10.ルナ・ルクス⑩
「……申し訳、ありません」
——大神殿、中央塔。
オーギュストの執務室、その中央で、ルナは深く頭を下げていた。
打ちのめされた様子の彼女に、オーギュストは困ったように眉を下げ、気遣わしげな笑みを浮かべたまま言った。
「怒っているわけではないのですよ、ルナ。君たちがことさら仲がいいのは知ってました。たまに神殿を抜け出していることもね」
「……はい」
「ただ……『勇者』と『聖女』が揃って聖務を怠っているなどという噂が立つのは、喜ばしいことではありません。それが全くの事実無根であったとしても、です」
「……」
オーギュストの言葉に、ルナは返す言葉もなかった。
ルナとディーン、二人の秘密の丘でのやり取りは、どうやら民に見られていたらしい。気づいた頃には、根も葉もない噂が王都中を駆け巡っていた。
『聖女と勇者は聖務を怠り逢い引きしているらしい』
『そのせいで神の不興を買い、疫病や不作が巻き起こったらしい』——
尾ひれのついたその噂は、瞬く間に王都中に広がった。
神殿へ抗議に訪れる者もいるほどらしい。そのことを重く見られ、ルナはこうしてオーギュストに呼び出されたのだ。
——こんなに大事になるなんて、思っていなかった。
自分たちはただ、あの場所で語り合っていただけなのに。まして逢い引きだなんて……自分の方はともかく、ディーンにはそんなつもりはかけらもない。
ただ、立場の近い者同士、一緒にいると落ち着くというだけ。かけがえのない友人として、そばにいたいだけなのに。
「特にルナ、あなたが聖務を怠っているだなんて、神殿の者は誰も信じてはいません。ディーンも、まあ、サボり癖はありますが、『勇者』としての功績は疑いようはない。取り立てて叱責するほどのことではない、というのが私たちの考えです」
「……ありがとう、ございます」
「しかし、民衆の手前、何も対処をしないというわけにもいきません。……ルナ、しばらくの間、聖務以外でディーンと会うのは控えてください」
「……!」
オーギュストの言葉に、ルナは衝撃を受けた。
「聖務以外って、この神殿の中で、会って話をするのも……!?」
「ええ。神殿に出入りする民もいますから」
「だからって……! 私たち、本当に何もないのよ!? 神殿を抜け出していたことは反省するわ。もうしない。でも……!」
「それでも、です。どんなに言葉を尽くしても、民の心に根付いた不信感は簡単には消えてくれません。彼らの心に不安の種があるのなら、それが取り除かれるまで、尽力せねばならない。それが、私たち神の信徒の責務なのです」
「そんな……」
ルナは愕然とした。
ディーンとの些細な触れ合いは、彼女にとって心の支えだった。
日々の聖務も、厳しい巡礼も、ディーンがいるから頑張れた。だというのに——
(ただそばにいることすら、奪われてしまうの……?)
それは、ディーンへの想いを自覚したばかりのルナにとって、あまりにもつらい罰だった。
「……ディーンと、ただ友達でいたいと言う心すら、制限されなくちゃいけないの……?」
「……その『心』ごと、神に捧げたのが我々なのですよ、ルナ」
「……」
「何も、友人であることまでやめろと言っているわけではないのです。だが、これはディーンにとっても悪評になってしまう。せめて、噂が落ち着くまでは……」
淡々と、オーギュストは続けた。
その声に滲むのは、怒りではない。叱責でも、説教ですらなかった。
わがままな子供に教え諭すような口調。わがままを言っている自分を、嫌でも自覚させられた。
「……わかってくれますね、ルナ」
「……はい」
最後にそう言われ、ルナは力なく頷く。そして、そのまま静かに執務室を辞した。
オーギュストは、何も間違ったことは言っていない。
わがままなのは自分の方だ。だけど——
「……ルナ?」
執務室の前。その扉に背を預け、項垂れるルナに声がかかった。
顔を上げると、そこにはディーンが立っていた。
いつもの騎士服のまま、いつものように軽い調子で話しかけてくる。
「お前も呼び出されたのか? めんどくさいことになったよなあ、ほんと」
「……」
「『勇者』だろうが『聖女』だろうが、任務外で何してようが人の勝手だろうって——……ルナ?」
「……ごめん、私、用事があるから」
「え?」
変わらない態度を貫くディーンに、だけどルナは短くそうとだけ告げ、その場を後にした。
その顔を見ることすらせず、中央塔の廊下を足早に駆ける。目を合わせたら、決意が揺らぎそうだったのだ。
『ディーンにとっても悪評になってしまう。せめて、噂が落ち着くまでは……』
オーギュストの言葉だけが、ルナの頭に何度も反芻される。
噂も悪評も、自分だけならいい。——でも、ディーンの迷惑にはなることだけは、何があっても避けたかった。
「おい、ルナ!?」
背後から名前を呼ばれる。
振り向くことはないその声を、ただ、噛み締めるように背中で聞いていた。
——それからルナは、少しでも時間があれば、祈祷の間に籠るようになった。
ディーンと顔を合わせないためだ。徹底的に彼を避けた。
『祈りの時間を増やしたい』と言ったら、聖務官はすぐに調整してくれた。
アネリアや、他の巫女たちと顔を合わせることもほとんどなくなっていった。
毎日毎日、ルナの前には誰のものともわからない血が並ぶ。
ある日は新米の神官たちに血を捧げさせ、
ある日は民衆に門戸を開き、その願いを聞いた。
『王国に安寧を』
『我が領地に豊穣を』
『病の完治を』
『どうか自分にも、その血の奇跡を——』
毎日毎日、どろりと色濃い願いを浴びせられ、重苦しい血を呑み続ける。
飲んで、飲んで、飲んで。祈って、祈って、祈って——
ただ一人、願いを叶え続ける。誰とも知らない者の願いを。
他人の血を、願いを呑み下す行為は、文字通りだけの意味を持たない。
血が喉を焼く。
飲み込んだはずのそれは腹の奥で渦を巻き、自分ではない誰かの感情が胸を重く満たした。身体が異物として拒むのを、意地だけで呑み込んだこともある。
そして一つの祈りが終える頃には、そのまま立てなくなることもあるほど消耗した。まるで、体の力すべてを、神に持っていかれたかのように。
それでもルナは、血を呑み続けた。
それが誰かのためになるのなら。自分の力が、誰かを幸せにするのなら。
今日も血を呑む。祈る。願いを叶える。また一つ、自分の何かがすり減っていく。
それでも構わなかった。
それが、私の——『聖女』の、責務なのだから。
完結までの目処が経ちましたので、明日より一日二回投稿を再開します。
お昼頃と夕方〜夜頃更新予定です。
引き続き、よろしくお願いします!




