18.ルナ・ルクス⑱
「門を開けろ! 聖女様の——ご帰還である!」
門番の仰々しい宣言と共に、神殿の厳かな正門が開かれる。
幾人もの神官と、護衛騎士に囲まれながら、聖女の乗った輿が門をくぐる。
長い巡礼を終え、ルナ一行が王都へと帰還したのだ。
民衆は歓声を上げ、輿へ向かって手を振り、祈りを捧げた。
だがルナは、一度として窓の外を見ようとはしなかった。
普段なら振り返す手は膝の上で組まれたまま。常に浮かべている柔和な笑顔は静まり返り、漆黒の瞳はぼんやりと足元だけを見つめていた。
*
——大神殿、礼拝堂。
初代聖女像の見守るその場所は、礼拝のため民衆たちに広く門戸を開いた場所であった。
その片隅に一人腰掛け、ルナはぼんやりと聖像を見つめる。
(——何が、いけなかったのだろう)
一人座り込むルナの脳内を占めるのは、そんな自責の念だった。
エミルの残した言葉、村人たちの喜びの表情——それら全てが、何度もルナの胸をよぎっては消えていく。
王都へ帰還してから数日、それだけの時が経っても、ルナの心には重くあの出来事がのしかかっていた。
(何をしていたら、エミルは助かったのだろう。彼に嫌がられても、他の村人から血をもらっていれば。いや、そもそも、私がもっと早くあの村に行っていれば——)
何度も頭を巡った問いが、それでも消えずに蘇る。
あの日からずっと、ルナの心は凍りついたままだった。
旅程にあった全ての祈りを麻痺したままの心でこなし、そこで述べられる民からの感謝の言葉も虚な気持ちで受け入れた。
喉を焼く『願い』の重さも、自身の居場所に帰った感慨も、何も感じない。
いつもなら休めと言われても自室を飛び出していたというのに、今は礼拝堂から動くことすらできなかった。
自分は判断を間違ったのではないか。たとえ村一つ救えたとして、そこに犠牲があったとしたならば、それは聖女として正しいのか——
ぐるぐるぐるぐる、答えの出ない思考を繰り返すルナを、初代聖女像だけが静かに見つめていた。
(……私が今まで回った場所でも、エミルのような子がいたのかしら)
そう、思い至った時だった。
カタリ、小さく音を立てて、礼拝堂の扉が開かれた。
微かなその音を、ルナは虚空を見つめたまま聞いた。
石床を叩く足音が近づき、ルナのすぐそばで止まる。
「——ルナ」
聞き慣れた声がして、ゆっくりと視線をそちらに向けた。
「……ディーン」
「……おう。久しぶりだな」
ディーンであった。
「……どう、したの。こんなところに、あなたが来るなんて……」
「……俺が、祈りを捧げに来るのは、おかしいか?」
「そういうわけでは……ないけど……」
「……」
ボソボソとした声で、言葉を交わす。
気まずい空気が流れた。
ルナが長い間神殿を留守にしていたこともあって、こうして顔を合わせるのは随分と久しぶりのことだった。
互いにかける言葉を探すように、視線を彷徨わせる。
数瞬ののち、ディーンはためらいがちに言った。
「……帰ってからのお前、なんだか様子がおかしかったから」
「——…!」
ぼそりと落とされた言葉に、ルナは目を見開く。
凍てついていた心に、小さくひびが入るのがわかった。
——ああ、どうしてこの男は……
私の悲しみに、いつだって気づいてしまうのだろう。
「……っ」
「……、ルナ?」
くしゃりと表情が歪む。張り詰めていた背筋が、力なく崩れた。
ディーンは慌てたように声を上げ、支えようと手を伸ばす。
その仕草に、言いようのない感情が込み上げた。
それは紛れもない、喜びだった。
泣きついてしまいたかった。いつかのあの丘でそうしたように。
聖女も聖務も全て投げ出して、この腕に縋りつきたい衝動に駆られた。そうしたらディーンはどうするだろう。この手をとって、神殿から連れ出してくれるだろうか。
——ああ、馬鹿らしい。なんて愚かな考えだ。
