12.ルナ・ルクス⑫
——それからディーンは、今までの不真面目な態度が嘘のように、精力的に聖務に取り組むようになった。
堅苦しいと逃げ回っていた儀式や式典も放り出さず、大量の書類を渡されれば黙々とこなす。かといって今まで行っていた遠征や巡回も力を抜くことはない。
まるで一時期のルナのように、ディーンは寝る間も惜しんで働く。それを「正義の犬」と揶揄する者も中にはいたが、ほとんどの神殿関係者はその変化に喜んだ。
「ああ、勇者様が変わられた」
「ようやく勇者としてのご自覚が芽生えたのだ」——と。
——その理由を知る者はほとんどいない。ディーンは、まるで心を殺すように聖務へ没頭していた。
その理由にいち早く気づいたのは、意外にも彼女であった。
「……貴女、ディーン様のことが好きなんでしょう。どうしてそんな態度を取るの」
偶然居合わせたルナに対し、カトリナは不躾にそう言った。
いつもの意地悪い声色とは違う、純然たる怒りと疑問が滲んだ口調だった。
「好きだなんて、そんな……」
「そんな誤魔化しがわたくしに通じるとでも? 貴女の所為なのでしょう、ディーン様の憔悴したあのお姿……見ていられないわ」
「……」
自分の想いも、ディーンの変化も、言い当てられたことに驚く。そして同時に、まるで普通の少女のように「好き」と言ってしまえるカトリナを、ルナは少しだけ羨ましく思った。
だけどルナはきゅっと唇を結び、短く言葉を返した。
「私は、聖女として正しい行動をしているだけです」
「——っ!」
唇を噛み締めるように告げたその言葉は、だけどもカトリナを怒らせるには充分だったらしい。
いくばくかの沈黙の後、カトリナは吐き捨てるように言った。
「——貴女にとって、そんな容易に捨てられるものだったのね。彼の方の『隣』は」
……それからも、顔を合わせるたびに冷酷な瞳で睨まれ、言葉一つ一つに棘を持って接される。今までの侮蔑とはまた違う、失望と怒りが混じった視線だった。
それでもその全てを、ルナは甘んじて受け入れる。
カトリナが憤る理由はわかる。反論などしようもなかった。
——だからよっぽど、こちらの方が厄介だった。
「——久しいな、聖女」
背後からかけられた声に、ルナはげんなりとした気持ちで振り返る。
振り向いたその先に立つ、格調高い紫の髪と瞳。威厳ある立ち振る舞い、尊大な表情。
「そろそろ我が城に抱えられる覚悟は決まったか?」
第七王子、ヴァレリー。ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティア。
——以前からルナに異常な執着を見せるその男が、不遜な態度でそこに立っていた。
*
「……お断りします。私は聖女、神に全てを捧げた身ですから」
横柄な態度でそう話しかけてくるヴァレリーに、ルナは低い声でそう答えた。
もう何度も繰り返した断り文句。ヴァレリーは余裕ぶった表情でそれを受け止めると、「ほう?」と片眉を上げて嗤った。
——嫌な笑い方だ。彼とこうして相対するのは初めてのことではない。それでも自分以外の全てを見下しているようなこの男の態度が、ルナはどうしても得意ではなかった。
「神、か。勇者とは、乳繰りあっているのに?」
「なっ——!?」
投げかけられた言葉に、ルナは思わず顔を上げた。
カッと頬を赤くする。
「あ、あの噂のことなら誤解です! 私とディーンは、そんな関係ではありません!」
「ほう? だが惚れているのは事実なのだろう?」
「そんなことは……!」
「なら何故そんな顔をする。ククク、『聖女』が、そうしているとただの娘のようだな」
「何を——」
ヴァレリーは、言いながら一歩、一歩とルナの方へ歩みを進めた。
だんだんと近づいてくる距離に、心を見透かしたような言葉に、狼狽える。
「しかし、理解できぬな。貴様も、勇者も。なぜ欲するものがあるのに手を伸ばさぬ? それを叶える力が、地位が、貴様にもあるだろうに」
「……この力は、神のため、民のためにある力。それを、私欲のために使うことはできません」
「はっ、莫迦莫迦しい。神だの民だの、奴らが貴様のために何をしてくれる? むしろ縛られ、苦しめられているのが今だろう」
「……」
「これでも俺は、貴様を気に入っているのだ。その稀有な見た目も、能力も、神などに縛られるには惜しい。俺の元へ来い。貴様が望むのなら、どんなものでも与えてやろう」
「……」
