15.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ②
カトリナは執務室へ足を踏み入れるなり、案内を待つこともなく来客用の椅子へ腰を下ろした。
挨拶の一つも挟まず、開口一番こう告げる。
「単刀直入に言うわ。わたくしは今、『呪い』にかかっている。そして、その呪いにはおそらくあの女も関わっている。オーギュスト、なんとかなさい」
あまりにも尊大な物言いに、オーギュストは長いため息を吐く。
呆れたように片眉を下げると、自らも執務椅子へ深く身を預けた。
「まったく、嘆かわしいことですね。『聖女』たる者が、神殿内へ『呪い』を持ち込むとは」
「わ、わたくしのせいではないでしょう! それよりも、あなたの子飼いの神官たちが死者への祈祷を怠ったのではなくて!? 死んだ巫女が『魔』へ堕ち、あろうことかこのわたくしを害そうとするなんて、冗談じゃないわ!」
カトリナは即座に声を荒らげた。
激しく言い返すカトリナを前にしても、オーギュストの態度は変わらない。冷え切った瞳で、ただ静かに彼女を見つめていた。
「君は『聖女』でしょう。聖力の高さだけで言えば、この神殿では勇者に次ぐ。たかだか一介の侍女が残した呪い程度、自分でなんとかなさい」
「……っだから言っているでしょう、この『呪い』にはおそらくあの『魔女』が関わっていると。アネリアだけならまだしも、あの女の呪力まで加わっているとなれば——」
「ほう。あれ相手に負けを認めると。ああ、君は『偽りの聖女』でしたものね」
「——っ!」
苛立ちを露わにするカトリナに、オーギュストは口元を僅かに歪めそう言った。
露骨な侮蔑を含んだその言葉に、カトリナの頬がみるみる朱に染まる。
勢いよく立ち上がると、バンッと強く執務机を叩いて叫んだ。
「何よ、文句でもあるの!? その『偽り』を聖女の座に押し上げたのは、他でもないあなたでしょう! 都合のいい『聖女』がいなくなって困るのは、オーギュスト、あなたの方ではなくて!?」
金切り声が執務室に響く。
怒りを隠そうともしないカトリナに、オーギュストはだが反論することもなく、静かに視線を逸らした。
カトリナが『聖女』となったことで、それを推したオーギュストもまた若くして枢機卿の座を手に入れた。
そこにはカトリナの実家であるブランシェ家の後押しもあったのかもしれない。どちらにせよ、自分たちは互いの利益のために手を組んだ共犯者だ。この男にだけは見下される筋合いなどなかった。
「誰も彼も、わたくしを莫迦にして……! 『偽り』だから何だというのよ! 誰が何と言おうと、わたくしは、正式にその称号を授かった『聖女』よ!」
カトリナは、さらに大きく声を張り上げそう言い切ると、はあはあと肩で息をした。
オーギュストは何も答えない。
ただ、何を考えているのかわからない瞳で、窓の外をじっと見つめていた。視線の先ではもう、夕日が山にかかり始めていた。
——どれだけの時間が経っただろうか。
長い静寂ののち、オーギュストは静かに目を伏せると、深く息を吐いた。
「……君をその座に据えてから数年。私も、色々と考える機会がありました。たしかに、私が今この地位にいるのは君のおかげでしょう。何より、あの女を追放できたことで随分と動きやすくなった。それについては感謝しています」
オーギュストは、感情の見えない声でそう切り出した。
淡々と告げられた言葉に、カトリナは得意げに鼻を鳴らす。
「あら。珍しく殊勝なことを言うじゃない」
「事実ですから。それに、君のおかげで気づけたこともありました」
「気づき?」
「ええ。君は聖務のほとんどを果たさない。したとして、先代——あの『魔女』の奇跡には遠く及ばない」
「なっ——!? 何よ、やっぱり莫迦にして……!」
「ただの事実確認ですよ。言ったでしょう。気づきがあった、と」
気色ばむカトリナに、オーギュストは冷ややかに首を振った。
静かな声で続けた。