今この国に、この国を救える存在は自分しかいないのに。
喉元まで込み上げている涙を無理やり飲み込んで、深く息を吐き出す。
拳を強く握りしめ、意地だけで口元に笑みを浮かべた。
顔を上げる。震えたままの唇で言った。
「……大丈夫よ。——ありがとう」
情けなく下がった眉。下手くそなその笑顔に、ディーンが一度息を呑む。
浮いていた腕がぴくりと揺れ——そのままその場で、ぎゅっと握り込まれた。
「……そうか」
ディーンは力無く声を漏らす。
重い沈黙が落ちた。
しんと静まり返った礼拝堂。二人の気まずげな呼吸音だけが、浅く響いた。
「——聖女様」
と、そこに、恐る恐るとした声が二人に投げかけられた。
「……っ、な、なあに?」
「お取り込み中申し訳ございません。聖女様に、一目お会いしたいという者が尋ねてきておりまして」
「私に?」
「はい。なんでも昔お世話になったことがあるようで、一言礼が言いたい、と」
神殿の、門番をしている男だった。
民衆から礼を言われること自体は珍しくない。直々に会いたいとここへ訪ねて来る者も。普段は忙しく、そんな彼らと応対することはほとんどないが……
「それは、嬉しいわね。今日はちょうどお休みをいただいているし……ここまで、通してくださる?」
「了解しました」
「よろしくね。……ディーンも、そういうわけだから」
「……ああ」
ルナの言葉に、門番の男は素早く踵を返す。ルナもまたディーンを振り返りそう言った。ディーンはそれに軽く頷き、静かにその場を去った。
しばらくのち、門番に連れられ、一人の女性が礼拝堂へと姿を現した。
大きな麻の布で、頭まですっぽりと隠した女だった。ルナより一回りは年上の、痩せぎすの女だ。子供だろうか、その腕に布に包まれた何かを抱いている。
門番は女を中へと通すと、軽く一礼してその場を辞した。
女もまた頭を下げ、ゆっくりとルナの元へ歩いてくる。
小さな歩幅でルナのほど近くまで来ると、息混じりの掠れた声でこう言った。
「……もし。あなたが、聖女様ですね」
若い女性のものとは思えない、しわがれた声だった。
驚きつつも、ルナは笑顔で応じる。
「ええ、そうよ。私がルナ・ルクス」
「……ああ、ああ。あなたが、あの……! 私、ずっと、あなたに会いたかったの……!」
「嬉しいわ、ありがとう」
女はルナの顔を認めると、熱のこもった声でそう言った。子を抱いたまま、もう片方の手で口元を覆う。
熱烈な言葉に、だけどもルナの胸に小さな違和感が宿る。
『世話になった礼がしたい』と言う割には、ルナの方に見覚えが全くなかったのだ。
「ええと……ごめんなさい。私、物覚えが悪くって。どちらでお会いした方かしら?」
「あら、そんなもの。知らなくて当然だわ。世話になったのは私ではなく、息子だもの」
「息子さん?」
女の言葉に、ルナはきょとんと目を丸くした。まだ若い母親だ、息子といっても年端の行かない子供だろう。
そんな子供に、わざわざ礼を言われるほどのことをしたことがあっただろうか?
「ええ、息子よ。私の、かわいいかわいい息子。あの子の願いを、あなたが叶えてくれたの」
「そうだったの。ごめんなさいね、覚えがなくて」
「いいのよ、国中を巡ってらしたのでしょう? それならば息子のことなんて、きっとあなたには取るに足らないことだったのでしょうから」
「そんなことは、ないけれど……」
女の声は、歓喜に打ち震えるようでいて、だけどその言葉の一つ一つはどこか刺々しくルナを刺した。
どうしてだろう、背筋に冷たい汗が流れる。
「……そうよ。取るに足らないことだったの。だから、覚えてなどいなくても仕方ないの」
「あ、あの……?」
「ねえ、あなたのおかげなのよ。あなたのおかげで、村は助かった。あの子の、願いの通りに。そのおかげで——」
女の声が、だんだんと熱を帯びる。
村が、助かった?
