9.ルナ・ルクス⑨
「——ご帰還をお待ちしておりました、ルナ様」
「ただいま、アネリア! ディーンはいる!?」
「ディーン様ですか? 彼の方も先日神殿に戻られて……でも今どこにいるかまでは、」
「わかった、ありがとう!」
「えっ、る、ルナ様!? どこに行かれるんですか——!?」
地方巡礼を終えて大神殿へ戻るなり、ルナは、出迎えてくれたアネリアへの挨拶もそこそこにそう尋ねた。
そうして着替えもしないまま、すぐに自室を後にする。背後からアネリアの慌てた声が聞こえても構わなかった。
しかし、神殿のどこを探しても、ディーンの姿はない。
遠征から帰還したばかりで、いくばくかの休みを与えたとオーギュストが言っていた。
それなのに自室にも、騎士の鍛錬場にもいないとなれば——
「——ディーン!」
——白花の咲く丘。白亜の王都を見下ろすその場所で、ルナは大きくその名を呼んだ。
「……ルナ、おかえり」
真っ白なその場所に転がり空を見上げるその男……ディーンがこちらを向いてそう応える。
その声だけで、じわりとあたたかいものが胸に広がった。
約束などなくても、ここへ来れば会える。それだけで胸が温かくなった。
「ディーン、ただい、……きゃっ!」
「わ、ばか!」
と、駆け出した足が長衣に躓いてバランスを崩す。
そのまま地面に倒れ込みそうになるのを、ディーンが咄嗟に腕を掴んだ。
「……お前なあ」
「ご、ごめんなさい……」
「ほんと、相変わらず落ち着きがねえな」
咄嗟に引き寄せられたせいで、ルナはそのまま彼の胸へと倒れ込んだ。
腕に支えられながら、恐る恐る顔を上げる。
呆れたような表情と目が合って——
そして、ディーンは眉を下げて笑った。
力強い腕。その笑顔に、張り詰めていた胸の奥がようやくほどけた。
(——ああ、私、帰ってきたんだ)
ディーンの隣。その場所が、いつしかルナにとって帰るべき場所となっていた。
「……休んでなくていいのか? 今回は結構長い旅だったろう」
ディーンの胸の上から降り、その隣に腰掛けたルナに、ディーンもまた上体を起こしそう問いかけた。
「大丈夫よ。移動の間は、私は馬車に揺られているだけだしね」
「それでも疲れるものは疲れるだろ。今回は、不作への祈りだって?」
「ええ。疫病に続いて不作だなんて……大変よね」
「大丈夫だったか? 地方の貴族といえば……」
「もう、心配症ね。私だって、ずっと利用され続けるほど考えなしじゃないわよ。ちゃんと実りを確認して帰ってきたから、大丈夫」
「……そうか。お疲れ」
ルナが自身ありげに言うと、ディーンはまだどこか心配そうな気配を残しながらも、微笑んでそう言った。
気にかけてくれるのは嬉しいけれど、いつまでも心配されるだけの自分ではいたくない。
胸を張って彼に並び立てる『聖女』でありたかった。ルナのプライドだ。
「そうそう、開拓地にも行ったのよ。知ってる? 西の外れにある……」
「ああ、森を切り開いて作ったところか?」
「ええ、とても広大な畑ができていたわ! 開拓者の方達とも少し話をして——ふふ。『ありがとう』って、たくさん言われちゃった。お礼を言われたくて祈ってる訳ではないけれど、やっぱり、ああいうのは嬉しいわね」
「そうだな」
「ディーンの方は? 何か面白いことはあった?」
「何かも何も、面白いことだらけだ。国外には見たこともない魔物がまだたくさんいてな」
「へえ!」
「特にすごかったのは、◯◯山脈の麓の村で——」
そうして二人は、楽しげに旅路の出来事について語り合った。
どんな人と出会ったか、どんな旅程で回ったか。他愛のない話だ。そんな話を、取り止めもなく続ける。
「『山の様子がおかしい』って、最初は調査だけのはずだったんだが」
「うん」
「竜が出て」
「ええっ!?」
「竜の巣には程遠いところだったから、予想もしていないわ、戦闘の準備も満足じゃないわで……流石にあの時は、肝が冷えたな」
