19.ルナ・ルクス⑲
「勇者様がお倒れになったぞ!」
「傷は浅いはずだ、なぜ意識が戻らない!?」
「道を空けろ! 治療院へお運びしろ! オーギュスト様へ、報告を!」
勇者が倒れたという報せに、大神殿は騒然となった。
怒号が飛び交う。
すぐさま治療院に運びこまれ、腕に受けた傷の手当てをする。
それでもその瞼は閉じられたままぴくりとも動かず、身体はぐったりと寝台へ沈み浅い呼吸を繰り返すだけだった。
「ただの切り傷です。毒の痕跡もありません。意識がお戻りになられないのは、この傷が直接的な原因とは到底思えない」
ディーンの治療を担当した治癒術師は、額に脂汗をかきながらそう言った。
「でも、ディーンが倒れたのはこの傷を受けてすぐのことだったのよ!? 無関係なわけが——」
「しかし、そうとしか考えられないのです。他に原因は考えられませんか? 頭を打っただとか……」
「そんな様子はなかったけれど……」
ルナの言葉に、術師は怪訝そうに眉を寄せる。
治療院の術師たちが総動員して治癒術をかけても、その目が開くことはない。
では、なぜ?
誰もがその疑問を、胸に抱いた時だった。
「——『呪い』よ。そんなこともわからないの?」
背後から、高慢な女の声が投げかけられた。
「『呪力』の見極めすらできないなんて、あなた、それでも『聖女』なの?」
「——カトリナ様!?」
カトリナであった。
豪奢な扇子でその口元を隠しながら立ち、その紫の瞳で冷たくルナを見下ろしている。
「ど、どうしてここに」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう。そこの術師、そのナイフをこちらに寄越しなさい」
「は、はい……!」
カトリナは顎をしゃくって治癒術師に命じると、寝台の傍らに置かれていたナイフを手に取る。
そして、その紫の瞳で静かに検分した。
「——ああ、やはり。このナイフには『呪い』が刻まれているわ。ディーン様を蝕んでいるのは切り傷でも毒でもない。ここに仕込まれた、『呪い』よ」
「なんですって……!?」
カトリナの言葉に、場がどよめいた。
『呪い』——そんなものを、エミルの母はディーンに向けたのか?
——いや違う。彼女が刃を向けたのは、ルナに対してだ。
それじゃあ、ディーンは——
思考が飛びそうになるルナの足元に、石床を硬く叩く音が響いた。
次いで、真白の法衣が治療院の入り口を掠める。厳かな声が降った。
「——それは本当なのですね、カトリナ」
現れたのは、オーギュストだった。
背後に彼直属の部下と、彼に報告に出向いていたのだろう騎士を連れ、ディーンの眠る病室へと足を踏み入れる。
「オーギュスト……!」
「あら、おじ様。遅かったわね」
「これでも急いだのですがね。……それで? カトリナ、私たちは君の言葉を信じていいんだね?」
「もちろんですわ」
オーギュストの確認に、カトリナは優雅な笑みを浮かべて答える。
自信ありげなその表情は、頼もしいはずなのにどこか違和感を覚える。
ディーンの命がかかっていると言うのに、その笑みはあまりにも穏やかだった。
「それとも、わたくしの『瞳』が信じられませんの?」
「……いや、この上なく、信用できる言葉だ」
オーギュストは一つ頷くと、ルナを振り返り告げた。
「——ルナ。祈祷の準備をなさい」
「えっ……」
「聞いたでしょう、これは単なる怪我ではなく『呪い』。それなら、必要なのは治療ではない、解呪です。君の祈りが、一番早い」
その言葉に、我に返る。そうだ、自分にはこの力がある。血さえ捧げられれば、どんな願いでも叶えられるという力が。
だが——
「……無理よ。ディーンは今、意識を失っている。今彼が、何を祈っているのかわからないもの」
それはルナの『奇跡』の明確な欠点だった。
ルナの奇跡は、血を捧げた者の願いにしか応えられない。意識を失ったディーンが何を願っているのか、それはルナにもわからなかった。
「血なら、私が捧げます」
俯くルナに、オーギュストが言う。
