17.ルナ・ルクス⑰
「その代わり、他の誰からも血をとらないで。母さんからも……働き手の男たちからも。他の、子供たちからも——」
その言葉に、ルナの中の何かが決壊した。
力無く首を横に振る。それしかできなかった。
「それでも……あなたじゃなくても、いいはずじゃない。他の、誰かでも……」
ぐるぐるぐるぐる、思考だけが巡る。
時間はない。
この子じゃないなら、誰に血をもらう?
そうだ、地主だというあの男の血を貰えば——
……だめだ。あの男の『願い』が豊穣ではなかったらどうする? 実りがなければ、結局この子は死んでしまう。この子が守りたい村の者たちも。
ならば、他に誰がいる?
今も村のために畑を耕す男衆か? 乳も出ないというこの子の母か? この子と同じように、貧困に喘ぐ子供たちか——?
ぐるぐるぐるぐる、動けずにいるルナに、少年はとどめを刺すように言った。
「だめだよ。僕が決めたんだ。それに——僕じゃないなら、誰か別の子になるだけだ。この村には、僕みたいな子供はたくさんいる」
——もう、何も言えなかった。
祭壇の蝋燭だけが照らす、薄暗い集会所。そこに、ひゅうひゅうという少年の苦しげな息の音だけが響いた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ルナは何かを言おうと顔を上げては唇を震わせ、また潤ませた瞳を隠すようにその顔を伏せた。
胸の前で両手を組み、神に祈るように両眼を閉じる。
それでも神は応えてくれない。
最後に強く唇を噛み締めた後——苦しげに、言葉を落とした。
「……ごめんなさい」
握り込んだ拳が痛い。
自分を叱咤するように、大きく息を吸い込んだ。
「あなたの血を……私に捧げて頂戴」
吐き出されたその声は、情けないほど震えていた。
*
——その『奇跡』は、壮絶なものだった。
少年は、神官からナイフと瓶を渡されると、なんのためらいもなく自らの腕を裂いた。枯れ枝のような細い腕から滴る血を、余すことなく血瓶へと注ぎ込む。ルナはその一滴も逃さないよう飲み干した。
幼い少年の身には大きすぎる『願い』。血の形となったそれがルナの喉を通るたび、炎のようにその身体を焼き腹の奥を暴れ回った。両手を組むたび二人の力を奪い、祈祷のために膝をつく少年の身体が何度も崩れた。一つ祈りを終えただけで、ぐったりと重い虚脱感が室内に充満する。
それでも少年は、ルナに祈りを続けるよう懇願する。「もう充分よ!」と叫ぶルナに、「まだ、これじゃあ足りない」と何度もその腕にナイフを刺した。また滴る血を、ルナは一滴残らず飲み込んだ。
血は何度もルナの喉を焼き、ただでさえ浅い少年の呼吸を奪う。
家族を守るため。村を救うため。
大それた『願い』に溢れたその血は、ルナの体内で燃えるような熱を持つ。
目を閉じるたび世界が揺れる。両手を組むたびに目の前の少年の姿が霞んだ。二人だけのその空間で何度も天地がひっくり返り、脳を突き抜けるようなひどい耳鳴りが何度も彼らを苛んだ。
——全ての儀式の終わり。
その頃にはもう、少年は自分の力では立ち上がることすらできなくなっていた。
*
狭い集会所には、ルナが肩で息をする音だけが響いていた。
少年の息はもう絶え絶えで、ルナの耳にすらもうほとんど届いていなかった。
祭壇に灯された蝋燭は、いつしか指先ほどの大きさになっていた。
薄く揺れるその光が、少年の青白い頬を照らす。
「……ねえ」
その頰にそっと触れる。
瞼がわずかに震えたのをたしかめて、ルナは囁くように少年に尋ねた。
「あなた……名前は、なんというの?」
ほとんど閉じかかった焦茶の瞳が、視線だけルナに向けられる。
その瞳にまだルナの姿が映っているのか、それすらももうわからない。
少年は、ボロボロになった唇を小さく開いて、また閉じた。
掠れた息だけが喉を鳴らすのを、ルナは辛抱強く待つ。
浅く息を吸い込む。
消え入りそうな声が、静かに空気を震わせた。
「……………………エミル」
「……そう」
小さな小さなその声に、ルナもまた小さく答える。
力なく床に投げ出された掌を、そっと持ち上げた。
「……エミル。私、忘れないわ、あなたのこと。絶対……」
ルナの言葉に、エミルは薄く微笑む。
その手を握り込むルナの手を、なけなしの力で柔く握り込んだ。
——————————
——————
————
——
——動かなくなったエミルを置いて、ルナはそっと集会所の扉を開けた。
天高く登っていた太陽はいつしか傾き、夕陽が空を紅く染めていた。
「——おい見ろ! 穂が、起き上がってるぞ!」
と、仰天したような声が聞こえ、そちらへと目をやる。
村の畑の前に、人だかりができていた。
「こっちも見て、あれだけ干上がっていた土が……!」
「水路の水が、きれい……」
「嘘だろう、こんなこと……本当に……?」
彼らの言う通り、畑一面の穂が風を受けて揺れていた。項垂れていた穂は真っ直ぐ空を向き、干上がっていた土には湿り気が戻っている。
その様子を、誰もが目を丸くして受け止めた。
まるで幻でも見ているかのような、信じられない光景を目にしているような、そんな目で。
「……奇跡だ」
誰かが呟いた。
その一言をきっかけに、村人たちはわっと歓声を上げた。
やつれていた表情に光が灯る。
抱き合う者、涙する者、畑へ駆け出す者。
その場にいる誰もが、その顔に喜びを見せていた。
その光景を——
ルナだけが、まるで別世界を見ているような心地で眺めていた。
民の笑顔も、喜びも。
いつもなら心が震えるほど嬉しいものなのに。それだけで祈祷の疲れも消え去ってしまうほど、ルナを支えてくれているもののはずなのに。
なのになぜだか今だけは、心が凍りついたように動かない。
その涙も歓声も、驚くほどあっさりとルナの胸を素通りしていく。
ひどく遠い出来事のように、ただ、その光景を見つめ続けた。
「——聖女様」
その背後に、穏やかな声がかけられた。
地主の男であった。
男は、静かな眼差しでルナを見据え、柔らかく声を落とした。
「ありがとうございました。これで、村は救われます」
そう言って、男は深く頭を下げた。
その姿にもやはり、ルナの心はぴくりとも動かなかった。
*
——翌朝。
出立の準備を整えた聖女一行に、村人たちは名残惜しそうに手を振った。
「ありがとう——!」
「これで今年も、畑が作れる」
口々に言う彼らに、ルナも一礼し、馬車へと乗り込む。
馬車が進む。その車窓から、一度だけ村を振り返った。
村の入り口には、幾人もの村人たちが、まだルナの馬車を見つめ大きく手を振っていた。
だけどその場にはエミルも、彼が守ろうとした家族の姿も——
一度として、現れることはなかった。