その言葉に、胸の奥で何かが引っ掛かる。
女は、ジリジリとルナの方へと身を寄せた。気づけば眼前に女の顔が迫っている。
麻布の隙間から見える瞳がギラリと光った。芯のある焦茶の瞳。既視感を覚えた。
「……ねえ、見て」
「……?」
と、女は腕に抱いた布をそっとめくった。
ルナに見せつけるように、中のものを差し出す。
そして、
「——きゃああああああああっ!」
ルナは叫んだ。
後ろにのけぞり、ぶつかった壁にそのままもたれるようにしてへたり込む。
目にしたものが信じられず、ガクガクと膝が震える。
その腕の中、布に包まれていたその赤子は——
すでに、亡くなっていたのだ。
「見て。可愛らしいでしょう、私の娘。泣いている声すら愛らしくてね、とても小さな声でみいみい泣くの。子猫みたいでね、この子の兄も、大層可愛がってくれたわ」
「な、な……!」
「まだ一歳にもなっていなくてね、当然乳離れなんて夢のまた夢よ。だけど私の方が、だめな母親でね……お乳が、ほとんど出なくて。それでも乳を求めて、何度もみいみい泣くの。私たちには、それがたまらなくてね」
「……あなた、まさか、」
「この子を守るために、あの子はあなたを頼ったの。ねえ、わかる? あなたにとっては取るにならない子供の願い。その結果が、これよ」
「ひっ——!」
女はそう言って、すでに腐敗が始まっている赤子の亡骸をルナに見せつける。
衝撃的なその光景が、女の言葉が、ルナの脳裏を強かに打つ。
息子の願い。それによって助かった村。乳離れできていない妹。——まさか。
「まさか、あなた——エミルの……!?」
母親なの?
言いかけた言葉は、途中で途切れた。
女の瞳が鋭くルナを睨みつけ、声を張り上げたからだ。
「息子の名を気安く呼ぶな!」
激しい怒号が礼拝堂を裂く。それが何よりの答えだった。
ルナは激しいショックを受ける。
それなら、それならば。
彼女が抱くその亡骸は——
「エミルの……妹さん……?」
愕然として、ルナは呟いた。
妹がいるんだと。そう語った姿が胸をよぎる。
全身から血の気が引いた。
「お前の……お前のせいでしょう! お前が、あの子を殺したから……!」
そんなルナに、女は掴みかからんばかりに詰め寄り、叫んだ。
「土地が戻ったって、次の日に食べる麦が生えてくるわけじゃない! 畑が潤っても、今、腹を空かせた人間は救われない!」
「あの子が死んだあとも、村では次々に人が死んだ。この子も——この子も、その一人よ!」
泣き叫ぶように語られたその内容に、ルナは目を見開いた。
村人が、死んだ? あの、村の人たちが……?
ルナの脳裏に、畑の実りに喜び抱き合う彼らの姿がよぎった。まるで遠い世界の出来事のように、ぼんやりと見つめたその光景を。
「だ、だからって……! その子を弔いもせずに……!」
「埋められるものですか。この子を死なせたあなたに、一目見せるまでは」
「……っ!」
「お前が……お前が来るのが遅かったから。だから私は、愛する子供を二人も失った。……何が聖女よ! エミルの命一つ使って、お前は何を叶えた!? 何を救った!?」
引き裂かれるような声が、礼拝堂に響いた。
その声は厳かなその場所で何度も反響し、やがて消える。
その声に、言葉に。ルナは、頰を強く叩かれたような気持ちになった。
彼女の言うことが、信じられなかった。
だって、あの村は——エミルが、命をかけて守った村だ。
自分が犠牲になるから。だから他の誰も犠牲にはしないでくれと、そう語った村だ。
実りだってきちんと確認した。あの様子では、きっと秋には多くの収穫が見込めるだろう。——そう、秋には。
石床に膝をついたまま、母親の腕の中を見つめる。
鬼気迫る表情が、ルナに現実を教えてくれた。
——ああ。もしもこの眼前の光景が、全て真実だと言うのなら。
(私は——あの子の願いを、叶えてあげられなかったの?)