「それで足りないというのなら、部下たちにもその血を捧ぐよう命じましょう。現状、あなたの『奇跡』でしかディーンは救えません。それなら私の血など、惜しむ理由はありませんから」
「オーギュスト……!」
その言葉に、ルナが顔を上げる。
その漆黒の瞳を見つめると、オーギュストはゆっくりと一つ頷いた。ルナもまたそれに頷き返す。
「ありがとう……! ありがとう、オーギュスト……!」
礼を述べるや否や、ルナは祈祷の準備のためにとバタバタと治療院を走り去っていく。
その姿を、カトリナとオーギュストが静かな眼差しで見送った。
先ほどまで胸に引っかかっていた違和感は、いつの間にか霧散していた。
*
——大神殿、大聖堂。
重要な儀式でしかほとんど使われないその場所に、ルナは連れて行かれた。
祈祷服に着替え、そこに辿り着いた頃にはもう、幾人もの神官と巫女が白衣を纏い居並んでいた。
オーギュストが召集したのだろう。『勇者』の一大事だ、祈る者は多い方がいい。
ルナは案内されるまま足を進める。
その最奥、大祭壇の前に、寝台が横たえられていた。
そしてその上には——苦しげに呼吸を繰り返すディーンが寝かされている。
青白い肌。その様子に胸が軋んだ。
(待っていてね、ディーン。必ず、必ず助けるから……!)
決意を胸に大祭壇の奥へと足を踏み入れ、その場で膝をついた。
次いで、オーギュストが大杖を携え祭壇の前へと現れる。
その背後に神官が一人続き、神殿の紋の入ったナイフと血瓶を仰々しく彼へと差し出した。
「……ルナ。準備はいいかい?」
オーギュストの言葉に、ルナはコクリと頷く。
それを合図にするように、オーギュストは大杖を高く掲げると、聖句を詠み上げ始めた。
朗々とした声が、聖堂に響く。
それに続くように、他の神官たちも復唱し始めた。
低く厳かな声が石壁に反響し、大聖堂いっぱいに広がっていく。
聖歌隊の聖歌が始まる。
燭台に灯された蝋燭が揺れた。
その全てに、ルナは目を閉じ静かに受け入れた。
——と、オーギュストが一度大杖を置き、神官に差し出されたナイフを受け取る。
そして、法衣の袖をまくり、不健康に白いその腕を血瓶の上へと差し出す。
腕にナイフを当てる。少しだけ躊躇うような間を置き、静かな微笑みをその顔に浮かべた後——
一気に、その切先で腕を切りつけた。
ざくり。鋭い裂傷音ののち、ぼとぼとぼとっ、と、血が瓶の中に落ちる音がする。
神官たちの奏でる聖句の中、その音はほとんどルナとオーギュストにしか聞こえなかっただろう。
恐ろしい緊張感の中、その音すら何かの儀式のように思えた。
「——これを」
しばらくそうした後、オーギュストは自らの血が入ったその瓶を、背後の神官へと受け渡した。
神官がルナの元へその瓶を届ける。
受け取ったその瓶の中で、たぷりと赤黒い液が揺れた。毒々しいその色は、何度見ても慣れるものではない。
深く呼吸をする。
袖を直したオーギュストが、再び大杖を掲げた。
それを合図に、ルナは血瓶に口をつけた。
「——————っ!?」
瞬間、咽せ返る。
——ゴホッゴホッゴホッ!
重く湿った咳の音が大聖堂に響いた。
思わず口元を抑える。
その指から、血の雫が漏れ出てルナの聖女服を汚した。
(何、これ……!?)
これに混乱したのは、ルナの方であった。
血を、『願い』を呑み込むことは、元から重苦しくつらい作業ではあった。
だが——このオーギュストの血は、今まで呑んだどの血とも違う。まるで『願い』そのものが異質であるかのように、身体がそれを受け入れることを拒絶した。
(どうして……? 今まで、こんなことなかったのに。ディーンの受けた『呪い』は、それほど重いものだというの……!?)
明らかに様子のおかしなルナに、神官たちは眉を寄せる。
だが聖句はやまない。勇者のための儀式を、中断などできるわけがなかった。
「……ルナ?」
オーギュストだけが、その傍らで怪訝な声を投げかける。
ルナは重い頭を上げると、オーギュストの訝しげな顔と——そして、祭壇の前に横たわる、ディーンの姿に視線をやった。
「……大丈夫よ。続けられるわ」
簡素に返事をして、もう一度血瓶を持ち上げる。
そして——一気にそれを、飲み干した。
(……っ!)
