6.ルナ・ルクス⑥
「——なりません」
「どうして……!? 今こうしている間にも、村に疫病が広がっているかもしれないのよ!?」
「駄目です。我々聖職者は神の配偶者。家族も恋人も居はしません。特定の人間を優先する願いを、認めるわけにはいきません」
「そんな……っ!」
オーギュストのすげない返しに、ルナは思わず声を荒げた。
——大神殿、オーギュスト執務室。
『故郷の村に疫病患者が確認された』——その報せを受けるとすぐ、ルナはまたこの場所へと向かった。そして、何度も頭を下げる。「どうか故郷へ帰らせてほしい」、と。
まだ年若き少女の悲痛な願い……だと言うのに、オーギュストはその全てを冷たく拒絶した。
「村の疫病が鎮まれば、すぐに帰ってくるわ。行って帰ってくるだけ。ねえ、お願いオーギュスト……!」
「その間、他の聖務はどうするのです? 国を背負う聖女が故郷を優先したことで他の地区が手遅れになったとしたら、糾弾は免れません。聖女とは、一人ではなく国全体を救う存在なのですから」
「っ……!」
ルナは愕然とした。
故郷が苦しみ、両親もそこにいる。それなのに、自分はここから一歩も動けないなんて。ルナにはあまりにつらい判断だった。
「でも、でも……! 私の故郷だって、疫病で苦しむ村の一つだわ。それを聖女として助けたい、それは間違ったことなの!?」
「間違ってはいませんよ、ルナ。しかし、その村ではまだ疫病が確認されたばかりなのでしょう? それなら優先すべきは、他の被害が甚大な地域です。身分も寄進の額も関係なく、重病な人から治したいと言ったのはあなたではないですか」
「それは……そうだけど……!」
言われ、思わず口ごもった。
オーギュストの言う通りだった。
村で確認されたという感染者はすぐに隔離され、まだ村全体に病が広がったわけではないと聞いている。逆に、疫病に呑まれ機能不全に陥っている街がいくつもあると連日報告が上がっていた。
自分が『聖女』として優先して向かうべき場所はどちらか——言われずともわかりきっていた。
「話はそれだけですか? ならばもう、聖務に戻りなさい」
「……はい」
もはや何も言えなくなったルナは、静かに踵を返し、執務室を辞そうとする。
『重症者を優先する』——自分が正しいと信じた理想が、今は故郷へ帰る道を塞いでいる。ルナはただただ唇を噛み締めることしかできなかった。
重い足取り。深く俯いたまま、ルナは執務室の扉に手をかけた。
「……とはいえ、私も鬼ではありません。こちらの方でも気を配っておきましょう」
と、背後から、こんな言葉が投げかけられた。
「先日作らせた重症患者のリスト。そこに一人でも村人の名前が入ったら、君にすぐに知らせます」
「——オーギュスト……!」
振り返ると、オーギュストがどこか呆れたような笑みを浮かべルナを見つめていた。
その瞳はどこまでも優しい。ルナは胸にじわりと温かいものを感じた。
「ありがとう……! 感謝するわ、オーギュスト……!」
「君が心を乱せば、救える命まで救えなくなりますからね。そちらのことは私に任せて、君は君の仕事をなさい」
「はい……!」
オーギュストに言われ、ルナは明るい気持ちで聖務に戻る。
彼になら任せられる。その思いを胸に、ルナは祈祷の間へ戻った。
差し出された血を飲み干す。喉を焼く熱が胸の奥へ落ちた。また血瓶を手に取る。両手を組み、懸命に祈りを捧げた。
(ここで疫病の鎮静化を願えば、その願いがあの村まで届くかもしれない。だから、どうか、どうか——)
まるで何かに縋るように……ルナはただただ祈り続けた。
どうかこれ以上、国が混乱に陥らないよう。
どうか自分の愛する者たちが、これ以上傷つかないよう——
——しかし、ルナの願いも虚しく、故郷が焼かれたという報せが届く。
多くの村人が疫病に感染し、これ以上の被害を防ぐため多くの感染者が家ごと焼き払われたのだという。
そして、その焼かれたという者たちの名簿の中に——
ルナの両親の名前が、並んで記されていた。
*
「——申し訳ありません。本当に、本当に……!」
その報せと共にルナの私室へとやってきたオーギュストは、深く頭を下げると、何度もそう謝罪した。
「こちらの想定より感染が早く——また、村人の疫病への恐怖心も大きかったようです。こちらが気づいた時にはすでに遅く、感染者をひとところに集めて火を放ったと……。……本当に、申し訳ない。あの村は遠く、こちらが事態を把握した時には、もう……!」
表情を青白く染めながら、オーギュストは続けた。眉を寄せ、胸の痛みを堪えるような面持ちを浮かべる。伏せた頭から金の髪がさらりと落ちた。
その様子を、ルナはまるで夢でも見ているような気持ちで眺めた。
(…………死ん、だ? ……誰が?)
言葉の意味が、うまく飲み込めない。
最初に報せを受けた時からルナはずっとふわふわと夢の中にいるような感覚がしていた。
目に映るすべて、耳に入るすべてが虚ろで、現実感がない。
(……父さんと、母さんが?)
