15.ルナ・ルクス⑮
ルナの名声が高まるに連れ、多忙さも極めていった。
民衆の前に顔を出す機会も、地方から巡礼を要請されることも多くなった。ルナはほとんど休みなく働いた。
それはルナ自身が望んだことでもあった。忙しいのは自分誰かの役に立てている証拠であったし、何より聖務に没頭している間だけは、余計なことを考えずに済んだからだ。
そんな折であった。
最近、アネリアが妙なことを言うようになった。
「——ルナ様、お願いです。どうか、祈りの回数を減らしてください」
大神殿での祈祷の終わり、アネリアがどこか張り詰めた様子でそう話しかけてきた。
祈りというのは、今しがたルナが行っていた国の安寧を願う祈祷の儀のことだろう。
神官や巫女たちから血を捧げてもらい、それを媒介に祈る。ルナが聖女として立ってからほとんど毎日行っている、日課のようなものだった。
「なあにアネリア、心配してくれてるの? 私は大丈夫よ、祈りを怠ってまた国に未曾有の事態が起きる方が嫌だもの」
「それは……そう、なのですが……」
「……?」
案じるような表情を浮かべるアネリアに、心配させまいとルナは笑顔を作り明るく答える。心優しい彼女は、いつだってこうやって自分を気遣ってくれる。
だが、アネリアはどこか煮え切らない。
最近の彼女は、いつもこうだった。ルナが聖務に勤しんでいると、それを諌めるようなそぶりを見せる。
首を傾げるルナに、アネリアは切羽詰まったように訴えた。
「違うのです。皆が、心配なのです。最近は、日に何度もご祈祷されていますよね? それに付き添っている巫女たちから、訴えがあがっているのです。このままでは身体がもたない——と」
ルナは瞠目した。
(皆……って、私、そんなにたくさんの人に心配されていたの?)
そう考えたからだ。
そういえばアネリアだけでなく、自分と親しくしてくれている神官や巫女にも忠告めいたことを言われたことがあった。
たしかに最近忙しくしていた自覚はあるが——本来ならば自分が導かねばならぬ者たちに、そこまでの気苦労をかけていたとは。ルナは自省した。
「気がつかなかったわ、ごめんなさい。でも、これは必要なことなの。これ以上の無理はしないから、許してくれない?」
「これ以上だなんて……! もうすでに、限界なのです。ルナ様が気づいておられないだけで……」
「そんな、大袈裟よ」
「大袈裟なんかじゃありません! どうして、皆の顔を見てくださらないのですか!」
そこで初めて、アネリアは大きく声を上げた。
少し潤んだ若葉色の瞳でルナを見つめる。その視線に、ルナは少しだけ狼狽えた。
そこまで言われるほど、自分は無理をしているように見えるのだろうか?
だが、どれだけ言われようと、曲げられない矜持があった。
今のルナにとって、『聖女』として励むことそのものが存在意義であり、心の支えなのだ。それを止めるのは、いくらアネリアの頼みでも頷けなかった。
「——できないわ」
突き放すようにそう答えるルナに、アネリアは目を見開く。
「ど、どうして」
「さっきも言ったでしょう。毎日の祈祷をやめて、また疫病のような災禍に見舞われたら、そちらの方が大変だもの。私も、もちろんあなたたちもね」
「……」
ルナの言葉に、アネリアは小さく肩を落とす。
……わかってくれただろうか?
ルナはその表情を伺うように、彼女の伏せた顔を覗き込んだ。
「っでは……! せめて、お飲みになる血の量を減らしてください。一日にあれだけの分を摂取されて……このままでは、いつ倒れてしまうか……!」
「……!」
だがアネリアは、なおも言葉を重ねる。その言葉に、ルナはぎくりとした。
祈祷を終えたばかりの腹の奥は今も鉛のように重く、身体には虚脱感があった。
(まさか……気づかれた?)
他者の『血』を、『願い』を呑み込むことの負担。それはルナが他人に知られたくないことの一つだ。特にアネリアなどに知られたら、聖務を制限されかねない。
焦ったルナは、誤魔化すようにわざとらしく声を上げた。
「——だ、大丈夫よ! 一日にたった数回の祈祷で、音を上げるなんて情けないわ!」
「……っ!」
「用はそれだけ? それじゃあ……私はまだ聖務が残っているから」
「お、お待ちくださいルナ様……!」
まだ縋り付くアネリアに、ルナは「忙しいから」「また後で聞くから」と突っぱねる。
「それに——本当に無理はどうかは、私が決めることだわ」
「——!」
そしてそれだけ言い残し、ルナはアネリアを置いて去る。
彼女の瞳が絶望に染まったのすら気づかず、そのまま神殿の回廊を足早に進んで行った。
*
「ルナ様……」
石畳の回廊を、颯爽と歩く足音だけが響く。
小さくなっていくルナの後ろ姿に、アネリアは一人立ち尽くすことしかできなかった。
(どうして……どうして、聞く耳すら持ってくださらないの?)
絶望に打ちひしがれながら、アネリアは小さく唇を噛む。
(祈祷のために血を取られすぎて、みんな、もう限界だというのに……!)
