜ。その遺体——体の中に、血が一滴も残っていなかったって」
「……」
いつになく真剣な相手の声音に、もう一人は鼻で笑うこともできず、ただぞっとして押し黙った。
「……魔女の呪いってやつか? これが」
「はは、村ごと消しちまう魔女か。随分人間嫌いの魔女さんだな————ん?」
ぞくりとした胸の内をごまかすように、わざと声色を軽くして言う。
会話を続けながら歩みを進めたその先で、いつからそこにいたのか、通路の奥にひとりの女が佇んでいた。
こんな夜更けに女性の独り歩きとは。衛兵の本分を思い出した彼らは、槍を担いだまま女に話しかけた。
「どうされたんですか、お嬢さん。こんな夜遅くに」
「何かありましたか? こんなところに女性一人でいたら、人嫌いの魔女に攫われちゃいますよ?」
一人がからかうようにそう言って、もう一人が相方を肘で小突く。
女は、二人の気安い様子にフッと微笑み、視線を落として答えた。
「ごめんなさい。猫が逃げ出しちゃって」
女はそう言うと、足元に擦り寄る黒猫を静かに抱き上げた。
胸に抱いた黒猫ごと夜の闇に滲むような、黒髪の女だった。
年頃はまだ若く、その顔立ちは恐ろしいほどに整っている。
薄く浮かべた微笑みは柔らかいはずなのに、なぜか目を逸らせず、同時に胸の奥がひやりと冷えた。
——こりゃあまた、ずいぶん別嬪さんだ。
思わず口笛を吹きたくなるのを、相方からの非難の目線でどうにか抑える。
しかしこんな美人、この街にいたか?
ゾッとするような顔立ちに見惚れながらも、胸の奥が妙にざわつく。
この国では珍しい漆黒の髪も、まるで——
内心のモヤを誤魔化すように、まだ自分を睨みつけている相方に苦笑いを返す。
不意に女から外した目線をもう一度彼女に向け、
「まあなんだ、こんな夜遅くです、よければ送っていきましょうか——」
軽い調子を取り戻そうとわざと明るい声で言う。
その声は女に届くことなく、月明かりの石畳に空しく反射した。
目線の先、女が立っていたはずの場所には、もう誰の姿もなかった。
「……は?」
こわばった声が石壁に響く。
夜だけが、何事もなかったかのように静まり返っていた。
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——石畳の夜の街。月明かりに照らされた白い町並みに、黒い影が軽やかに舞っていた。
その後を追うように、ともに踊るように、小さな黒影もついてくる。
屋根を伝い、街路に立ち、舞台上の踊り子のようにくるりと回り、重力すら感じられないように軽やかに跳ねる。
彼女が足を跳ねさせるたび、誰かの耳に愛が響く。
振り返っても誰もいない。空耳かとまた柔い寝具に包まれる。
それでも彼女は愛を唄い、夜と踊る。
寝静まった町並みは、誰も彼女に気づかない。
ただ月だけが見ている。
月だけが見ている。
「——ねえ、聞いた? 人嫌いの魔女ですって。ふふっおかしい」
やがて女の影は、足元の猫にそう話しかけた。
ころころと転がすような笑い声。舞いはやまない。
「ああ、おかしいわ。居場所を求めた少女も、少女を怖がっただけの村人も——私はみんなみいんな、愛しているのにね」
夜を見上げ、街を駆け、歌劇のように高らかに彼女は宣う。
それでも目を覚ます者はいない。
「……ふふ。あはは。はは、あははははははは!」
駆け上がった時計塔の上から、町並みを見下ろす。
人々は寝静まり、どこからか犬の鳴き声が聞こえた。
「——ああ、愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。
この国に住む、この世界にいる、すべての人間を」
女は踊る。女は嗤う。女は愛を語る。
月が見ている。
月が見ている。
「だからみんな、みんな————私と、踊りましょう」
慈愛に満ちた、それでいて重みのある声で女は言う。
応えるように猫が鳴いた。
次の瞬間にはもう、
一人と一匹の影は、その場から消え去っていた。
——————————クスクス。
——————クスクス。




