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「————————っ……!?」
濁流のような感情の渦が、脳裏へと直接叩きつけられた。
鼓膜を震わせることなく頭の中に流れ込んでくる、言葉、言葉、言葉。
まるで思考そのものに語りかけるような声に、クラリスは大きく目を見開いた。
視界に飛び込んできた光景に息を呑む。
そこは、一面を夜に覆われた空間だった。
夢とも現ともつかぬ狭間。
全身を闇が覆い、上も下もわからない。
先ほどまで自分を包んでいた炎も、薬草棚も、古びた家の立ち並ぶ村もない。
だがクラリスが驚いたのはそれではなかった。
暗闇しか映さなくなったはずのクラリスの瞳に、漆黒を切り裂く煌めきがたしかに映っていたからだ。
闇に滲む淡く白い光。あれは——
月の光だ。
「——あら。また一人、愛しい『踊り手』が生まれたのね」
と、夜のように静かな声がクラリスの頭上に降った。
クスクスとくすぐるような笑い声に、クラリスはハッと顔を上げる。
そこにはいたのは、
闇夜に浮かぶ、長い黒髪の女だった。
月のように白い肌。紅い瞳が穏やかな微笑みを浮かべ、夜の中に膝をそろえて腰掛けている。その膝の上には小さな黒猫が、ちょこんと行儀良く座っていた。
——この人は、誰だ? そもそも、ここは一体どこなのだ?
そう戸惑いながらも、強烈な懐かしさがクラリスを襲った。
事態を飲み込めず何度も瞬きを繰り返すクラリスに女はふわりと近づき、その眼前に降り立った。
「——なるほど。それであなたはここに辿り着いたのね。
魔女と決めつけられ、村人たちに焼かれて」
「……っ!?」
「痛かったでしょう。寂しかったでしょう。……ああ、とても愛おしい。
焼かれたあなたも、あなたを焼いた村人も」
女はそう言うと、その白い手でクラリスの頰に触れた。
冷たいそれに、クラリスは思わず肩を震わせる。
「あなたは……?」
声を振り絞って、尋ねる。
だけど女は何も答えなかった。
ただ笑みを深め、愛を囁くような口調で続ける。
「孤独に震える、愛しき私の『踊り手』よ。
あなたの願いは何かしら?」
願い。
その言葉に、クラリスの小さな胸は激しく揺さぶられた。
焦げた匂いも、肌を裂く熱ももうない。
ここがどこか、この女が誰か、それすらもわからない。
だけどそんなこと、クラリスにとってはもうどうでもよかった。
胸のうちに、たしかな絶望と憎しみの火が灯る。
「憎しみの炎が消えないのなら、私が手を貸しましょう。
——あなたがその血を、捧げるのならば」
女はそう言って、か細い手をクラリスに差し出した。
慈愛に満ちた声がクラリスの耳を打つ。
瞬間、胸の奥で燻っていた憎しみが、息を吹き込まれたように勢いを増した。
一気に燃え広がり、彼女の内側を満たしていく。
それはもはや感情ではない。
意志を持つ業火となって、彼女そのものを包み込んだ。
「その憎しみすら、あなたの一部。
さあ、幕を上げましょう——」
クラリスは、震える手で女の手を握り返す。
夢は、そこで音もなく裂けた。
***
クラリスが死んでから、村人たちはやっと安寧を得たかのように穏やかに過ごしていた。
怪我につける薬がなくても、誰も文句を言うものはいない。
むしろどこか安心したような顔で、朝目覚め、仕事をし、また夜に眠る。
クラリスがいた頃の濁ったような空気は、あの夜薬草小屋と一緒に燃え尽きたのだ。
「ああ、やっと静かな夜になる」
「病人も、これで減るだろうさ」
「あんな娘ひとりで、村を危険にさらせるか」
「もうあの娘の姿を見ずに済む」
そんな言葉たちが村中で交わされ、人々は日常へと戻る。
恐れていたものは、もういない。火刑の炎がすべてを清めたのだ。そう誰もが信じた。
咳をしていた者も、子を抱く母も、鍬を握る男も、みんな等しく胸を撫で下ろす。
もう村は安心なのだと。もう何も、自分たちを脅かすものはないのだと。
そしてまた、夜が来る。
夜は、何事もなかったかのように静かだった。
キンと冷えるような冬の夜。村人たちは厳重に戸を閉ざし、火を落とし、静かに眠りについている。
——ぱち、と何かが弾けるような音がして、人々は目が覚めた。
最初は、誰もそれが何の音か分からなかった。
寝台の上で身じろぎし、薄く目を開ける。夜はまだ深いはずだった。
ぱち、ぱち。続けざまに音が鳴る。
次いでむわりとした熱気が室内に流れ込む。戸の隙間から入り込む空気が、明らかに温い。いや、熱い。濁った空気に喉を刺され、大きく咳をする。
