1.ルナ・ルクス
いわゆる過去編です。
——サンクティア王国、王都。
白亜の外壁が燦然と輝く大神殿。その最奥に位置する大聖堂は、その日、祝福の歌で満たされていた。ステンドグラスを透かした陽光が色鮮やかに差し込み、長い赤絨毯を挟んで何人もの高位神官が居並ぶ。
そしてその長絨毯の先、大祭壇の前には、この国の信仰を司る教皇が静かに立っていた。目の前に跪く一人の少女を見下ろし、老いた教皇は厳かに口を開く。
「神の名のもとに告げる。汝は今日より、このサンクティア王国を照らす光。その身に『聖女』の称号を授け、新たなる姓『ルクス』を与える」
威厳に満ちた声が大聖堂に響く。
教皇は続けた。
「——今この時より、汝は『聖女』ルナ・ルクスである」
跪いた少女はゆっくりと顔を上げる。
夜をそのまま紡いだような黒髪がさらりと揺れ、同色の瞳は澄んだ光を宿していた。
「——はい」
***
ルナは、このサンクティア王国のはずれにある小さな農村に生まれた。
心根が優しく、よく働く娘であったが、その村で彼女を快く思わぬ者は少なくなかった。彼女は、夜を閉じ込めたような黒い髪と瞳を持っていたからだ。
漆黒の髪と瞳は、この国では珍しい。それを異端と気味悪がる者もいた。閉鎖的な田舎町では尚更だった。
謂れない陰口、冷たい態度を取られても、それでもルナの両親は村人を恨むことなく彼女を愛情深く育てた。『汝、人を愛せよ』——神殿の教えを忠実に守るかのように。
そして同時に、ルナに対してもそう教え諭した。『正しい行いをしていれば、いずれそれは報われる』——と。
その言葉通り、ルナは清く正しく生活し続けた。
疎まれても避けられても、畑仕事を手伝い、老人の荷物を運び、いじめられる子供を助けた。誰かのためになると思うことを、決して曲げはしなかった。
その甲斐あってか、彼女は次第に村に受け入れられ、慕ってくれる者もいつしか増えていった。
そのたびにルナは思うのだ。ああ、両親の、神殿の教えは本当なのだと。そしてまた、誰かの役に立てる自分でありたいと願うのだった。
小さな村の、慎ましやかな暮らし。それがルナの世界のすべてで、そして、その世界にルナは満足していた。
日常が大きく変わったのは、ルナが十五の時であった。
ある日、ルナの暮らす村に、大怪我をした子犬が迷い込んできた。
背には深い爪痕が走り、黒い毛は血で固まっていた。足を引きずり、それでも必死に村まで辿り着いたのだろう。中央広場へ出た瞬間、黒犬は力尽きるように倒れ伏した。
村人たちは皆目を逸らした。
「もう助からん」
「死んだら埋めるしかないな」
そんな声だけが広場を流れる。その時だった。
たった一人、ルナだけがその子犬へと駆け寄った。
麻の服が血で汚れるのも厭わず、それを抱き上げる。そして——なんの躊躇もなく、その傷口へ口付けを落とした。
赤黒い血がルナの唇を染める。その血をルナは舐めとると、ごくりと喉を鳴らし呑み込んだ。
その行動に、村人たちは驚き目を見開く。誰かが「汚い」と眉を顰め、他の誰かが「やめなさい」とルナへと手を伸ばした。
瞬間。
眩い光が一人と一匹を包んだ。
夏の陽光のように眩く、人々を揺り起こす朝日のように穏やかな聖光。
神々しいその光に、誰もが目を奪われた。そして、その光が静かに収束していった後——
村人たちはもう一度大きく目を瞠った。
「わんっ」——という明るい鳴き声が村に響く。
真黒な背にはもう傷跡一つなく、痙攣していた尻尾は大きくぶんぶんと振られていた。
先ほどまで瀕死状態だったその子犬が、息を吹き返したのだ。
目の前の現象を、誰もが理解できなかった。呼吸するのもやっとのように見えたその犬が、元気に顔を上げ、ルナの口元についた血を舐めとる。そしてまた大きく鳴き声を上げ、尻尾を振りルナの周りを駆け回り始めた。
誰もが狼狽するその中で、ルナだけが、心から安堵したように微笑んだ。
「……ああ、よかった。ちゃんと願っていてくれたのね。『生きたい』って」
——それこそが、ルナに授けられた『聖力』であった。
『聖力』。
神に選ばれた者だけが扱える、人智を超えた奇跡の力。
ある者は炎を操り、ある者は傷を癒す。
