7.ルナ・ルクス⑦
「ディーン……」
一面の白花を陽光が照らす。
その丘により一層眩い白を携えて現れたのは、ディーンであった。
ここにいるはずのないその姿に、ルナは思わず声を上げる。
「ど、どうしてここに。今、遠征中のはずじゃ……」
「さっき戻ったんだよ。そこで話を聞いて……部屋に行ってもいないし。侍女に聞いても知らないって言うから、ここじゃないかって」
そう言うディーンの息はわずかに乱れ、浅く肩で息をしていた。
着替えすらせずに駆けつけてくれたのだろう、真白な騎士服に青いマントを羽織ったままだった。
ルナのすぐ隣までやってきた彼は、その顔を覗き込む。
そして、手袋をしたままの指先でルナの頬に触れ、言った。
「……ルナ。お前、大丈夫か?」
「……っ」
それがトリガーだった。
大粒の涙がぼろりと瞳からこぼれ落ちる。つられるように、涙の粒が次々と流れていった。
「あ、ばか、擦るな!」
ぼろぼろととめどなく流れる涙に、ルナは慌てて袖で瞼を拭う。
そんなルナの腕を、ディーンは咄嗟に掴んで止める。またひとひら涙が頰を伝った。ルナは奥歯を噛み締める。
(油断した。ディーンは今王都にいないから、ここでなら一人きりになれると思ったのに——)
見られてしまった。こんなところで、情けなく泣く自分の姿を。
こんな姿、誰にも見られたくなかった。『聖女』らしさのかけらもない、悲しみに囚われ、身動きができないでいるこんな姿。
アネリアにも、オーギュストにも——ディーンに一番、見られたくなかった。
「……だい、じょうぶ。泣いてなんか、ないから……」
嗚咽に引きつった声で言う。ディーンは呆れたよう眉を下げた。
「いや、泣いてるだろ。こんな時に何強がってんだ」
「ちがう、これは、涙じゃ……」
「俺しかいないんだ、素直に泣いたらいいだろ。待ってろ、今ハンカチを……」
そう言ってゴソゴソと懐を探り始めたディーンの腕を、今度はルナが抑える。
訝しんだようにディーンが顔を上げた。
吐き出すように言う。
「私は……『聖女』、だもの」
「……? だから何だよ」
「国のために、祈るのが、仕事だから」
「それ、今関係あるか?」
眉を寄せるディーンに、ルナは力無く首を振る。
「……言われたの。『聖女は、家族など持たない』って。だから、」
そして、ぽつりとそう囁いた。
知らず、ディーンの腕を掴む手に力が入る。
噛み締めた唇が小さく震えた。
「泣いたら、だめなの。赤の他人が死んだって、悲しくなんてないもの……!」
叫ぶような声だった。
切り裂くような悲痛に溢れた声。それに呼応するように、白い花弁が空に舞い上がる。
緑の丘を風が駆け抜ける。ざあっ、という風の音に誘われ、木々もまた悲しくざわめいた。
ルナに寄り添うようなその景色も、その心を慰めてくれることはない。涙を堪える吐息の音だけが、その場に響いていた。
「……バカだな」
——どれくらいそうしていただろうか。
風が止み、静寂を取り戻した丘の上に、ディーンの落ち着いた声が落ちた。
まだ涙の滲むルナの目元に、くしゃくしゃになったハンカチが無理やり押し付けられた。
「な、何す……!」
「……泣いてもいいんだ。たとえ他人だったとしても」
乱雑な仕草。それとは裏腹の優しい声色が、視界を塞がれたルナへと投げかけられた。
「だって、ルナ。お前なら——それが誰でも、誰かが死んだら泣くだろう?」
「——……」
真っ暗な視界。その中で、まっすぐなその言葉がルナの胸を射抜いた。
ルナは何か言おうとして、だけど声にならず、唇だけをはく、と動かした。
くしゃりと表情が歪む。
気づいた時にはもう、大きく声を上げて泣いていた。
隣に座るディーンの腕に、縋り付いて泣き喚く。
子供のような慟哭だった。
腹の奥から溢れ出るその涙を、ルナはもう自分の意思で止めることはできなかった。
目元を押さえていたハンカチを取り落とす。涙が騎士服を濡らしても、ディーンは黙ってその体を受け止め続けた。
「『帰ってこい』って、言ったの。見送りの時。最後まで、ダメだって、考え直せって言ってたのに」
「うん」
「私、帰れなかった。村に、疫病が確認されたって、知ってたのに」
「ああ」
「父さんも、母さんも……苦しんでいるかもって、わかっていたのに……!」
「……」
涙に濡れたその言葉は、ほとんど断片的で、正しくディーンに伝わったかはわからない。
それでもディーンは、ただ黙って頷いた。
とめどなく流れる涙を時折指で拭い、肩についた花弁をそっと払ってやりながら。
そんな彼の肩に全身を預けながら、ルナは声を上げ続けた。
ずっと、ずっと。
日が傾き、影が長くなり、丘を夕陽が包んでも。
心のまま、泣き続けた。
陽が沈み、丘に夜風が吹き始めても——
それでもディーンは、一度もその場を離れることはなかった。
————
——
——その泣き声がようやく落ち着いた頃には、外はもうすっかり夜になっていた。
丘の上には、丸い月が夜空にぽっかりと穴を開け、二人を見つめていた。傷を負った心に優しく寄り添うような、穏やかな光だった。
「……父さんと母さんは、ずっと私の『聖力』を隠し続けていたの。誰かを助けられる力を、どうして他人に見せちゃいけないのって、ずっと思っていたわ」
夜の王都を静かに眺めながら、ルナはそう呟いた。
「今思えば、あれは私を守るためだったのでしょうね。あの頃の私は、この力を利用しようとする人がいるなんて、思いもしなかったもの」
「……」
自身の肩に寄りかかりながら、ポツポツと語るルナの言葉を、ディーンは黙って聞いていた。
また溢れそうになる涙を呑み込んで、さらに言葉を重ねる。
「……結局、何も返せなかったな」
その声には、明らかな悔恨が滲んでいた。
自嘲じみたその声色に、ディーンはわずかに視線を落とす。
しばしの沈黙のあと、言葉を返した。
「……そんなもの、返せるうちに返せるやつの方が稀だろう」
ぶっきらぼうに放たれた一言。
その声にルナは小さく顔を上げる。
「それに、お前みたいな娘を育てた両親だ。——お前に返してほしいなんて、最初から思ってねえよ」
「……うん、そうだね」
月光に照らされたその表情は、どこまでも優しいものだった。
不器用なその横顔に、ルナは微笑みを返す。心が、少しずつ解けていくのを感じた。
泣き腫らした顔を晒していることが今更恥ずかしくなる。だけどすぐ、ディーンにならいいかと思い直した。
と、夜風が吹き抜ける。
その冷たさにぶるりと肩を震わせるルナに、ディーンは「そろそろ戻ろうぜ」と腰を上げた。
自然な仕草で手を差し伸べられ、ルナはおとなしくその手を取る。
自分より一回り大きいその掌。その手にふわりと持ち上げられて立ち上がる。そしてそのまま歩き出した。
「ディーン……——ありがとう」
「……別に。何もしてないだろ」
自分の半歩前を歩くその後ろ姿に、囁くようにそう声をかける。返ってきたのは、やはりすげない答えだった。
ルナは音もなく笑い、その背中を静かに追った。
二人は何も言わず、夜道を歩く。
繋いだままの掌を、夜だけが優しく隠してくれていた。