途端、身体から力が抜けた。
足元の床が抜け落ちたような感覚に襲われる。次の瞬間には、自分の足で立っていられなかった。
「——ルナ様!」
がくり。崩れたルナの体を、そばに控えていたアネリアが支える。
彼女の腕に寄りかかりながら、だけどルナはまだ現実を受け入れられていなかった。
(違う、何かの間違いよ。だって、昨日までは、なんの報せも——)
そんな想いが、何度も胸をよぎる。
心臓がバクバクと波打ってうるさい。明滅する視界。倒れ込んだ石床の冷たい感触だけが、これが現実なのだとルナに伝えていた。
「ルナ様、お気を確かに……!」
「……ルナ、とりあえず休みなさい」
と、二つの声が頭上に降り、ルナはのろのろと顔を上げた。
心配そうに自分を見つめるアネリアとオーギュストの顔を見て、ルナはやっと自分を取り戻す。
——ああ、心配させてしまっている。何か言わなければ。
そう思うのに、喉がカラカラに乾いて、言葉がうまく出てくれなかった。何を言おうとしても、それを上回る感情の波が邪魔をした。
「……いいのよ」
アネリアの肩を借りながら、ルナはやっと声を絞り出す。
震える唇からようやく外に出たのは、こんな言葉だった。
「オーギュストのせいじゃないわ……。あなたは……約束を、守ろうとしてくれたもの」
*
——その後、ルナにはしばらくの休養が与えられた。
今だけはどんな願いを請われても血など飲める気がしなかった。ルナは素直に感謝した。
アネリアのことも巫女寮へと帰した。最後まで心配そうな顔をしていたが、今はただ一人になりたかった。
ただ時間だけが過ぎる。聖女になってから、こんなに長い時間を無為に過ごしたのは初めての気がした。次々舞い込んでくる聖務、ルナの『奇跡』を求める民衆の列、そして極め付けがこの疫病だ。休む暇などなかった。
静寂の中、息を吐く。だが、どれだけ長い間横になっても、アネリアの用意してくれた癒しのお茶を飲んでも、沈んだ心は一向に浮上してくれなかった。
……しばらくそうしていたルナだったが、やがて思い立ったように、一人自室を後にした。そのまま神殿の外へと抜け出す。
向かった先は——秘密のあの丘だった。
「……相変わらず、綺麗ね」
一面に広がる白の花。白亜の王都を見下ろすその丘の上で、ルナは力なく呟いた。
風が白の花弁を舞い散らせ、眼下の美しい街並みに降り注いでいく。この景色だけ見れば、この国が今未曾有の災禍の下にあることなど、誰も信じないだろう。
ルナは王都を見下ろしたまま腰を下ろすと、足元の花をそっと摘んだ。
(……ここに来たら、少しは気がまぎれるかと思ったけれど)
自分とディーンしか知らない、秘密の丘。ディーンが遠征でいない今、ここを知るのは自分しかいない。
ここで何度も彼と他愛のない会話をした。神殿に来てからの幸せな記憶は、ほとんどこの場所に詰まっている。
だけど——
だけど、今ルナの心を占めるのは、故郷の村のことだけだった。
生まれ育った小さな村。
いい思い出ばかりでもない。この黒髪のせいで、理由もなく疎まれることも多々あった。
だけど幸せもあった。愛してくれた両親。神殿に連れてきたあの黒犬と出会ったのも、あの村でのことだ。
そうだ、ご近所のあの女の子は無事だろうか。内気で引っ込み思案で、いつもルナの後ろをついて回った。お隣のおばあさんも、慕ってくれた友人達も——
「……私が、聖女にならなければ、みんなのことも救えたのかなあ」
知らず、そんな言葉が漏れた。
最後まで神殿に入ることを反対していた両親。その手を振り払ったのは、他でもない自分自身だ。最後まで渋った顔をして、何度も「考え直せ」と説得された。
もしも自分が、彼らの言うことを聞いていたら。あのまま、村に残っていたら——
父さんや母さんは、今も生きていたの?
三人での慎ましい暮らしが、今も続いていたの?
もう一度、「おかえり」と笑ってくれたの——?
二人の笑顔が、頭を撫でた大きな手が、何度も何度も胸をよぎる。
ずっと守ってくれていた。愛してくれていた。そんな彼らを守れずして——
「なんのための、『奇跡』……!」
噛み締めるように、呟いた。
ぽたり、同時に涙の粒が真白な聖女服へと落ちる。
一度溢れ落ちた涙は止まらず、そのままぽたぽたとルナの両頬を伝い落ちた。
「う、うう……!」
気づけば、うめくような声が漏れていた。喉が熱い。胸がつかえてうまく息ができなかった。
うずくまるように背を丸める。それでも涙は止まらず、途方に暮れる。
その時だった。
「……ルナ!」
背後から、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
振り返る。
涙に濡れた視界。潤んだ瞳にも眩く映るその白髪に、張りつめていた何かがふっとほどけた。
「……ディーン」
漏れ出た声は、情けないほどに震えていた。