そして、ルナに与えられたその能力は、『血を呑み下した相手の願いを叶える』——そんな前例すら残っていない『奇跡』のような力だった。
ルナが強大な聖力を持っていることを、彼女の両親は知っていた。だからこそ、この日まで誰にも明かさず守り続けてきた。
この国では、明るい髪色ほど強い聖力を宿すと信じられている。漆黒の髪を持つルナが扱えるとなれば、それは奇跡ではなく不吉と受け取る者もいる。娘を守るため、二人はその力を誰にも明かさなかったのだ。
しかし、一度知られてしまえば、人の口に戸は立ててられない。その大きな『奇跡』は、村人を通じ行商人へ、旅の吟遊詩人へ、そして王都まで届き——
ついに、大神殿からルナの元へ、使者が遣わされた。
「初めまして、ルナ嬢。私の名はオーギュスト。オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード、王都大神殿にて大神官を務める者です。此度、あなたを『聖女』候補としてお迎えするよう命を受け、ここまで参りました。以後、お見知りおきを」
——小さな農村にある日突然現れた、大神殿の紋章を掲げた馬車。そこから姿を現した優雅な身のこなしの男のこの言葉に、ルナも、両親も、そして村人全員が恐れ慄いた。
『大神殿』『大神官』そして『聖女』。そのどれもが、この寒村に住む者たちにとっては縁のない言葉だったからだ。
「なんでも、類稀なる聖力をお持ちだとか。神に授けられしその力、どうか我々と共に、民のためにお使いいただけないでしょうか」
「ま、待ってください……! 聖女候補……? この、私が……?」
ルナは戸惑った。使者が訪れるとは聞いていた。だが、まさか王都から大神官本人が来るなど。
あまりのことに、ルナは狼狽え、その誘いを断った。
名誉な誘いであることは理解していた。この片田舎の、しがない村娘でしかない自分のために、わざわざやってくるだなんて。だが、王都はあまりにも遠く、聖女などという称号はルナにはあまりにも大きすぎた。気後れしてしまうのも当然だった。
「……申し訳ありません。私は、この村を離れたこともありません。そんな私が聖女など……荷が重すぎます」
「……」
深く頭を下げるルナに、オーギュストは沈黙を返した。静寂が二人の間に落ちる。しばらくののち、オーギュストが重い口を開けた。
「……無理強いはしたくはなかったので、伏せていたのですが……実は、あなたを勧誘しにきたのは、もう一つ理由があるのです」
「理由?」
「ええ……実は今、神殿に、とある高貴な御方が隔離されているのです。原因不明の難病で、国中の治癒術師をあたっても治らず……彼の方の病を治せる聖力も持った者を、神殿総出で探しているのです」
そこまで言うとオーギュストは、ルナに向かって深く腰を折った。
「お願いです、ルナ嬢。聖女になってほしいとまでは言いません。どうか、彼の方をお助けするため、お力を貸してくださいませんか!?」
天上ほどに身分の高い者に頭を下げられ、ルナは大いに困惑した。どうしていいか分からず、ただ瞬きを繰り返す。
「この村へと帰りたいというのなら、必ず送り届けましょう。神の名の元に、謝礼もいたします。どうか、助けていただけないでしょうか」
「あ、頭をお上げください、オーギュスト様……!」
「オーギュスト、と。そうお呼びください」
「……っ!」
頑として譲らないオーギュストに、ルナもまた押し黙るしかなくなった。頭を深く下げたままのオーギュストをしばし見つめる。
ルナの頭の中は、戸惑いと躊躇でいっぱいだった。聖女という肩書きもだが、高貴な御方の病を治すなど、それだけでもルナには重く感じられた。
だがそれと同時に、両親の、神殿の教えが彼女の胸を揺さぶる。
『汝、人を愛せよ』——たとえどれだけの重責でも、誰かのためにできることがあるのなら。
「——わかりました。私なんかの力で、病なんて治せるのかわからないけれど……私にできる限りのことは、やってみようと思います」
しばらく考え込んだと、ルナは意を決したようにそう答えた。そもそも重病人の存在を聞いた時点で、ルナから断る選択肢は消えていたのだろう。
その答えにオーギュストは喜び、ルナの両親はどこか不安そうな表情を浮かべた。