「……気づいたのですよ、君のおかげで。民を従わせ、国の秩序を維持するだけなら、力ある『勇者』さえいれば十分。『聖女』は、お飾りでも構わない」
「……? 何が言いたいの」
言葉の意味をうまく飲み込めず、カトリナは眉を顰める。
そんな彼女を気にも留めず、オーギュストは静かに立ち上がると、ゆったりとした仕草で窓辺に立てかけていた大杖を手にした。
そして、
「わからないかい? 君はもう用済みだ、と。そう言っているのだよ」
「は——」
そう言うと、オーギュストは大杖の先をトンと床に打ち付けた。
同時、黒い靄がぶわりとカトリナの周囲に溢れ出した。
生き物のように蠢きながら、未だ事態を飲み込めずにいる彼女を包む。
「っ!? 何を——」
紫の瞳がそれを捉えた瞬間、カトリナは咄嗟に扇子振るい、その靄を一息に吹き散らした。
そして険しい目つきでオーギュストを睨み上げる。
「……どういうつもりかしら、オーギュスト。その『呪い』をこのわたくしにまで向けるというのなら、黙ってはいなくてよ」
「どうもこうも、君の目に映っている通りですよ。そもそも、私の『秘密』を知る者を、いつまでも生かしておくと思っていたのですか?」
「それで、わたくしまで操るつもり? 傍流の分際で、身の程を知りなさい。わたくしを敵に回すということは、ブランシェ家を敵に回すのと同じことよ!?」
「……本当に愚かな女だ、カトリナ。せめて君が『聖女』として役に立つ存在だったなら、見逃してあげてもよかったのですがね」
答える声は、もはや冷え切っていた。
いつも浮かべている柔和な笑みは鳴りを潜め、底知れない無の表情でカトリナを見据える。
「先日捕らえた侍女のおかげで、現在の異端審問の在り方に疑問を抱く者が増えてきている。これ以上、君を庇い立てする理由がありません」
言うと、オーギュストは再び大杖を床へ打ち付けた。とん、という軽い音と同時、また黒い靄が執務室に充満する。
「ちっ」カトリナは小さく舌打ちし、聖力を纏わせた扇子でそれを薙ぎ払う。また靄が襲う。いたちごっこだった。
オーギュストの聖力は、純粋な大きさだけならカトリナに及ばない。しかしあの大杖に嵌め込まれた宝玉が話を厄介にしていた。あれは彼の力を何倍にも増幅する。
そして何より恐ろしいのは、彼の能力そのものだった。あの靄に囚われたら最後、カトリナの心もまた彼により侵食されてしまうだろう。そう、すでに『呪い』によって心を奪われている勇者ディーンのように。
簡単に屈するつもりなどないが、それでも厄介なことには変わりなかった。
このままでは埒が明かない。
カトリナは周囲を覆う靄をもう一度薙ぎ払うと、素早く踵を返した。
まずはここを離れる。
そう判断し、出口へ向かって駆け出した——瞬間。
ガチャリ。
執務室の扉が開き、まばゆい白髪が姿を見せた。
抑揚のない声が執務室へと飛び込む。
「……ディーン・マリウス・ヴァレンティス。到着した」
「ディーン様!」
ディーンであった。
白い騎士服と青いマント、そしてその背に聖剣を担いだその男が、そこへ立っていた。
その姿を認めた瞬間、カトリナは高く声をあげ僅かに頬を緩める。
「ディーン様! どうしてこちらへ……」
愛しい男の姿に、カトリナは事態も忘れて喜んだ。彼の心を今誰が掌握しているのか、そんなことすらも忘れて。
そんな彼女に一瞥もくれず、ディーンはその深い青の目でただオーギュストを見据える。
「遅かったですね、ディーン。早速ですが仕事です」
その様子を見て、オーギュストはニコリと口角を持ち上げた。
いつもの穏やかな笑みを取り戻すと、ゆるりと片腕を上げ、まっすぐカトリナを指差し命じた。
「この女は『魔女』です。——捕らえなさい」
「了解した」
「きゃっ——!」
カトリナが何か言い返す隙もなく、ディーンは短く応じると同時、その身体を一瞬で拘束した。
ぐるんと反転した視界の端に、オーギュストの笑みが映る。
石床へ引き倒されてやっと、カトリナは事態を飲み込んだ。
「待っ……! ちが、誤解ですディーンさ、ぐぅっ!」