「ぁ……」
知らず、声が漏れた。
膝から力が抜ける。
そんなルナの姿に、エミルの母は尚更怒りを燃やした。
「何を今更、後悔したような顔をしているの。そんな顔をしたって、この子たちは帰ってこない……!」
と、エミルの母は、妹を抱く腕とは別の腕をそっと懐に差し込んだ。そして、
「その罪——その身で償いなさい!」
銀色の何かを取り出した。
ナイフだ。
鋭く光る切先をルナに向け、躊躇なく駆け出した。
至近距離に刃が迫る。
——避けられない。
「——ルナ!」
「……っ!?」
飛び込んできたのはディーンだった。
声と同時、長い腕でルナを庇い、その身でナイフを受け止める。
紅い傷が一筋、腕に走る。
怯むことなく女へ距離を詰めると、一瞬でその身体を翻し彼女を押さえつけた。
「きゃああっ! だ、誰よあなた!? 離して!」
「ちっ、おとなしくしろ。おい、ルナ、大丈夫か!?」
「ディ、ディーン……!? どうしてここに……!?」
「叫び声が聞こえたから戻ってきたんだよ。それより、なんだこの状況は」
「離せ、離せ——!」
怪我をしながらも平然とディーンは言ってのける。
そのうち、騒ぎを聞きつけ聖騎士たちが駆けつけてきた。
まだもがき続けるエミルの母を、ディーンは彼らに引き渡す。
「……っあなたにはわからないわ、神のために生きる女に!」
「……っ!」
幾人もの騎士に取り押さえられ、それでもまだ彼女の目は怒りに燃え、憎悪のこもった声でルナを罵倒した。
「世界のために生きる女に……っ世界と天秤にかけても、生きていてほしい人がいる女の気持ちが、わかるわけないわ——!」
——世界をも呪うような、強い怨嗟のこもった声だった。
声だけで人を殺せるような、深い、深い。
捨て台詞のようなその言葉が、ルナの心に深く突き刺さる。
「——こら、黙りなさい!」
「聖女様に向かって、無礼な——!」
彼女を捕らえる騎士たちが彼女の口を塞ぐ。そのまま引きずられるようにして、その身柄は礼拝堂から連れ出されていった。
「——…」
——パタリ。
閉ざされたその扉を、ルナは呆けたまま眺める。
膝からはまだ力が抜け、立ち上がることすらできない。
そんなルナの目の前に、すっと骨ばった手が差し伸べられた。
「——怪我はないか?」
「ディーン……ありがとう、私は大丈夫——」
言いかけて、その腕に一筋、切り裂かれた傷があるのに気づいた。
「あ、あなたの方が怪我してるじゃない! 早く治療院へ……!」
「あ? ああ、こんな擦り傷、たいしたことねえよ。もっとひどい怪我なんて日常茶飯事だ」
「だからって……!」
平然と言ってのけるディーンに、ルナだけが落ち着かない様子で彼の腕を引く。
そうだ、この程度の傷、『勇者』であるディーンにとって怪我のうちにも入らない。
そのはずなのに——なぜだろう、嫌な予感が止まらなかった。
「ああ、こんなものすぐに塞が——、」
そこで、ディーンの言葉が不自然に途切れた。
眉間にわずかな皺が寄る。
一度、二度と瞬きをして、焦点を確かめるようにルナを見た。
「……ディーン?」
パチリと瞬いた空色の瞳に、ゾッと背筋が粟立つ。
「何か変よ。やっぱり、治療院に行きましょう。なんなら私が祈ったっていいから……!」
「何を大袈裟な——……っ?」
「っディーン!?」
不安げなルナに軽く笑っていたディーンは、そこで唐突に上体を崩した。膝ががくりと石床につく。
「……っ」
「ディーン!? ディーン、どうしたの!?」
もともと白い顔から、さらに血の気が引いていく。呼吸が浅い。瞳は焦点を結ばず細かく揺れていた。
明らかに、様子がおかしい。
「……ル、ナ。…………に……げ………………」
「いやあ、ディーン! しっかりして! ——っ誰か! 誰か来て——!」
そこまで告げたところで、ディーンの身体から完全に力が抜けた。そのまま石床へと倒れ伏す。
その背をゆすっても、声を上げても瞼はぴくりとも動かない。
その目が閉じられる瞬間——
美しい空色が、昏く澱んだ気がした。




