8.ルナ・ルクス⑧
「……それじゃあ、もう地方へは行かなくていいのか?」
「疫病に関することでは、ね。今度王宮からも正式に終息の宣言が出されるらしいわ」
「ふうん。そうなったら、お前の仕事も少しは楽になるな」
「ふふ、そうね」
——王都、大神殿、その片隅の温室にて。
ルナはアネリア特製の薬草茶を、ディーンは癖のない紅茶を手にしながら、二人は互いの近況を語り合っていた。
あれから、ルナはより一層精力的に聖務に取り組んだ。
その甲斐あってか、疫病は鎮静化の兆しを見せ始めている。新たな感染者の報告は減り、満床だった治療院も一つ、また一つと空きができ始めている。
が、疫病がこの国にもたらした犠牲はあまりにも大きい。村ごと焼き尽くされた片田舎なども存在し、そんな報せを聞くたびルナの心は痛むのだった。
聖女として疫病の収束を祈る回数も減り、ルナも日常を取り戻しつつある。こうやってディーンとお茶をするのも久しぶりで、そんな穏やかな日々をまた過ごせることが、ルナには嬉しかった。
しかし、変わったことも一つ。
「……嘘つけ。ルナお前、また夜通し祈祷でもしてたろ」
「……っ」
言って、ディーンが瞼に触れる。どきりとした。
こんなことで動揺するなんて。誤魔化すように慌てて答える。
「ど、どうしてわかるの?」
「顔見りゃわかる。どうせ、まだどこかで疫病がぶり返さないかって、不安で鎮静の祈りでも捧げてたんだろ」
「うっ!」
「血も飲んでない祈りに意味なんてないだろ。さっさと寝とけ」
「うう……っ!」
図星だった。鎮静化の報せを聞いてもどこか不安で眠れなかったルナは、昨夜、こっそりと寝室を抜け出し祈祷の間にこもっていたのだ。夜が明ける頃には自室に戻り、寝不足や疲れは感じさせないようにしていたのに……。
現に、侍女であるアネリアにすら気づかれていなかった。その証拠に、背後で薬草の世話をしていた彼女は、驚いたような顔でこちらを振り返っている。
「……ルナ様。今のお話、本当ですか……?」
「ええと、その……」
「祈祷の間の鍵はあんたが預かってた方がいいぜ。こいつ、何するかわからねえから」
「心得ました」
「ちょっと、ディーン! アネリアも!」
焦るルナにディーンはふんと鼻を鳴らし、紅茶を口に含む。
まったくこの男は、まるで見逃してくれない。
助けを求めるようにアネリアの方を向いても、彼女もまた知らぬとばかりに視線を逸らした。
あの日以来、ディーンは誰より早くルナの変化に気づくようになっていた。
ディーンだって、勇者としての聖務に追われて忙しくしているというのに。今まででは考えられないその態度が、ルナにはどこか気恥ずかしく……
「ディーン様、そろそろお時間なのでは?」
「今度は国外に呼ばれてるんですって? 気をつけてね」
「ああ。ルナも、無理するなよ」
「……ええ。ありがとう」
同時に、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
ディーンに気にかけられると、それだけで嬉しく思う。
そんな自分の心の変化に、ルナは気づかずにはいられなかった。
日常が戻り、いくつか新しい出会いもあった。たとえば、カトリナだ。
「相変わらず穢らわしい髪の色ね。そんな姿で、よく神の御許たるこの神殿を歩けるものだわ」
高飛車な声、意地の悪い言葉。
高慢な口調でそうルナに声をかけるのは——カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ。
このサンクティア王国の高位貴族、ブランシェ家のご令嬢である。
「……こんにちは、カトリナ様」
「嫌だわ、『呪いの聖女』が、気安く話しかけないで頂戴」
「……」
……話しかけてきたのはそちらの方じゃないの。そう思っても、口にはしない。彼女のこんな無礼な態度にも、ルナにはもう慣れ始めていたからだ。
ブランシェ家は代々神殿への寄進を続ける名門であり、その令嬢カトリナも頻繁に大神殿へ姿を見せていた。そして、初めて顔を合わせた時から、彼女はルナに敵意を隠そうとしない。
その態度に、最初はただただあっけに取られた。だが、
「……お前ら、何やってんだ?」
「ディーン様!」
——突然姿を現したディーンに、カトリナの態度が一変した。
嫌悪に歪んでいた顔が、花が咲くように綻ぶ。
「なんだ、カトリナ、また来てたのか」
「ええ! 神の信徒として、祈りを捧げるのにここ以上にふさわしい場所はありませんもの!」
「ふうん。暇なやつだな」
「とんでもございませんわ。ところでディーン様、これからご予定でも? よかったら、お茶など……」