強く腕を捻り上げられ、苦悶の声を上げる。
拘束されたカトリナのすぐそばに、ディーンの美しい青の瞳が覗いた。
カトリナのよく知る空色のそれよりも、どこか淀んだ深い青の色。
その横顔を見て、ようやくカトリナは思い出した。
知っていたはずなのに。むしろ、自分もその一端に加担していたはずなのに。
自分へ向けられたその従順な暴力に、カトリナは激しい衝撃を受けた。
「…………離せ。離しなさい……!」
衝撃を振り払うように必死で暴れるが、びくともしない。勇者に武力で敵うはずなどなかった。
カトリナは歯を食いしばると、力を振り絞るように叫んだ。
「——オーギュスト! 聖女に対してこんな仕打ち、許されるとお思い!?」
金切り声が執務室に響いた。
その紫の瞳には、真黒な靄が執務室に充満するのがよく見えていた。
そして、その靄がディーンの身体へ絡みつくたび、彼の瞳がさらに深く曇っていく様が。
「まして魔女として断罪するだなんて、そんなことが何度も通用すると思っているの!?」
黒靄を睨みつけながら、カトリナはなおも叫ぶ。
それはおそらく事実だった。
先代に続き、現聖女までもが魔女として断罪などされたなら、流石に不審がる者も現れるだろう。少なくとも、聖女の選定そのものに問題があるのではないかと声を上げる者はいるはずだ。
先代を『魔女』として処刑できたのは、長い年月をかけて周到に地盤を固めてきたから。そして何よりカトリナという、ブランシェ家という強力な後ろ盾があったからに他ならない。
その自分を断罪など、できると思っているのなら見通しが甘すぎる。
「そうですね。たしかに本来、聖女を裁くとなればそこそこ骨が折れる」
だがオーギュストはなおも、その余裕を崩さなかった。
冷静な声音のまま、淡々と続ける。
「ですがあなたに関しては、裁く必要などない。だって、他でもない『魔女』が、あなたを始末してくれるのでしょう?」
「————っ!」
底冷えするような笑みでそう言うオーギュストに、カトリナは息を呑んだ。
本気だ。本気でこの男は、自分を切り捨てるつもりなのだ。
自らに迫る危機をようやく正しく認識したカトリナは、今度は必死に首を巡らせた。
そしてディーンを振り返り、縋るような声を上げる。
「ディ、ディーン様! ディーン様なら、信じてくださいますわよね!?」
そうしたところで、どうにもならないのはわかっていた。だけど縋らずにはいられなかった。必死で顔を上げ、自分を押さえつけるディーンへ懇願する。
しかし、
「命令だ。捕縛する」
返ってきたのは、相変わらず感情の欠片もない声だけだった。
どころか、拘束する腕にさらに力を込める。
「っ——!」
後ろ手に捻り上げられた腕がぎりと痛んだ。自分を見下ろす瞳はどこまでも冷たく、身体を押さえつける腕にも欠片ほどの容赦もなかった。
その無機質な行動に、カトリナはようやく自らの行いを後悔した。
——でも、わざわざ花を荒らすような奴でもないだろ。
……不意に、遠い昔の記憶が蘇った。まだ少年だった頃のディーンが、カトリナに対し口にした言葉だった。空を閉じ込めたような綺麗な色の瞳で、真っ直ぐにそう言った。カトリナが彼に、恋をした時の話だ。
「ディーン、様……」
カトリナはそう呟くと、そのまま崩れるように泣き伏した。
力なく項垂れた彼女を、ディーンはやはり感情の見えない動作で抱え上げ、そして何事もなかったかのように執務室を後にする。
重厚な扉がゆっくりと閉じていく、その直前。
扉の隙間から、オーギュストの姿が見えた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、こちらを見ている。
その目と目が合うと、オーギュストは笑みを崩さぬまま口を開いた。
「……おやすみ、カトリナ。いい夢を」
「……オーギュストおおおおおおお!!!!!」
瞬間、カトリナは絶叫した。憎悪と怒りに顔を歪め、ディーンの腕の中で激しく暴れ回る。