アネリアの脳裏に浮かぶのは、祈祷のたび血を捧げる神官や巫女たちだった。
かつては誉れだったその役目も、今ではもう違う。繰り返し血を捧げ続け、仲間たちは目に見えて衰弱していた。
(だからこうして、何度もお止めしようとしているのに……)
だというのに、ルナはアネリアの言葉を受け止めてくれない。何度忠告しても、「私は大丈夫」「今忙しいから」そんな言葉を繰り返すばかりだ。
昔は、そんなことなかったのに。聖女という立場でありながら、アネリアや他の巫女たちのこともよく見てくれる、心優しい御方だったのに——
どうすればいいのかわからなかった。ただただ途方に暮れた、その時だった。
「——貴女、大丈夫?」
肩を落とすアネリアの背後から、気位の高い女の声がかけられた。
「こんなところで立ち尽くして……何かあったの?」
「か、カトリナ様……!? も、申し訳ございません……!」
振り向いて、驚く。
声の主は、カトリナだったのだ。
慌てて礼を取ろうとするアネリアを、カトリナは笑顔で制した。
「いいのよ、そんなに畏まらなくて。それより貴女、とてもひどい顔をしているわ。何か困っていることがあるのではなくて?」
「……っ」
優しげにそう言われ、必死に張り詰めていた心がふっと緩みそうになる。
どうすればいいのかわからなかった。誰を頼ればいいのかも。
だけどこの御方なら、何か知恵を貸してくださるかもしれない。そう思ったのだ。
「——わたくしは、あなたの味方よ」
紫の瞳が、優雅に細められる。
その眼差しから、アネリアはどうしても目を逸らせなかった。
——同時刻。
大神殿、聖務局前。
アネリアと別れたルナは、次の聖務のためそこへと立ち寄っていた。
「わ、ごめんなさい!」
と、曲がり角で誰かとぶつかりかけ、思わず謝罪の言葉を吐く。
曲がり角の先、ルナを見下ろしていたのは、
「……ディーン」
「……」
ディーンであった。
彼はルナをその視界に認めると、何も言わず軽く会釈だけをしてその場を去る。
その態度に、ルナの胸が小さく軋んだ。
だけど仕方ないことだ。ルナは思い直し、また足を進めた。
……自分のその後ろ姿を、ディーンが振り返り見つめていることにも気づかずに。
「——もどかしいですね、二人とも」
ルナの去ったその場所を見つめ続けるディーンに、ふとそんな声が降った。
「……オーギュスト」
「君たちの仲睦まじい様子を見るのが、私は嫌いではなかったのですがね。どうしたんです? 最近はすっかり、他人行儀ではありませんか」
「……別に。お前には関係ないだろう」
「おや、冷たいですね」
ディーンの背後から現れたオーギュストが、害意を感じさせない柔和な雰囲気で言う。
すげない態度を返すディーンに、穏やかな笑みを崩さないまま続けた。
「私としては、『勇者』と『聖女』として正しくさえあれば、君たちがどんな関係でいようがかまわないのですがね。そうと思わない者もいる……難しいですね、人の心というのは」
「……」
「君も、最近はずいぶん真面目になった。心を入れ替えるような何かがあったのではないですか?」
「……真面目なんかじゃないさ」
そう尋ねるオーギュストの口調は、どこまでも柔らかだった。
どこまでも彼らに寄り添うような声色。だが、その穏やかさの奥にある何かを、ディーンは本能的に警戒していた。
ルナの去った回廊の先に視線をやる。ややあって、ディーンはぼそりと言葉を落とした。
「……俺はもともと、真面目な質じゃない。あいつと違って、国のためだとか民のために、『勇者』をやっているわけじゃない」
「……? 知っていますよ。どうしたのですか、いきなり」
「ただ戦えればそれでいい。だから、あんたが何をしていようと、それに反抗するつもりはない。……だが、」
そこで言葉を止める。
空色の瞳がオーギュストに向けられた。
「だが——ルナを利用するなら話は別だ。それだけは、覚えておけ」
「……」
凍てつくような声がその場に落ちる。
オーギュストを見据えるその瞳も、今は冷ややかな冷気に満ちていた。
真っ向からそれを浴び、オーギュストは静かに目を細めた。
「……ずいぶんな誤解ですね」
人当たりのいい笑顔は、それでもまだ崩れない。
「私は、君たちの味方ですよ?」
「そうか。それなら、俺も嬉しいんだがな」
「……」
はぐらかすように言うオーギュストに、ディーンはそうとだけ言い残し踵を返した。そのままルナとは反対方向へと歩みを進める。
石畳を歩く靴音だけが響く。
その音が小さくなっていくのを聞きながら、オーギュストは小さく呟いた。
「……揃いも揃って、扱いづらくなりましたね」
その声は、誰の耳に留まることもなく消えていった。
——日常は、かくして流れる。小さな波紋を落としながら。
そしてその波紋を、大きく広げる事件が起こる。
それは、ルナが地方巡礼に向かった先のことであった。




