11.ルナ・ルクス⑪
「……あ」
「……おう。久しぶり」
ある日のことだった。
その日の聖務を終え、祈祷の間を出たルナは、その先で偶然ディーンと居合わせた。
「こんな時間まで祈祷か? よくやるな」
「……ディーンこそ。こんな時間にこんな場所を通るなんて、珍しいわね」
「俺が祈りを捧げに来るのは、おかしいか?」
「そういうわけでは、ないけど……」
軽く言葉を交わしながら、ルナはどこか気まずい想いに駆られていた。
ここ最近のルナは、ディーンを徹底的に遠ざけていた。こうして顔を合わせて話すのは、ずいぶん久々のことだった。
ディーンは優しい男だ。ルナの弱さに、いつだって目ざとく気づく。だからこそ、会いたくなかった。
特に、祈祷が終わったばかりの時は……
「……ごめんなさい、私、まだ用事があるから、っ……!」
「、ルナ!?」
そう言って、一歩足を踏み出した時だった。
ぐらり、脚の力が抜けた。身体が傾き、その場に倒れ込みそうになる。
「おい、大丈夫か!?」
「だ、だいじょ……」
「どこがだよ、顔も真っ青じゃねえか……」
寸でのところで、ディーンがその身体を支える。
その肩にもたれながら、ルナは思う。——失敗した、と。
最近はいつもこうだった。祈祷を終えるたび、身体中の力が抜け、目眩が治まるまで祈祷の間から動けないことも珍しくない。
今日は早めに自室へ戻ろうとした——それが裏目に出た。
祈祷すら満足にできない、情けないこんな姿。ディーンにだけは、見られたくなかったのに。
悔しさに奥歯を噛み締める。そんなルナに気づかないままディーンは、「また無理してるんじゃないか?」と、肩を支えたままもう片方の手で額に触れた。
その温もりに心が震える。
——だけど。
まだ震える脚で無理やり立ち上がり、ルナはその腕を拒んだ。
「だ、大丈夫よ! ずっと膝をついていたから、少し立ち眩みをしただけ。心配されるようなことじゃないわ」
無理に口元だけを持ち上げて、そう告げる。
「……それじゃあ、」そのまま踵を返し、その場を辞そうとした。長い聖女服の裾が、ひらりと翻る。
「——待てよ!」
その腕を、ディーンがパシリと掴んだ。
「な、何?」
「何、じゃないだろ。そんなあからさまに避けられて」
「避けてなんか……」
「なら、なんでこっちを見ないんだよ」
「……っ」
腕を強く掴まれたまま言われ、押し黙る。
顔なんか、見れるわけがなかった。
その目を見てしまえば、「会いたかった」の一言が零れてしまいそうだった。
顔を伏せたまま、黙り込む。長い黒髪に隠して、ぎゅっとその両目を閉じた。
そんなルナの頭上に、
「……俺、お前に、何かしたか?」
——悲しげな声が、小さく降った。
「——え?」
「だって、ずっと避けてるだろ、俺のこと。最近、あの丘にも来ない。部屋を訪ねてもいない。流石におかしいって、俺でも気づく」
「おかしくなんか……ただ、忙しいだけで」
「嘘つけ。聖務も祈祷も、必要以上に増やしてるって聞いた。そうやって自分の身体に無理してまで、避けたくなるようなことを俺はしたのか?」
「無理なんてしてないわ。必要があるからやっているだけよ。ディーンは関係ない」
「関係ないならなおのこと、目を逸らすのはおかしいだろ!」
「……」
顔を伏せたまま否定を繰り返すルナに、ディーンはそれでも食い下がる。
悲しげだった声色が、だんだんと熱を帯びた。
「それが本音なら、俺の顔を見て言えるだろ」
「……」
「……頼むから、こっちを見てくれよ」
「……」
「なあ、ルナ……っ!」
一歩近づき、ディーンはさらに言葉を重ねる。
それでもルナは黙したまま、何も言わない。
ディーンは苦しそうに息を吐くと、痺れを切らしたようにルナの顎をぐいと持ち上げた。
「……同じことを、俺の目を見て言ってみろよ!」
「——っ!」
言われると同時、伏せていた顔が無理やり上がり、目の前の瞳とばちりと合った。
青空色が、真っ直ぐにルナを射抜く。
その色に囚われた瞬間——
くしゃり。
耐えられず、表情が歪んだ。
見られたくなくて、すぐに顔を逸らす。
「……離して」
顔に添えられたままの手を掴み、弱々しくそう言った。
すぐ目の前にいるディーンが、ぐっと息を呑み込むのがわかった。
「……なあ、やっぱり何かあるんだろう。そんな顔をするほど」
「……ちがう」
「何が違う? 言ってくれないとわからない」
「……」
「……俺じゃ、頼りないか……?」
「……」
ディーンの言葉に、ルナは力無く首を振る。
否定の言葉すら、今は声になってくれなかった。
沈黙が落ちる。
「……お前だって、俺がいないと退屈だって、言ってくれたじゃないか」