「だ、大丈夫だったの……?」
「当たり前だろう、俺を誰だと思ってるんだ。そうだ、ルナにも見せてやろうと思って、土産に竜の首を持ち帰ったんだ。後で保管室に行こうぜ!」
「うーん、嬉しくないお土産ね……」
そこから先も、ディーンは戦いの話ばかりをする。心の底から楽しげに。
ディーンはいつもそうだった。旅の土産話といえば、珍しい魔物と戦った話や、強い聖力持ちと出会った話ばかり。
「……相変わらずねえ、ディーン。あなた、旅がつらいなんて思ったことないんじゃなくて?」
「んー……ない、かもなあ」
首を捻り考え込んでも、本当に思い当たる節のなさそうなディーンに、ルナは呆れたようにため息をついた。
ルナには厳しい長い旅路も、彼にとっては苦行などではないのだろう。以前に、やりたくない仕事をやらされる神殿の方が嫌だと言っていたこともある。
(……寂しかったのは、私だけか)
楽しげな横顔を眺めながら、ルナはどこか拗ねたような気持ちになる。
自分が月を眺め、ディーンに会いたいと願っていた夜、彼の方はきっと仲間たちと笑って過ごしていたのだろう。その日の獲物について語り合って。きっと、自分のことなど、思い出すこともなく——
ルナは小さく目を伏せる。そんな彼女に気付かぬまま、ディーンは続けた。
「……まあ、でも。つらくはないけど、退屈だと思ったことはあるよ」
「そうなの?」
「ああ。ルナがいないから」
「——…え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
驚いて、顔を上げる。
こちらをじっと見つめる空色と目が合った。
風が吹き抜けた。
「なんでだろうな。誰と会っても、何と戦っても、物足りなく感じる時がある」
「……」
「お前がいたらもっと楽しいのに——そう思うことがあるよ、ルナ」
——どくり。
心臓が大きく波打つのがわかった。
胸の奥から言いようのない熱が込み上げ、何もしていないのに喉がきゅうと狭くなる。
何か言わなきゃと思うのに、何も言えなくて狼狽える。
ただ黙り込むルナにディーンは手を伸ばし、「……花びら、ついてる」と、その髪に張り付いた白の花弁をそっと払った。
その仕草が、ルナを見つめる瞳が、とても穏やかで——
泣きたくなった。
胸の奥がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような気持ちになった。
その言葉が、嬉しいのに。
嬉しいと感じてしまう自分が苦しかった。
……ダメなのに。
自覚してしまう。
私、私は、ディーンのことが——
そこまで考えて、ぎゅっと唇を噛み締める。
震える声で、「ありがとう」とだけ返した。
喉まで込み上げた言葉を飲み込み、代わりに小さく呟く。
「……私も、そう思う時があるわ、ディーン」
消え入りそうな声でルナは言う。
その想いとは裏腹に、ディーンはとびきり眩しい笑顔を浮かべた。
太陽よりも輝かしいその笑顔が、今だけはルナの胸を刺す。
それでもその痛みを隠すように、ルナはただ静かな笑みを浮かべ続けた。
——これでいい。
このままでいい。このまま……
『聖女』と『勇者』として、ずっと隣にいられれば。
そんな小さな願いを胸に抱く。
それでも、髪に触れる手のあたたかさを享受することだけは——
まだ、許して欲しかった。
——そう思っていたルナは気づかなかったのだ。
この場のやり取りを、民に見られていたことも。
「……なあ、聞いたか? 聖女様と勇者様、また二人きりで神殿を抜け出してたらしいぞ」
「知ってるわ。仕事を放り出して、逢い引きしてるんでしょう?」
「疫病だの不作だの、国中が大変な時に……」
「逆だよ逆。聖女が勇者にうつつを抜かしたから、神がお怒りになったんだ」
「あんな二人が『聖女』と『勇者』だなんて——神への冒涜だ」
——そんな噂が、民衆の間で流れてはじめていたことも、全て。




