16.ルナ・ルクス⑯
「飢饉……!?」
——大神殿、オーギュスト執務室。
いつものようにそこへと呼び出されたルナは、オーギュストに告げられた言葉に思わず声を荒げた。
「ええ。王国各地で不作、さらには飢饉の報せが上がっています」
「どうして……!? ここ最近は、地方への派遣といえば豊穣に関するものばかりだったと言うのに」
オーギュストが告げたのは、王国各地で起こっている不作と飢饉の報せ、そしてそれに伴う地方巡礼の命であった。
これにルナは困惑した。ここ最近の巡礼は、どれも豊穣を願うものばかりだったからだ。
この国に安寧が訪れるよう、自身の力が利用されぬよう、最新の注意を払って巡礼に臨んでいた。実りを確認し、その土地が豊穣へ向かったことまで見届けていた。
それなのに、飢饉? どうしてそんなことになったのか、全くわからなかった。
「すべては神の思し召し。神の御心を人が推し量ることはできません。ルナ、巡礼の命、受けてくれますね?」
「……はい」
オーギュストの言葉に、ルナは一拍置いて答えた。納得しきれない思いがあったのだ。
(どうして……私の祈りが足りなかった? まだ足りないの? ……これだけ、祈っても?)
心で思いながら、出立の準備を整える。知らされた旅程は、あまりにも長いものだった。
それだけ多くの土地を巡るということは、それだけ多くの祈りを捧げ、多くの血を呑まねばならないということでもある。
ルナは腹の奥に沈む重さを押し込み、静かに息を吐いた。
*
長い巡礼の旅が幕を開けた。
南の穀倉地帯から国の外れの寒村まで、ルナは国中の農地を巡った。
旅を共にする神官から、「大規模な農場だけでいいのではないか?」と言われることもあった。しかしルナはこれを固辞する。寒村の生まれであるルナは、不作の年に辺境の村がどれほど侘しい思いをするか知っていたからだ。
日々呑み下す血に喉を焼かれ、虚脱感の抜けない身体を馬車に揺られる。それでもルナは、祈りだけは決して怠らなかった。
(私の祈りが届かなかった人たちがいる)
そのことだけが、今のルナの心を支えていた。
——その村に訪れたのは、いくつかの農村を巡った後だった。
山あいにあるその村は、近隣の街へ農作物を卸して暮らしていた。しかし疫病で働き手を失い、収穫は激減。来年蒔く種さえ買えないほどだという。せめて今あるものだけでも実りがあるようにと、神殿に聖女に派遣を要請したらしい。
「これはこれは聖女様。お越しいただき感謝します」
その地の地主だというその男は、人好きのする柔和な笑みで聖女一行を迎えた。
目尻に皺の寄るその笑顔だけは柔らかいが、その奥に別の色を感じる。
今更気にすることでもない。地方を巡る旅、何度も見た色の瞳だった。
「長旅でお疲れでしょう、気持ちばかりですが、歓待の準備をしております。まずはお身体を休めてから——」
「いらないわ。それよりも先に、儀式を済ませてしまいましょう。農村にとって実りがないことがどれだけ心許ないことか、少しはわかるつもりよ」
「いやはや、さすがは聖女様ですな」
ルナの言葉に眉を下げて笑うと、地主は村の集会所へと彼女を案内した。
「神殿のような設備はありませんが……流石にお呼びだてしておいて土の上で祈れというわけにもいきません。簡易ではありますが、こちらに祭壇を用意いたしましたので、どうぞお使いください」
「ありがとう」
案内されたその場所は、ルナを迎えるために準備のされた後なのだろう、古くはあるが綺麗に整頓されていた。
荷馬車の整理は侍従へと任せ、ルナは一人その場所で祈祷の準備を始める。
「そうそう、もちろん、『血』の方も用意してございますので」
と、祭司服へと着替えたルナに、地主からそう声がかかった。
その物言いに、わずかばかり引っかかりを覚える。
「なんでも聖女様は、私めの血などではなく、民の血をご所望だとか」
「……ええ。気を悪くさせてしまったのならごめんなさいね。私のこの力は、願いの強さに依存するようなの。だからできれば農民のような、心から豊穣を願う者の血の方が、より強い『奇跡』が期待できると思うわ」
「とんでもない! むしろそれならば尚更、うってつけです」
地主はにこにこと笑ってそう言うと、集会所から一度外へと出た。おそらく血を捧ぐ誰かを連れてくるためだろう。
(うってつけ……?)