重い血が喉を焼く。
それは今までのどの『願い』とも比べものにならない。
毒でも飲み込まされているように、激しい嘔吐感が襲う。それを無理やり喉の奥へと押し込み、呑み下した。
鉛の塊を呑み下しているような感覚にさえなった。
それでも呑む、呑む、呑む。
やがて、捧げられた血瓶が空になったのを確認し——
——ルナはそっと、その両手を組んだ。
世界が大きく揺れた。
聖光がルナを包む。その光は幾筋にも分かれ、壁を伝って大聖堂そのものへ広がった。
天地がひっくり返ったような感覚。
祈祷の声が耳元で響いたかと思えば、次の瞬間には遠くに離れていく。
耳鳴りのような感覚。
視界が揺れる。足元がふらつく。
まるで何者かに全身の力を奪われているような虚脱感。
それでもルナは祈った。
ただ、ひたすらに。
祈り続けた。
————
——
——祈りを終えると、ルナの身体はぷつりと糸が切れたようにその場に崩れた。
「聖女様!?」
誰かが叫び声を上げる。それに視線だけを向けて、ルナは声を振り絞った。
「ディ、ディーンは……?」
今にも消え入りそうな細い声。呼吸は浅く、額にはじっとりと汗をかいている。
あからさまに消耗した様子で、必死に上体を起こそうとする。
そして祭壇の前を覗き込み——
息を呑んだ。
「……!? ど、どうして……!?」
祭壇の前、その寝台の上で——
ディーンはまだ瞼を硬く閉じ、苦しげな呼吸を繰り返していたからだ。
(そんなはずない……! だって、今まで失敗したことなんて……!)
ルナは狼狽した。
はっはっと言う細かい呼吸音が耳に届く。
まだその身を『呪い』に犯されたままなのだと、嫌でもわかった。
むしろ、祈りの儀式をはじめる前よりも、苦しげに顔を歪めているように見えた。
「——血が、足りなかったのでしょうか」
「お、オーギュスト……」
背後からかけられた声に、ルナは力なく答える。
オーギュストだった。
大杖を携えたまま、ルナの傍らに立ちディーンを見据える。
「ど、どうしよう、オーギュスト。私、私……!」
「落ち着きなさい。私一人の血では、相殺できるほど単純な『呪い』ではないということでしょう」
「そんな……! それじゃあどうすれば……!」
「言ったでしょう。足りないのなら、部下たちにもその血を捧げさせると。問題はありません、すぐに次の祈祷の準備を」
「わ、わかったわ」
言い切るオーギュストに、ルナは返事をしつつも心に引っ掛かりを覚えた。常に浮かべる穏やかな微笑みが、なぜだろう、今はどこか冷たく見える。
石床についた掌がじっとりと汗を持つ。
だけど今は、そんなことを気にしている場合ではない。ルナは力の抜けた身体をどうにか起こし、もう一度祭壇へと膝をつく。
そんな彼女の元に、神官たちが、一斉に前に出た。
「……っ!?」
ずらり。祭壇の前に居並ぶ神官立ちに、ルナは思わず目を瞠る。
その手には皆、一様に、神殿の紋が刻まれた血瓶を抱えていた。
瓶をその両手に持ったまま、彼らは何も言わない。
色のない目でルナを見つめる。
その中で、オーギュストだけが一歩、前へと足を踏み出した。
「——さあ、聖女ルナ。祈りを」
——そこから先の記憶は、もう、ほとんど途切れている。
*
——夢を見た。
ディーンが、苦しむ、夢だった。
真白なその空間で、黒く濁った靄のようなものと、ディーンが戦っている。
ディーンの表情は苦しげに歪み、肩で浅く息をしている。
その空色の瞳を開いている以外は、ルナがあの治療院で見たのとほとんど同じ表情だった。
襲いくるその黒靄を、ディーンは何度もその聖剣で切り裂く。
だけど何度そうしても、黒靄は再生ししつこくディーンに絡みついた。
一度切り裂いては、すでに背後に靄が迫る。
また切り裂いては、足元から湧く。
何度もそれを繰り返すうち、ディーンの表情は苦しげに歪み、瞳はどんどん昏く濁っていく。
やがて黒靄が完全に彼を飲み込んだ。
その腕が、背が、靄に隠れて見えなくなる。
最後、その隙間からこちらを見て、必死な様子で、何かを言う。
『ルナ——
もう、祈るな』
「——……ッ!?」
ハッとして、目が覚めた。
柔らかい寝台。簡素だが上質な調度。着慣れた寝衣。
自室に寝かされているのだとすぐに気づいた。
「ディ、ディーンは……うっ!」
勢いよく起き上がって、走った頭痛に思わず頭を抱えた。
身体が重い。
またふらりと倒れ込みそうになるのを、片腕をついて支えた。
(私、どうしてここに……?)