次の瞬間、外から叫び声が上がった。
「火事だ! 火事だぞ!」
跳ね起きた村人が戸を開け放つ。
吹き込んできたのは、夜気ではなかった。焼けつくような熱風と鼻を刺す焦げた匂い。
広場の方角が赤く揺らめいていた。
家々の壁をなめるように炎が走り、屋根を焦がし、火の粉が空へと舞い上がる。
「水を! 井戸だ、井戸へ行け!」
「子どもを連れてこい!」
「おい、じいさん、起きろ!」
一瞬にして、村が喧騒に包まれた。
誰かが転び、誰かが泣き叫び、誰かが隣家の戸を叩く。
眠りに沈んでいた村は、一瞬にして混乱の渦へと叩き落とされた。
「どうしてだ、何が原因で……」
「火元はどこだ!?」
「今はとにかく逃げろ、村の外に——!」
逃げ惑う村人たちを尻目に、炎はまるで意志を持つかのように広がっていく。
風もないのに、火は跳ね、屋根から屋根へと飛び移る。
積んであった薪が爆ぜる。火の粉が舞う。
火から逃れるように駆ける村人たちの耳に、小さな笑い声が届いた。
————クスクス
少女の声だった。
小さく柔らかく、無邪気さを含んだ声。
それはどこか火のはぜる音に似ていた。
だから最初は誰もが幻聴だと思っていた。
声はだんだん大きくなる。
——クスクス
今度こそはっきり聞こえた。振り返る。
息を呑んだ。
炎の向こう、今にも燃え落ちそうな家屋の中に、白い影が立っていた。
小さな背丈。折れそうに細い脚。幼い少女の影が、揺らめく炎の中で、火と戯れるように揺れている。
——クスクス。クスクス。
くすぐるような笑う声を上げ、舞台の上を踊るようにひらりと袖を翻す。
それは、村の誰もが見たことのある光景だった。
「……そんな、まさか」
何かに気づいた誰かが、震える声でそう溢す。
その声に釣られて炎の中へ視線を向けた誰かが、その目を大きく見開く。
「——クラ、リス…?」
誰かがその名を呟いた瞬間、村人たちは堰を切ったように騒ぎ出した。
「うわああああああ! ひ、火の中に子供が!」
「おい、あれ、あの小娘か!?」
「なんで、あの娘は焼いたはずだろう!?」
「やっぱり魔女だ、魔女だったんだ!」
「魔女の、呪いだ——!」
炎から、炎の中の少女から逃れるように、村人たちは逃げ惑う。
そんな彼らを嘲笑うように、少女の影は、声は、炎と共に村を踊る。
くすくす。笑い声が転がる。
影は両腕を広げくるくると回る。
火の粉が星のように散り、夜空へ舞い上がる。
「きゃあああああっ!」
「うわぁっ、来るなああああ!」
少女の影が、村人を追いかける。
声が逃げ道を塞ぐ。
逃げた先には炎が待っている。
じわり、じわり。炎が村中に広がっていく。
熱が肌を刺す。
焦げた匂いが肺を満たす。
「井戸だ! 誰か、水を汲んでこい!」
「森へ逃げろ!」
「あああっ、服に火が……!」
火だるまになった男が地面を転がる。
服を脱ごうともがき、身体中をかきむしり、絶叫し、やがて動かなくなる。
若者は井戸へ駆け寄り、躊躇なく身を投げる。
水音が響く。
水面は静まり返り、炎の赤を映した。
子を抱えた母は森へ走る。
枝を払い、闇の奥へ、奥へと消えていく。
炎に巻かれた者の悲鳴。
水を求めて井戸に折り重なる者たち。
逃げ惑い土を駆ける音。
その全てを見透かすように、見守るように、笑い声は止まない。
——クスクス。クスクス。
「どけ! 俺が先だ!」
「まだ主人が中に…っ!」
「おかあさあああん、どこおお!」
「————! ——!」
「——! ……」
「……」
喧騒が、炎に飲まれていく。
森へと遠ざかり消えていく。
赤い赤い炎は、夜の闇の中さらに勢いを増し、村そのものを覆い隠した。
誰もいなくなった家々の戸が、風もないのに小さく揺れた。
***
——夜が明けた。
東の空がゆるやかに白み、やがて淡い金色の光が村を包み込む。
朝露をまとった草がきらきらと輝き、鳥たちが囀りはじめる。
小さな村を覆った炎は、跡形もない。
家々は静かに佇み、戸も窓も、昨日と変わらぬ姿で朝を迎えていた。
煙の匂いも、炭になって落ちた木の壁も、焼けた痕どころか煤ひとつ落ちていない。
井戸の水面は澄み、森の梢も青々と揺れている。
空は青く、刃のように冷たい冬の空気が、静まり返った村を包んでいた。
けれど、いつまで経っても、家の戸を開ける者はおらず、どの煙突からも、朝餉の煙が上がることはなかった。
それは、とても穏やかな朝だった。
——————クスクス。
————クスクス。