そんな彼らに「すぐに帰ってくるから」と言い残し、ルナはオーギュストと共に王都へと旅立っていったのであった。
——王都へ着いたその日。馬車を降りる間もなく、ルナは大神殿の奥へと連れて行かれた。
紫色の髪を持つ少年は、その頃にはもうほとんど危篤のような状態だった。その傍らには、母親であろう、高貴な装いの女性が泣き喚き、その周りには何人もの神官が祈祷を行っていた。
そこに現れたルナの姿に、誰もが目を丸くした。
色褪せた麻の服、聖力など持ち合わせるはずもない真黒の髪……ルナの姿は、この大神殿においてどこまでも場違いだったからだ。
しかし彼らが本当に驚いたのは、そのあとのことだった。ルナが、少年の病を治すため、彼の『血』を欲したのだ。
「穢らわしい」誰かが呟いた。
「瀕死の人間から血を奪うだと?」別の誰かが眉を顰める。
神妙な空気。そこに一石を投じたのは、少年の母親だった。
「『願い』を持つ者の血なら、誰でもいいのね? それなら、お前。このわたくしの血を呑みなさい」
尊大な物言い。だがどこか悲痛を帯びたその声に、その場はざわめいた。
「お、お待ちください。貴女ほどの御方が、どこの誰とも知れない小娘に血を差し出すなど——」
「お黙りなさい! この子が助かるというのなら、血など安いもの。どこぞの娘にでも、神でも悪魔でも、わたくしは跪きましょう!」
「……!」
鬼気迫る勢いのその母は、そのまま神官に命じナイフを瓶を持って来させた。そこに躊躇なく自らの血を流すと、ルナへと差し出す。
「——小娘、これは命令です。必ず、必ず我が息子を助けなさい」
血走った目の奥に母の愛を感じ、ルナは強く頷いた。
「……はい。その願い、確かに受け取りました」
そして差し出されたその瓶の中、赤黒く揺れる血を飲み干し——静かに、胸の前で手を組んだ。
血が喉を通った瞬間、組んだ手から眩い光が溢れる。
その光はやがて少年を包み、その全身を優しく抱いた。すると熱で赤く染まった頰はみるみるうちに戻り、こわばっていた身体は穏やかな呼吸を取り戻した。そのまま紫の瞳をうすらと開け、小さく声を出す。
「ここ……は……?」
まだどこか枯れた声。だけどももう意識すら戻らないと思われた彼がその瞳を開き、喉を鳴らすのを、母は泣いて喜んだ。ルナの肩を抱き、何度も、何度も礼を言う。「ありがとう、ありがとう……」ぼろぼろと涙を流しそう言うのを、ルナは驚いたような顔で受け止めた。
周りにいた神官たちも、目にした『奇跡』に驚愕し、そして聖職者として、その力の強さに素直に感服した。誰からともなく手を鳴らし、ルナへと喝采を送る。それは、ルナにとっては初めて、自分の『奇跡』を恐れられることなく受け入れられた経験だった。
頬を濡らして喜ぶ母の姿に、鳴り止まぬ喝采に、ルナは胸の奥がじんわりと熱を帯びていく感覚を覚えた。
この力を、ルナはずっとひた隠しにして生きてきた。それが、こんなふうに誰かに祝福されるなんて——生まれて初めて、自分の力を誇らしく思えた気がした。
むず痒い思いが彼女を包む中、オーギュストがルナの元へと近づき、穏やかな声で言った。
「——聞いていた通り、君の聖力は素晴らしい。どうだろう、やはり、聖女候補として名を挙げてもらえないだろうか?」
「……」
再びの勧誘の言葉だった。一度は断ったその言葉。だけど今のルナには、それは以前とは違って響いた。喜び抱き合う親子を振り返る。その姿から、どうしても目を離せなかった。
(あの村で、静かに生きていきたいと思っていた。両親と離れることも、本当は怖い。——でも)
「……聖女、なんて、やっぱり私には荷が重いと思います。でも——」
——それでも、誰かを救えるのなら。
ルナはオーギュストを振り返り、その顔を真っ直ぐに見つめた。
「でも、私にできることがあるなら——誰かのためになれるのなら。私は、そのためにこの力を使いたい」
そう告げる漆黒の瞳には、たしかな希望が輝いていた。
未来への光溢れるその瞳を見つめ、オーギュストは微笑みを返す。そして、どこまでも優しい声でこう言ったのだ。
「歓迎しますよ——『聖女』ルナ」
——これが、『聖女』ルナ・ルクスの始まりの物語であった。