もちろんディーンは意にも介さず、暴れる身体を容易く押さえ込み、そのまま彼女を地下牢まで引きずって行く。
それでもカトリナは叫び続けた。オーギュストの名を、裏切りを、数々の悪行を。地下牢の奥深くに放り入れられてもなお、その声は止まることはなかった。
地下牢の最奥、かつてあの『魔女』も収監されていたその牢は、強大な聖力を持つ者を封じるための魔封じが施された特別な牢獄だった。最も重い禁忌を犯した者だけが入れられるとされるそこには、一般の神官はおろか、見張りの兵でさえ容易には近づけない。カトリナが捕らわれる頃にはすでに手を打っていたのだろう、食事も身の回りの世話もすべてオーギュストの息のかかった神官や巫女たちによって行われた。
それでもカトリナは叫び続けた。誰に届かなくても構わない。言葉を止めることの方がよほど耐え難かった。
決して許さぬ。許されぬ。
その想いだけを糧に、カトリナは枯れていく声を振り絞り喚き続ける。
全身を憎悪に燃えたぎらせながら、それでもカトリナは迫り来る『呪い』から逃れることはできなかった。牢獄の中にもまた、花が咲いた。白く小さな花弁を持つ、愛らしい花だった。まるで、アネリアそのもののような。
「忌々しい……! 邪魔をするんじゃないわ! あなただって、あの男を許せないはずでしょう!?」
自分へ向かって伸びてくる蔦を引きちぎりながら、カトリナは叫んだ。だが、『聖力』を封じられた今の彼女には、その花を灰に変えることはできない。
「——誰か! 誰か来なさいよ! このわたくしを誰だと思っているの!?」
叫べども叫べども、その声は誰にも届かない。
否、届いても、誰も助けになど来ない。
見張りの兵も、世話係を命じられた者も、彼らの仕事はただ『カトリナの最期を看取ること』ただそれだけだ。
「もう嫌……やめなさい……! ……来ないで。こっちへ、来ないで……!」
葉を手で振り払い、蔦を裸足で踏みつけ、それでも花は止まらない。くるぶしへ絡みつき、脚を這い、胸を伝い、じわじわとその領域を広げていく。
蔦に足を絡め取られ、身体を石床へ引き倒される。そして指先から腕へ、肩へ、首筋へ。全身を呑み込まれるように侵食されていった。もはや身動きも取れない。牢の外では見張り兵がただ静かにそれを見ている。
「っあなた、見ているのでしょう……! 助けなさ——んぅっ!?」
助けを求めて開けた口に、しゅるりと細い茎が滑り込む。「んん、ン゛——!」そのまま舌を這い、喉の奥まで潜り込む。息ができない。苦しさに涙が出た。白い脚で空を蹴る。喉が焼けるように痛んだ。
どうしてこうなったのか。そんなこと、考えずともわかっていた。草花に身体の自由を奪われながら、カトリナはただ過去へと思いを巡らせる。後悔など、とっくに消えていた。たとえ過去へ戻れたとしても、自分はきっと同じ道を選ぶだろう。カトリナはずっと、自らが望んだままに生きてきたのだから。
だから、この胸にあるのは悔恨ではない。ただひたすらに燃え盛る、憎悪の炎だけだった。
(見ていなさい、オーギュスト。このわたくしを愚弄したこと、わたくしは、決して、決して……!)
全身を蔦に絡め取られながら、カトリナは憎々しげに胸中で呟く。
しゅるしゅると巻き付く緑は、なおも勢いを増していった。蔦は肌へ食い込み、鋭い葉は皮膚を裂き、滲んだ血を白い花弁に落としていた。
やがてその細い蔦は、カトリナの白い首にも絡みつく。しゅるり、しゅるり。まるで彼女を愛おしむように巻き付きながら、じわじわとその首を締め上げていった。
その間にも牢獄は白い花で埋め尽くされていく。カトリナの足元に、頬に、流れる金の髪の上に、小さな花々が次々と咲く。
まるで亡骸へ手向けられる献花のように、花は美しく、そして冷たく咲き誇った。
「……見て、いなさ………………ディ……さ、ま…………」
ぎり、と首を締め上げる蔦が、最後の声を奪う。掠れた呟きだけが冷たい牢獄へと落ちた。
——そして、それきりその声は、
牢獄に響くことは二度となかった。
本日中に次話も更新します。




