22.血濡れの聖女は夜と踊る
「——殺せ。殺せ! 魔女を殺せ!」
「私欲に溺れ、国に災禍を齎した魔女を!」
「我々から血を搾取し続けた——血濡れの魔女を!」
——大神殿前、大広場。
そこに設けられた処刑場に、民衆の怒号が鳴り響いていた。
処刑台の周囲には聖騎士が立ち並び、その後方には、まるで何かの儀式に臨むかのように法衣を纏った神官たちがいる。そしてその先——見上げるほど高い処刑台の上に、一人の少女が手足を拘束され座らされていた。
聖女——いや、『魔女』ルナ・ルクスの、公開処刑である。
「静粛に」
厳かな声に、広場がわずかに静まり返る。
高位神官が一歩前へと進み出、広場をぐるりと見回し、言った。
「——これより、ルナ・ルクスの公開処刑を執り行う」
観衆がどっと湧き返す。
「殺せ! 殺せ!」
怒号がさらに勢いを増した。
石を投げる者、唾を吐きかける者……その誰より一番前で、エミルの母親が一際大きな声でルナを罵っていた。
——その全てを、断頭台のその上で、ルナはもはや凪いだ心で眺めた。
(……ああ。この人たちは本当に、私を魔女だと信じているのだ)
そこにあるのはもはや絶望ではなく、諦観だった。
すでに絶望のそこまで沈んだルナにとって、己の死ごときではもう心はぴくりとも動かない。
色を失った瞳で、ただ茫然と広場を見つめた。
(人とは、こんなにも愚かなものだっただろうか。根も葉もない噂に踊らされ、人の死を愉しむために集う……)
ぼんやりと思考するルナに、だけども罵声は止まない。遠く自分を囲う民衆の顔が、なぜだか一つ一つはっきりと見えた。
怒り、憎しみ、愉悦——憎悪で歪んだ姿が、ルナの胸にそっと昏い影を落とす。
(彼らを笑顔にするために、ずっと祈ってきたのに——)
重い血を飲み続け。
両親のために祈ることも許されず。
少女としての淡い恋も押し殺し。
小さな少年や、自分を信じ続けてくれた仲間を見殺しにし——。
全てを捨てても、民のためにあろうと生きてきた。それが、こんな形で返ってくるだなんて。
『汝、人を愛せよ』——両親の教えであったその言葉が、今さら何度も胸に反芻された。
『祈りは報いとなりて還らん』——報いとはなんだろう。愛とはなんだろう。私が愛すべき『人』とは、こんなにも醜い形をしていたのか。
ああ、だけど、それを教えてくれる人はもういない。
——私のせいでみんな、死んでしまったのだから。
(……もう、いい。もう、楽になれるから——)
まだ鳴り響く怒号の中、ルナは静かにその瞳を閉じた。
諦めたように目を伏せる、それを待っていたかのように神官が告げた。
「この者の罪を、ここに集うすべての者の前で裁く。——執行人、前へ」
——言葉と同時、風に揺れる青のマントが視界を掠めた。
観衆が再び湧く。そこに憎悪とは違う色を嗅ぎ取って、ルナはゆっくりと顔を上げた。
歓声の先に視線だけを送る。そして——
息を呑んだ。
太陽の白髪、蒼天の瞳。
そこにいたのは——
ディーン・マリウス・ヴァレンティス。
聖剣をその手に携えた『勇者』、その人だったからだ。
「…………ッどう、して……?」
掠れた声が漏れた。
諦観に沈み切っていたはずのルナの心が、さらなる絶望で塗り替えられていく。
驚愕に揺れるルナの瞳を見下ろし、だけどもディーンは平然と聖剣を構えていた。
表情の抜け落ちた表情。
自分を見下ろす感情のない瞳に、ルナははっきりと意識を取り戻した。
(なんで、ディーンが……!? 処刑人に勇者なんて、聞いたこともない)
『呪い』に呑まれた冷たい視線。陽光に輝く聖剣に動揺する。
心を縛ったのだと、オーギュストは言った。それは事実なのだろう。だが——
(だからって、私の処刑をディーンにやらせようなんて——!)