「悪い、オーギュストに呼ばれてるんだ。茶が飲みたいなら、ルナとでも飲んだらどうだ?」
「……そう、ですわね」
そして、スタスタと去っていくその後ろ姿に、わかりやすく肩を落とす。そのままキッとルナを睨むと、彼女もまたその場を去った。
(……相変わらず、わかりやすいお人だ)
知らず、ルナはため息をついた。どうやら彼女は、ディーンに想いを寄せているらしい。そして、だからだろう、ルナに並々ならぬ敵対心のようなものを抱いているのだ。
(別に、私とディーンは何の関係もないのだけれど……)
そう思いつつ、胸の中にもやりとしたものが広がる。
そう、自分とディーンはただの友人だ。カトリナにあんな態度を取られる言われなどない。ない、はずなのに。
胸の奥が小さく疼く。その理由だけは、まだルナにはわからなかった。
「久しいな、聖女よ。まだ神殿遊びは終わらぬのか?」
——それから、ヴァレリー。ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティア。
高貴な血筋を表す、紫の髪と瞳。彼はこのサンクティア王国の、王族の末席にある第七王子であった。
「ふん、相変わらず粗末な服だ。俺のところへ来い。すぐに一級品のドレスを与えてやる」
「……お戯れを、殿下」
「相変わらずつれないな。聖女などという立場では、生涯味わえない誉れを与えてやると言っているのに」
「……今は聖女の称号を戴いた身ではありますが、元は平民の出。恐れ多いことでございます」
「気にすることはない。貴様はこの俺様の命の恩人、母も喜ぶであろう」
「……」
彼は、ルナがまだ聖女になる前、初めてこの大神殿に訪れたときに、病から助けたあの少年であった。
しばらくは静養のため王宮を離れていたらしいが、最近になって王都へと帰ってきたらしい。ルナの何を気に入ったのか、彼はことあるごとにこの神殿に現れては、こうしてちょっかいをかけているようになっていた。
「ククク、そう睨むな」
「睨んでません」
「こんなことなら俺なんて助けなきゃよかった、とでも思っているか?」
「……そんなこと、思っていません」
「おお、さすがは聖女様だ」
わざとらしく笑うその様は、明らかな揶揄が混じっている。
『恩人』などと言いながら、彼の言葉には、感謝よりも興味が滲んでいた。
言葉を交わしたことなど数えるほどしかない、それでもそんな彼の性格は手に取るようにわかった。
カトリナとヴァレリー、二人が頻繁に神殿に出入りし始めたことで、気づけばルナとディーンが二人きりで過ごす時間はずいぶん減っていた。
ディーンが来ればカトリナが現れ、王宮へ向かえばヴァレリーが声をかけてくる。
勇者も聖女も忙しい身だ。そのわずかな時間さえ、誰かに奪われるようになっていた。
変わらないようで変わっていく日常。世話をしていた孤児院の子供たちや、慕ってくれていた神官や巫女見習いの子たちもいつの間にか少なくなった。
聞けば、裕福な家庭に貰われたり、正式な神官や巫女として認められ、地方の神殿へ派遣されたりしているらしい。
子供たちの姿が見えなくなるたび、少しだけ胸は寂しくなった。
それでも彼らが幸せになれたのなら、それでいい。
『汝、人を愛せよ』——神殿の教え、両親が遺したその教えが、間違っていなかったのだとルナはもう一度信じることができた。
そのうち、疫病の影響だろうか、国で不作が囁かれ始める。豊穣の祈りのため、ルナはまた国を巡り歩くこととなった。
地方巡礼は、あまり好きではなかった。かつてその力を利用された苦い記憶があるからだ。
だから今では、領主ではなく、その土地に暮らす民の血を借りて祈るようにしている。その祈りは実り、秋には豊かな収穫を迎える土地も増えていった。
一面の麦畑、その実りに喜ぶ民衆を眺める。
たしかな安堵と慈愛を感じると共に——ふと、胸をよぎる想いもあった。
(……ディーンは、元気かしら)
なかなか時間が合わず、最後に顔を合わせたのももう遠い昔に感じる。
彼もまた、その武力を請われ、国の内外問わず駆け回っている。互いに神へ、民へ身を捧げた存在。仕方ないとは、わかっているけれど——
(ダメダメ。『聖女』として、そんなこと考えちゃ……でも……)
夜になれば、ひとり窓から空を見上げた。
心が疲れた時。夜空に浮かぶ月を見上げる度、どうしてもその姿が思い出される。
眩い白髪。晴天のような笑顔。
——今頃、どこで戦っているのだろう。
ちゃんと食べているかしら。
怪我なんて、していないといいけれど……
頰に触れ、心配そうな顔で覗き込んだ、その表情を思い出す。
心の中でぽつりと呟いた。
(……ディーンに、会いたいな)