一人になったその場所で、ルナは小さく眉を寄せた。先ほどから、どこか引っかかるような物言いをする男だ。
——まあいい。彼の『血』を使うわけではない。この村に暮らす誰かの血で、自分は祈るのだ。彼が何を考えていようと、自分のすべきことは変わらない。
そんなルナの背後に、戻ってきた男の声がかけられた。
「——聖女様。『血』の準備が整いました」
「ああ、ありが——…!?」
振り返った先の光景に、息を呑んだ。
地主の男に並ぶ、小さな影。
ぼろ布のような服をまとい、肩を支えられるように俯いたまま動かない。
折れそうな細い肩だけが、浅く呼吸をしているのだけがわかった。
「彼が、此度の儀式で、貴女様に血を捧げる者です」
「なっ——!」
ルナは思わず声を上げた。
連れてこられたのは、どう見ても衰弱しきった子供だったからだ。
「ま、待ちなさい! 冗談でしょう、こんな子供に——いえ、それ以前に、こんな弱りきった状態で、これ以上血なんて取ったら死んでしまうわ!」
ルナは叫んだ。
目の前の少年は、立っているのが不思議なほど痩せ細っていた。骨ばった腕は細く、頬は落ち窪み、ただそこにいるだけで震えている。
こんな状態で、これ以上彼に何をさせようというのか。それでも彼が血を捧げるというのなら、祈るのは豊穣ではなく快癒だ。
「はて。この子では儀式には不相応ということですかな?」
声を荒げるルナに、だけども男はぱちくりと目を瞬いた。
「そういう意味ではなくて……! 『願い』さえあるのなら、誰の血で祈ることになっても構わないわ。だけど、この子はだめ。こんなの、自分の命を差し出すようなものじゃない……!」
「ふむ……それは困りましたな。収穫を逃せば、村は終わってしまう」
「困るだなんて。他にも農民はいるでしょう? 大人の人も——いえ、この際子供でもいい、もっと健康な子が……!」
「居はしますが……しかしこれは、この子自ら志願したことなのですよ」
「えっ——」
男の言葉に、ルナは目を見開いた。
そのまま少年を見下ろす。
少年は、まだ肩で小さく息をしながら、こくりと頷いた。
「……本当、です。僕が、血を捧げる役をやります。だから……どうかこの村のために、祈ってください。この村にも、聖女の『奇跡』を——」
ほとんど掠れた声で、少年は言う。光を失った焦茶の瞳で、ルナを見上げた。
「……!」
言葉を失った。
なんということだ。本音だ。ルナにはわかった。
彼は誰に強要されたわけでなく、ここにいる。自分の血を、命をルナに捧げるため、自分の意思で立っているのだ。
「そ、んな……!」
「おお、おお。よくぞ言った。さて聖女様、この通りです。この子は貴女様に血を捧げられることを、名誉と思ってここにいます。どうかご慈悲を」
「で、でも……!」
「血を捧ぐ者の『願い』が強いほど、その『奇跡』も期待できるのでしょう? 彼ならうってつけではないですか。村の、未来のために」
「……!」
地主はそう言い残すと、少年を置いておいて集会所を後にした。
木造の扉が静かに閉められる。
パタリと乾いた音が空虚に響いた。
(嘘……でしょう? 本当に、この子に血を捧げさせるつもりなの?)
少年と二人だけになったその場所で、ルナはひたすら考える。
(……嫌よ! これ以上この子を傷つけるだなんて……たとえこの子が望んだことだとしても、到底受け入れられない。誰でもいい——この子じゃない誰か。この子より体が丈夫な誰かなら——!)
心臓が嫌な音を立てる。
混乱で頭がぐるぐると回るようだった。
——ゴホッゴホッ。
と、そこで背後から咳の音が聞こえた。
ハッとして振り返る。
少年が、頼りない掌で口元を押さえ込んでいた。
「ご、ごめんなさい。立ったままじゃつらいわよね、今寝台に——」
その肩を支えようとするルナの手を、少年の枝のような腕が掴んだ。
「……いいんだ。聖女さん。そんなことしたって……どうせ僕は、長くは保たない……。その前に……どうか、僕の血を、呑んで……」
「バカを言わないで! 待っていて、まずはあなたの体を休めましょう。祈祷なんていつでもできるのだから、」
「よくない、でしょ……。他の場所も回らなきゃいけないから、この村に滞在できるのは、少しだけって、村長さんが言ってた……。それまでに、僕の体調なんて、戻りはしないよ……」
「それは……! そうだけど……でも、あと数日、あなたの回復を待つ間くらいなら——!」
「他の村にも……行かなきゃ、だめなんでしょう……? 僕たちだけ……助けてもらうわけには、いかないよ……」
「……!」
ルナのどんな言葉にも、少年は頷かない。むしろ弱々しいその声で、ルナを諭した。
「不作が続けば……家族が死んでしまう。生まれたばかりの、妹がいるんだ。母さんは……食べるものがなくて、お乳も出ない……」
耳をそばだててやっと聞こえるような、声になりきれない声。
まだ声変わりもしていない幼い声で、少年は続けた。
「僕の家だけじゃ、ないんだ……。村中みんな、苦しんでる。村を助けるためには……これくらいしか、僕にできることは、ないんだ……」
ルナはもう、何も言えなかった。
何か言いたくても、喉がつかえて何も言葉にならなかった。
言いようのない感情が渦巻く。
胸から込み上げてくる熱い感情に、泣き出してしまいそうなのに涙は一つもこぼれなかった。
そんなルナに、少年はそ口元だけでふっと笑って言った。
「お願いだよ……聖女さん。その代わり、他の誰からも血をとらないで。母さんからも……働き手の男たちからも。他の、子供たちからも——」