無気力に項垂れていた顔を上げ、勢いよく振り返る。
処刑台の下、幾人もの神官に囲まれたその場所に、白の法衣を纏ったオーギュストの姿を見付けた。
大神官としての堂々たる佇まい。常と変わらぬ静かな微笑みを浮かべ、彼もまたルナを見上げていた。
その目と目が合った瞬間——
穏やかな藍の目が、わずかに細められたのをたしかに見た。
「……せめてもの慈悲です、聖女よ。たとえ『魔女』に堕ちたとて、最後くらいは愛する者に送られるべきでしょう」
「……………………オーギュストおおおおおおおお!」
——絶望に凍てついていた心に、燃え盛るような怒りが舞い戻ってくる。
目を真っ赤に血走らせ叫び声を上げる。吐いた息が熱かった。「ッこら! 罪人が動くな!」突如正気を取り戻したルナに、彼女を拘束していた騎士がわずかに焦ったような声を漏らした。
それでもルナは止まらない。
腕を強く引き戻されても。断頭台に頭を押し付けられ、口の中に血が滲んでも。
ただ、遠く自分を見つめるオーギュストへの怒りだけが、彼女の心を支配していた。
(どこまで……! どこまでディーンの尊厳を踏み躙るつもりなの……!)
視界が真っ赤に染まる。全身の血が沸騰しているかのように熱を持った。噛み締めた奥歯から血が滲む。苦いその味を吐き出すことすらせず、込み上げてくる怒りごとごくんと飲み込んだ。
『汝、人を愛せよ』その言葉が再び脳裏に響いた。
『もう少し人を疑うことを覚えていたら——』そう嗤ったオーギュストの言葉も。
瞳を真っ赤に染め、眼下を睨みつける。
そこには相変わらず静かに微笑みを浮かべるオーギュストと、目前に迫るルナの死を今か今かと待ち望む民衆たちの顔があった。
(これが、これが人のために尽くした末路だというの。人を信じ続けた、その報いだと。それならば、それならば——)
ディーンが静かに聖剣を構えたのを、気配で感じる。
だけどルナにはもう、そんなことはどうだってよかった。
目の前を赤く染める怒りは、恨みは、たかが死ごときで止まることなどない。
聖剣が振り下ろされる。
自分の血の味を噛み締めながら、ルナは願った。
——それならば今度は、それすらも受け入れよう。人間の醜さも、欲深さも。全てを受け入れ、愛してみせよう。
民が『それ』を望むのなら、私は、私は——
視界が回転する。長い黒髪が空を舞った。
首が台の上へと転がると同時——青空を割るほどの歓声が、大神殿の前を埋め尽くした。
「魔女が、討たれたぞー!」
「勇者様、万歳——!」
誰もが喜びの声を上げ、晴れやかな笑みを浮かべる。『魔女』を討った『勇者』への賛美が、あちこちから湧き上がった。
その声に呼応するように、ルナの体から血飛沫が上がった。『魔女』の決定的な死に、観衆はさらに湧く。熱狂が街並みを伝い、王都全体を震わせているような心地さえした。
飛び散る血飛沫が、断頭台を紅く染めていく。
それはいずれ石畳の広場へと滴り落ち、じわりじわりとその白を侵食していった。
観衆は手を叩いて喜び、紅く染まる石畳に嬉々として石を投げつけた。
それでも血飛沫は、止まない。
力を失った『魔女』の身体から、赤々とした鮮血が延々流れ続けた。
広場に居並ぶ神官たちが、わずかに眉を顰める。
それは、人ひとりのものとは思えぬほどの量だった。
『————————————てる』
「……?」
ディーンもまた何かに気づいたように、力なく斃れる死体に警戒したように姿勢を低くする。それでも血は止まない。
「……おい、何かおかしくないか?」
誰かが訝しげに呟いた。
「何がだよ。『魔女』が討たれたんだ、こんなに素晴らしいことはないさ!」
別の誰かが笑って答える。
『——————————してる』