ぽつり。
静寂の広がるその場所に、消え入りそうな声が落ちた。
「あれは、嘘だったのか? 俺がいなくても、ルナは平気なのか?」
「そ、それは」
「俺は、平気じゃなかったよ。最近は、何をしてても面白くなかった。お前が何をしているか気になった」
「……」
「笑ってるんならいい。ただ忙しくしてるだけならいい。だけど避けられたら落ち着かない……何でだろうって、ずっと考えてた」
「……ディーン?」
ディーンは言いながら、ルナの顔に添えていた手でそのまま頰をなぞった。
優しい指先から頰に、じわりと熱が伝わる。
嫌な予感がした。
「……地方へ行くたび無事に帰るか気になって、姿が見えないとまた俺の知らないところで泣いてるんじゃないかって心配だった。何かあった時頼ってくるのが嬉しかった。……その全部が当たり前になってた。無くなって、初めて気づいた」
まるで独り言を言うように、ディーンはそう語った。
頬に触れていた手が、さらりと髪を撫でていく。初めて触れられた時とはまるで違う、慈しむような手つきだった。
その手が自身に触れるたび、心臓が嫌な音を立てていく。
——待って、言わないで。
そう言いたいのに、真っ直ぐな瞳に縫い止められて、声が出ない。
もう一度正面からルナを見つめ——ディーンは言った。
「お前が好きだ」
——その言葉は、絶望だった。
呼吸が止まった。
世界から音が消えた。
空を閉じ込めたような瞳が、真っ直ぐに見下ろしてくる。
ディーンは続けた。
「好きだ——ルナ。お前が一人傷つくのが嫌だ。お前に避けられるのは——もっと嫌だ。お前が誰かのために心をすり減らすなら、そんなお前の支えでありたい。そんなものいらないと、お前が本心から言うならそれでいい。だけど——俺が原因でお前が苦しんでいるのなら、俺はそれを許せない」
心が大きく震える。感じたのはたしかな喜びだった。
「私もよ」そう言ってしまいたかった。そう言ってしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
唇が震える。もう言葉は喉まで出かけていた。
それを言えば終わる。きっと幸せになれる。
だけど——
——その『心』ごと、神に捧げたのが我々なのですよ。
オーギュストの言葉が、胸に大きく響いた。
「——だめ!」
——気づいた時には、その身体を押し除けていた。
両手でその胸を強く突っぱね、そのまま顔を伏せる。
項垂れたまま、低く言葉を落とした。
「……だめよ、ディーン。私たちは、『聖女』と『勇者』。その想いは、持ってはいけないの」
囁くような声が、やけに響いて聞こえた。
自分で言いながら、自分に言い聞かせているようだ。
「、それは……!」
「だめ。だめなのよ、ディーン。お願い、わかって」
「……っだが! 心までは、止められないだろう!? ただ好きでいることは、何も悪いことじゃないはずだ!」
「……っ!」
何度も首を振る。それでもディーンは引き下がらない。
ディーンから何か言われるたび、胸が裂けるような想いがした。
振り払うように叫ぶ。
「——私たちに心はいらないのよ!」
悲痛を帯びた声が、静かな回廊に響いた。
その声はこだまして、何度も自分たちの耳に入る。
誰も、何も、言わななかった。
痛いほどの静寂が落ちる。
ディーンはただ、ルナを見つめていた。
長い沈黙のあと、ディーンが小さく息を飲み込む。
「…………そうか」
——どれくらい経った頃だろうか。
ようやく、ディーンがそうとだけ呟いた。
恐る恐る顔を上げる。
「……俺の心なんて、いらないのか」
——そうこぼしたディーンの表情には、悲しみと、自嘲が滲んでいた。
「……わかった。しつこくして、悪かったな」
「あっ、ディ……!」
そして、そのまま踵を返し、ルナを置いてその場を去ろうとする。
引き止めようと思わず声が出るのを、咄嗟に飲み込んだ。
伸ばしかけた手が中途半端に宙で止まり——そのまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
背中がだんだん遠くなる。
それを何度も追いかけたい衝動に駆られて、だけどできるはずもなく、ただただ見つめる。
やがて見えなくなってしまった後、脱力するように、その場合にずるずるとへたり込んだ。
(……泣くな)
気づけば、涙が溢れていた。
伸ばした裾で必死に拭う。
傷ついているのはディーンの方だ、私に泣く資格なんてない。
そう何度言い聞かせても、涙は止まらなかった。
——涙を拭ってくれる手は、もうどこにもないというのに。