割れるような頭痛を抑え、必死に記憶をたぐる。
自分は、大聖堂で、ディーンの解呪のための儀式をしていたはずだ。
そう、オーギュストの血だけでは足りず、他の神官たちの血を捧げてもらって——
「……っ」
その時の様子を思い出し、さらに頭が痛む。
それは、壮絶な祈りだった。
オーギュストのものだけでは足りず、次々とルナの元へ運び込まれる『血』。悪夢のような後味のそれらを必死で呑み下しては、一つまた一つ、もっと祈りをと求められた。
ついには限界を超え、そのまま祭壇の中で気を失ってしまったのだ。
「私ったら……っ」
吐き出すように、そう呟く。
あれから、どれくらい経ったのだろう。自分は一体、どれだけの時間ここで眠り続けたのか。
窓の外は明るいが、時間まではわからない。寝台のそばには水桶と濡れ布が置かれ、誰かが看病してくれていたのはわかる。だが、その場にはアネリアも、他の侍女もいなかった。
(アネリアは——いや、それより先にディーンがどうなったのか、聞きにいかなきゃ……!)
まだ痛む頭を抑え、引きずるようにして寝台から這い出す。
寝衣の上から上着を羽織り、震える足でどうにか立ち上がった。
——ガチャリ。
と、唐突に自室の扉が開かれた。
驚き顔を上げる。
アネリアかと思った。そうでなければ、ルナの世話を申しつかっている別の巫女かと。
だが、扉の前にいたのは——
「——ディーン!」
ディーンだった。
騎士服を纏い、聖剣をその背に背負う。
いつも通りの姿で、ディーンがそこに立っている。
落ち込んでいた胸に光が差す。
先ほどまでの倦怠感すらもう感じなかった。
ぱっと表情に笑顔を咲かせ、飛びかからん勢いでディーンの元へ駆け出す。
「よかった、目が覚めたのね! 具合はどう? 動いてももう、平気なの?」
「……」
畳み掛けるように問いかける。
しかし、ディーンは何も言わない。静かな眼差しで、ルナを見つめ続けた。
「よかったわ、儀式は成功したのね。どうなったのか、心配していたのよ」
「……」
「あれからどれくらい経ったのかもわからなくて……あなたはいつ頃目覚めたの?」
「……」
「……ディーン?」
それでもディーンは何も言わない。そこでようやく、胸にざわりとしたものが広がった。
顔を上げる。その顔を覗き込む。ルナのよく知る空色の瞳は——
昏く、澱んだ色に変わっていた。
「…………ぇ?」
頼りない声が漏れた。
どくり。心臓が一つ嫌な音を立てる。知らず、足が一歩後ろに下がった。
ディーンはそれを追うように、その足をルナの自室へと踏み入れた。
そこで気づいた。
ディーンの背後に、聖騎士たちが幾人も並んでいることに。
「な、なに……——ひっ!?」
引き攣った声が出た。
張り詰めた雰囲気、その中で、ディーンが聖剣を抜きルナに突き立てたのだ。
何が起きたのか、一切理解できなかった。
混乱したルナの表情が、研ぎ澄まされたその刀身に映る。
怯えたように後ずさるルナを見据え、ディーンは温度のない声で告げた。
「聖女ルナ・ルクス——貴様を、『魔女』として捕縛する」
「——え?」
夜は、すでに始まっていた。