しかしその言葉を皮切りに、歓声の中にどこか胡乱げな色が混じる。飛沫は止まない。
「ま、まだ止まらないぞ……?」「いくらなんでも、多すぎる」「こんなものなのか……?」
ザワザワと動揺が広がる。その足元まで紅が迫る。
『————————してる』
「ひっ……! なんだ、これは……!」
『————愛してる』
「こんなところまで、血が——!?」
『————愛してる愛してる』
「ま、魔女だ……! 本当に魔女だったのか……!?」
『————愛してる愛してる愛してる』
血が広がる。地を伝い、白壁を伝い、白亜の大神殿を穢していく。
地面を覆う紅に人々は足元をびくりと浮かせ、引き攣った声を上げた。
ざわめきに戦慄が滲む。異様な空気が世界を包んだ。
一人の青年が、処刑台を指差し、叫んだ。
「——おい、あれを見ろ!」
震えるその指の先に、皆一様に視線を向けた。
断頭台に転がる『魔女』の首——その中で、
——紅い瞳がカッと見開き、薄い唇を大きく歪めた。
『 愛 し て る わ 』
——瞬間、闇が落ちた。
真昼間だった広場に夜の帷が降りる。突如奪われた視界の中、誰かが「ひっ!」と声を上げた。囁くような女の声が、そこかしこから聞こえてくる。
——愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
「う、うわああああああ!」
「なんだこれ、どこから……!?」
「魔女だ! 魔女の、呪いだ——!」
耳元で。背後から。足元から。物陰に。空から。
『愛してる』『愛してる』『愛してる』
囁きが降る、降る、降る。
全身を撫でるような愛の言葉に、民衆は恐慌に陥った。
「魔女だ! 逃げろ——!」
「神よ……!」
「おい、押すな!」
「魔女にとどめを——ああっ!」
「どけ、邪魔だ!」
「子供がいるのよ、どいて!」
「いやだ! 助けて!」
闇に覆われた処刑場で、群衆が蠢く。誰かが転んだ。悲鳴が上がる。その上を、人々が踏み越えていく。
「落ち着きなさい! 皆、冷静に——!」護衛の聖騎士が叫ぶ。その声も喧騒に紛れて誰の耳にも届かない。
——愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
代わりに慈愛に満ちた囁きが、脳に直接叩き込まれる。
武器を持つ者は皆一様にそれを構え、神官たちもまた警戒を露わに辺りを見回す。
だけど闇は深く広場を包んだまま、『魔女』の姿は欠片も見えない。
「こ、これは、……ッ!?」『——愛してる』
大杖を携えたまま、オーギュストは狼狽えた声を漏らした。
そんな彼の耳元に、ふわりと甘く愛が囁かれる。振り向いた先にはもちろん、誰の姿もない。
冷や汗が流れる。
「————ルナっ……!」
大杖を握る手に、知らず力がこもる。端正な顔を歪め、常の余裕を失うオーギュスト。そんな彼を嘲笑うように、クスクス、クスクス、とくすぐるような笑い声がこだました。
——ああ、そんなにも私が魔女であることを望むなら……
私は『魔女』になろう。
全ての人間を、その醜さすらも愛し、呪う——血濡れの魔女に。
「————っ!」
——愛の言葉がまだ響く闇の中。
ディーンは一瞬だけ目を閉じ、聖剣を天へと振り抜いた。
閃光が空を割る。
神々しい光が闇を切り裂き、ひび割れたその先から青空が取り戻された。
差し込む陽光の中——
処刑台の上、魔女ルナの遺体は消え去り——広場には、一面に広がる大量の血だけが残っていた。
……まるで、『聖女』として呑み続けた血が全て、
そこに吐き出されたかのように。
——————クスクス。
————クスクス。
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