ヴァレリーは言いながら、ルナの黒髪を一房とった。
傲慢に見下ろしながら、ニヤリとその口角を上げる。
——それは、魅力的な誘いに思えた。
末席とはいえ王族、そして何より父王の寵愛を受けているこの男には、事実手に入らないものなどこの国にはないのだろう。
加えてこの自尊心だ、ルナが望むのなら、本当になんだって用意するつもりだ。そのプライドにかけて。
平民の出であるルナにとっては、想像もできなかった未来だ。
その手を取れば、身を削って祈る日々も終わるのだろう。
——それでも。
「……お断りします」
芯の通った声で、ルナは答えた。
「まだ断るか? 自由をくれてやると言っているのだぞ?」
「自由など。最初から、捨てるつもりでここへ来ました」
「解せぬ。俺様よりも、この古臭い神殿に縛られ続けることを選ぶというのか?」
「はい」
「……何故」
そう問うヴァレリーの機嫌が、一段下がったのがわかった。
髪を掴んでいた指先に力が籠る。
また一歩近づく距離。長身に見下ろされ、ルナの頭上に影が落ちた。
傲慢に見下ろす紫の瞳を、負けじと睨み上げる。
「己が何を辞しているのか、わかっているのか? 王族の寵だぞ?」
「はい」
「我が城より、この場所の方が価値があると? 我が愛を受けるより、下賎の民のために祈ることを選ぶと?」
「——はい」
「理解できん。聖女よ、この俺が寛大な心を見せているうちに、その首を縦に振った方がいい」
ヴァレリーはそれでも食い下がる。幼子のような執着だった。ルナは黙って首を横に振る。
その態度に、ヴァレリーは隠すこともなく眉を顰めた。空気がピリと張り詰める。
「……これでもまだ足りぬというのか? ならば貴様は何を望む。勇者か? あれが欲しいというなら付けてやる」
その言葉に、腹の奥がカッと熱を持った。
ディーンを物のように言われたことも、自分の覚悟を軽々しく見られたことも。
湧き上がった怒りをどうにか抑える。しかし、
「これでも俺は心が広いのだ、貴様が勇者を飼うことも許してやる。人は地位に従うもの、勇者も例外ではない」
続けて言われたその言葉に、心の何かがプチリと切れた。
パンッ——
髪に触れていた手を強く振り払った。乾いた音が神殿に響く。
真っ直ぐに前を見据え、ルナは宣う。
「お言葉ですが殿下——私は、誰かの所有物になるために祈っているわけではありません」
その言葉を、ヴァレリーは信じられないような表情で聞いた。
「それがあなたであれ、……——勇者であれ。私は、誰か一人のものになるつもりはございません。まして、誰かを自分のものにするために、この力を使うことも、決して」
揺るぎない意志を持って、ルナは言う。
それは、『聖女として生きる』という宣言に他ならなかった。
それが誰であっても、差し伸べられた手を取ることはない。
恋でなく、欲でもなく——ただ、神のために。民のために生きると。
神聖なるその宣言は、だけどもヴァレリーにとっては絶対的な拒絶だ。
その言葉を聞いた途端、ヴァレリーはその表情を大きく歪めた。
「——なるほど。それが、貴様の答えか」
低く呟かれた言葉には、明らかな怒気が滲んでいた。
上げたままだった手をそっと下ろし、興味を失ったような瞳でルナを見下ろす。
そして、わずかに口角を持ち上げ、嘲るような笑顔を作った。
挑発的なその笑みは、だけども底冷えするような色を持っていた。
「ならばいい。その強情がいつまで続くか、見せてもらおうではないか。この俺様の誘いを退けたこと、せいぜい後悔することだな」
ヴァレリーはそう言うと、冷たい視線だけをルナに残し、くるりと踵を返した。
そしてそのまま、足を大きく鳴らし去っていく。
「……」
ルナもまた、その背中を見送ることもなく、彼とは反対方向へと向かって歩き出す。
(——関係ない。殿下に何を言われようと、何をされようと、私がすることは変わらないのだから)
ヴァレリーの怒りとは裏腹に、ルナはいっそ吹っ切れたような気持ちになっていた。
ようやく踏ん切りがついたのかもしれない。彼に揶揄われたことによって、かえって自分のすべきことを見つめ直せた気がした。
痛みが消えたわけではない。
あの日ディーンに言えなかった言葉が、胸から消えることもない。
——それでも。
国のために、民のために。ただ祈りを捧げる続ける。
その誓いをあらためて胸に刻んだ。
痛むこの『心』ごと、神に捧げるのだ。
——それが、『聖女』というものなのだから。




